第五章

 週明け、そろそろ梅雨つゆを感じさせる湿しつを感じながら登校すると着いたころには今までにも増してあせみずくになった。だれかこの坂道にエスカレータを付けるという公約をかかげて選挙に出るやつはいないものか。将来選挙権を得たときにそいつに投票してやってもいい。

 教室でしたきを団扇うちわ代わりにして首元から風を送り込んでいたら、めずらしく始業のかねギリギリにハルヒが入ってきた。

 どすりとかばんを机に投げ出し、

「あたしもあおいでよ」

「自分でやれ」

 ハルヒは二日前に駅前で別れたときとまったく変化のないぶつちようづらで唇をき出していた。最近マシな顔になったと思っていたのに、また元にもどっちまった。

「あのさ、涼宮。お前『しあわせの青い鳥』って話知ってるか?」

「それが何?」

「いや、まあ何でもないんだけどな」

「じゃあいてくんな」

 ハルヒはななめ上を睨み、俺は前を向き、岡部教師がやって来てホームルームが始まった。



 この日の授業中、げんオーラを八方に放射するハルヒのダウナーな気配がずっと俺の背中にプレッシャーをあたえていて、いや、今日ほど終業のチャイムがふくいんに聞こえた日はなかった。山火事をいち早く察知した野ネズミのように、俺は部室とうへと退たいする。

 部室で長門が読書する姿は今やデフォルトの風景であり、もはやこの部屋と切りはなせない固定の置物のようでもあった。

 だから俺は、一足先に部室に来ていた古泉一樹にこのように言った。

「お前も俺に涼宮のことで何か話があるんじゃないのか?」

 この場には三人しかいない。ハルヒは今週がそう当番だし朝比奈さんはまだ来ていない。

「おや、お前も、と言うからにはすでにお二方からアプローチを受けているようですね」

 古泉は、昨日図書館から借り出した本に顔をうずめている長門をいちべつする。すべてを知ってるみたいな訳知り口調が気に入らない。

「場所を変えましょう。涼宮さんに出くわすとマズイですから」

 古泉が俺をともなって訪れた先は食堂の屋外テーブルだった。ちゆうはんのコーヒーを買って俺にわたし、丸いテーブルに男二人でつくのもアレだけども、この際仕方がない。

「どこまでご存じですか?」

「涼宮がただ者ではないってことくらいか」

「それなら話は簡単です。その通りなのでね」

 これは何かのじようだんなのか? SOS団にそろった三人が三人とも涼宮を人間じゃないみたいなことを言い出すとは、地球温暖化のせいで熱気にあてられてるんじゃねえのか。

「まずお前の正体から聞こうか」

 宇宙人と未来人には心当たりがあるから、

「実はちようのうりよく者でして、などと言うんじゃないだろうな」

「先に言わないで欲しいな」

 古泉は紙コップをゆるゆると振って

「ちょっとちがうような気もするんですが、そうですね、超能力者と呼ぶのが一番近いかな。そうです、実は僕は超能力者なんですよ」

 俺はだまってコーヒーを飲んだ。減糖しておくべきだった。甘ったるい。

「本当はこんな急に転校してくるつもりはなかったんですが、じようきようが変わりましてね。よもやあの二人がこうも簡単に涼宮ハルヒとけつたくするとは予定外でした。それまでは外部から観察しているだけだったんですけど」

 ハルヒを珍しいこんちゆうか何かみたいに言うな。

 俺のまゆが寄ったのを見てとったか、

「どうか気を悪くしないで下さい。我々も必死なんですよ。涼宮さんに危害を加えたりはしませんし、むしろ我々は彼女を危機から守ろうとしているんですから」

「我々ってことは、お前のほかにもいっぱいいるのか。その超能力者とやらは」

「いっぱいってことはないですが、それなりには。僕はまつたんなので正確には知りませんが、地球全土で十人くらいでしょう。その全員が『機関』に所属しているはずです」

『機関』と来たか。

「実体は不明です。構成員が何人いるのかも。トップにいる人たちがすべてをとうかつしているそうですが」

「……それで、その『機関』なる秘密結社は何をする団体なんだ」

 古泉はぬるくなったコーヒーでくちびる湿しめらせ、

「あなたの想像通りですよ。『機関』は三年前のほつそく以来、涼宮ハルヒのかんを最重要こうにして存在しています。きっぱり言い切ってしまえば、涼宮さんを監視するためだけに発生した組織です。ここまで言えばそろそろおわかりでしょうが、この学校にいる『機関』の手の者は僕だけではありません。何人ものエージェントがすでにせんにゆう済みです。僕は追加要員としてここに来ました」

 だしぬけに俺は谷口の顔を思い出した。ハルヒとは中学からずっと同じクラスであるとか言っていた。まさか、あいつも古泉と同種類の人間なのか?

「さあ、それはどうでしょう」

 古泉はするりとしらばっくれ、

「しかしまあ、それなりの人員が涼宮さんの周りにいることは保証してもいいですよ」

 どうしてみんなそんなにハルヒが好きなんだ。エキセントリックでたけだかで周囲のめいわくかえりみない自己中女のどこにそんな大げさな組織からねらわれるような要因があると言うんだ。見てくれがいいのは認めてやっていいが。

「今から三年前に何があったのかは解りません。僕に解るのは、三年前のあの日、とつぜん僕の身に超能力としか思えない力が芽生えたことですね。最初はパニックでしたよ。こわい思いもずいぶんしましたしね。すぐに『機関』からおむかえが来て救われましたが、あのままではてっきり自分の頭がおかしくなったと思って自殺してたかもしれません」

 その時から今までずっとお前の頭はおかしくなり続けなんじゃないか。

「ええ、その可能性もなくはない。しかし我々はもっとすべき可能性をしているのですよ」

 ちよう的なみといつしよにコーヒーを飲み込んだ古泉は不意に真顔になった。

「あなたは、世界がいつから存在していると思いますか?」

 えらくマクロな話に飛んだな。

はるか昔にビッグバンとかいうばくはつが起きてからじゃないのか」

「そういうことになってますね。ですが我々は一つの可能性として、世界が三年前から始まったという仮説を捨てきれないのですよ」

 俺は古泉の顔を見返した。正気のとは思えんな。

「そんなわけがないだろ。俺は三年前より以前のおくだってちゃんとあるし、親だって健在だ。ガキのころにドブに落ちて三針ったきずあとだってちゃんと残ってる。日本史で必死こいて覚えている歴史はどうなるんだよ」

「もし、あなたをふくめる全人類が、それまでの記憶を持ったまま、ある日突然世界に生まれてきたのではないということを、どうやって否定するんですか? 三年前にこだわることもない。いまからたった五分前に全宇宙があるべき姿をあらかじめ用意されて世界が生まれ、そしてすべてがそこから始まったのではない、と否定出来るろんきよなどこの世のどこにもありません」

「…………」

「例えば、仮想現実空間を考えてみて下さい。あなたが脳に電極をめ込まれ、見ている映像や空気のにおいやテーブルをさわった感覚などが、全部直接脳にあたえられている情報なのだとしたら、あなたはそれが本当の現実でないと気付くことはないでしょう。現実とは、世界とは意外にもろいものなんです」

「……それはそれでいいことにしておこう。世界が三年前か五分前に始まったってのもまあいい。そこから何をどうひねったらハルヒの名前が出てくるんだ?」

「『機関』のおえら方は、この世界をある存在が見ている夢のようなものだと考えています。我々は、いやこの世界そのものがその存在にとっての夢にすぎないのではないかとね。なにぶん夢ですから、その存在にとって我々が現実と呼ぶ世界を創造したり改変したりすることなどはにも等しいはずです。そして我々はそんなことの出来る存在の名を知っています」

 ていねい語で落ち着いたしやべりのせいか古泉の顔つきは腹立たしいほど大人びて見えた。

「世界を自らの意思で創ったりこわしたり出来る存在──人間はそのような存在のことを、神、と定義しています」

 ……おい、ハルヒ。お前とうとう神様にまでされちまったぞ。どうすんだ。

「ですから『機関』の者はせんせんきようきようとしているんですよ。万が一、この世界が神の不興を買ったら、神はあっさり世界をかいして一から創り直そうとするかもしれません。砂場に作った山の形が気に入らなかった子供のように。僕はいくらじゆんに満ちた世の中だとは言え、この世界にそれなりの愛着をいだいています。ですので、『機関』に協力しているというわけなんです」

「ハルヒにたのんでみたらどうだ、世界を壊すのはどうかやめて下さいってな。聞いてくれるかもしれないぞ」

「もちろん涼宮さんは自分がそのような存在であることには無自覚です。彼女はまだ本来の能力に気付いていない。我々は出来ればしようがい気付かないままへいおん無事な人生を送ってもらいたいと考えています」

 ここでやっと古泉は元の笑みを取りもどした。

「言うならば彼女は未完成の神ですよ。自在に世界をあやつるまでにはなっていない。ただし未発達ながら、へんりんを見せるようにはなっています」

「どうして解る?」

「あなたは何故なぜ我々みたいなちようのうりよく者や、あるいは朝比奈みくるや長門有希のような存在がこの世にいると思うんですか。涼宮さんがそう願ったからですよ」

 宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。

 最初に出会った教室の自己しようかいでハルヒが述べたセリフがよみがえる。

「彼女はまだ自覚的に神のごとき力を発揮出来はしない。無意識のうちにぐうぜんその力を行使しているにすぎません。しかしこの数ヶ月ほど、明らかに人知をえた力が涼宮さんから放たれたことはわかっています。その結果は、もう言うまでもありませんね。涼宮さんは朝比奈みくると出会い、長門有希に出会い、そして僕をも彼女の一団に加えてしまった」

 俺だけけ者かよ。

「そうではありません。それどころか、あなたが一番のなぞなんです。失礼とは思いましたが、あなたについては色々調べさせてもらいました。保証します、あなたは特別何の力も持たないつうの人間です」

 ほっとしていいのか、悲しむべきなのか。

「解りませんね。ひょっとしたらあなたが世界の命運をにぎっているということも考えられます。これは我々からのお願いです。どうか涼宮さんがこの世界に絶望してしまわないように注意して下さい」

「ハルヒが神様だと言うのならな」と俺は提案した。「あいつをつかまえてかいぼうでもして、頭の中の仕組みでも調べるなりなんなりしてみたらどうだ。手っ取り早く世界の仕組みが解るかもしれないぞ」

「そのように主張するきようこう派も、確かに『機関』には存在します』

 あっさり古泉はうなずいた。

「ですが、軽々しく手を出すべきではないという意見で大勢はめられています。もしうっかりと神のげんそこねてしまうようなことがあれば、高確率で取り返しのつかないことになるでしょう。我々が望んでいるのは世界の現状ですから、涼宮さんには平和な生活を送っていただけることを希望しています。ヘタを打てば、ばちの中のぐりを取ろうとして結果、火傷やけどをすることになるだけですよ」

「……いったいどうすりゃいいんだよ」

「それも解りません」

「もし、もしもだな、ハルヒがポックリっちまったら世界はどうなる?」

「さて、同時に世界もいつしゆんにしてしようめつするのか、神なき世界が続くのか、また新しい神が生まれるのか。だれにも解りません。その時が来るまでね」

 紙コップのコーヒーはすっかり冷たくなっていた。飲む気がせて、俺はそれをテーブルのはしに追いやると、

「超能力者とか言ったな」

「ええ、我々はまたちがめいしようをつけていますが、簡単に言えばそれで間違いないでしょう」

「だったら何か力を使って見せてくれよ。そうしたらお前の言うことを信用してやる。例えばこのコーヒーを元の熱さに戻すとか」

 古泉は楽しそうに笑った。ふくみ笑い以外のみを見るのはこれが最初かもしれない。

「すみません無理です。そういう解りやすい能力とはちょっと違うんです。それに普段の僕には何の力もありません。力を使えるのはいくつかの条件が重なって初めて出来ることなんです。お見せする機会もあるでしょう」

 長々と話したりしてすみませんでした、今日はもう帰ります、と言って、古泉はにこやかにテーブルをはなれた。

 俺は軽快に去りゆく古泉の背中が見えなくなるまで見送って、ふと思いついて紙コップを手に取った。

 言うまでもないかもしれないが。

 当然、中身は冷たいままだった。



 部室に戻ると朝比奈さんが下着姿で立っていた。


「……」

 朝比奈さんはフリフリのエプロンドレスを手に持って、ドアノブを握ったままたたずむ俺をびっくりしたねこのように丸い目で見つめて、ゆっくりと口を悲鳴の形に開いていく。

「失礼しました」

 声を出される前に俺はみ出しかけていた足を元の位置にもどしてドアを閉めた。幸いなことに悲鳴は聞かずにすんだ。

 しまったな、ノックすべきだった。いや待て、えるんならかぎくらいかけておいてくれよなあ。

 もうまくに映った白いしんを長期おくに移行すべきかどうか考えていると、内側からひかえめなノックの音。「どうぞ……」声も控えめだ。

「すみません」

「いえ……」

 ドアを開けてくれた朝比奈さんの頭二つぶんくらい低いところにある旋毛つむじを見つつ謝る俺に、朝比奈さんは目元をうっすらピンクに染めて、

「わたしこそ、いつもずかしいところばかり見せちゃって……」

 全然けっこうです。

 どうやらハルヒの注文をちよくに守っているらしい。朝比奈さんは例のメイド服を着込んでしきりと恥じらっていた。

 やっぱり可愛かわいい。

 このまま朝比奈さんと見つめ合っていたら、さっきの映像やら何やらが脳内でこんがらがって究極的にダメになりそうだったので、俺は理性を総動員してリビドーをげいげき、団長席に座ってパソコンのスイッチを入れた。

 視線を感じて目を上げると長門有希がめずらしくこっちをながめていて、眼鏡めがねのブリッジに手をえてちょいと上げ、読書に戻る。みようなほど人間くさい仕草に見えた。

 HTMLエディタを起動してホームページファイルを呼び出す。いつまでも代わり映えしないSOS団サイトをどうにかしようと思ったのだが、何をどう発展させればいいのか見当もつかない。いつもに時間をろうしてたんそくとともにファイルを閉じるだけであり、だったらせんでもいいじゃないかという気もしつつ、何せヒマだからな。オセロもきたし。

 うでを組んでしんぎんする俺の前に湯飲みが置かれた。メイド服の朝比奈さんが、にっこりしてぼんかかげている。もうまるで本物のメイドさんに給仕されている気分。

「ども」

 さっき古泉にコーヒーをおごられたばかりだが、当たり前だ、ありがたくちようだいする。

 朝比奈さんはさらに長門にもお茶を配って、そのとなりに座り、ふーふー冷ましながらせんちやを飲み始めた。


 結局その日、ハルヒは部室に姿を現さなかった。



「昨日はどうして来なかったんだよ。反省会をするんじゃなかったのか?」

 例によって例のごとし。朝のホームルーム前に後ろの席に話しかける俺である。

 机にあごをつけてしていたハルヒはめんどうくさそうに口を開いた。

「うるさいわね。反省会なら一人でしてたわよ」

 けばハルヒは土曜に三人で歩いたコースを、昨日学校が引けた後で一人でめぐっていたのだと言う。

「見落としがあったんじゃないかと思って」

 犯行現場に何度も足を運ぶ習性のあるのはけいだけかと思っていたが。

「暑いしつかれた。ころもえはいつからなのかしら。早く夏服に着替えたいわ」

 衣替えは六月からだ。あと一週間ほど五月は残っている。

「涼宮、前にも言ったかもしれないけどさ、見つけることも出来ないなぞ探しはすっぱりめて、つうの高校生らしい遊びをかいたくしてみたらどうだ」

 ガバッと起きあがってにらみつけられる……ことを予想したのだが、あにはからんや、ハルヒはぐてっとほおを机にくっつけたままだった。疲れているのは本当のようだ。

「高校生らしい遊びって何よ」

 声にもうるおいがない。

「だから、いい男でも見つけて市内の散策ならそいつとやれよ。デートにもなって一石二鳥だろうが」

 あの日の朝比奈さんとの語らいを思い出しながら俺はそう提案する。

「それにお前なら男には不自由しないぞ。そのきような性格をいんぺいしていればの話だが」

「ふんだ。男なんかどうでもいいわ。れんあい感情なんてのはね、一時の気の迷いよ、精神病の一種なのよ」

 机をまくらにして窓の外へぼんやり視線を固定したまま、ハルヒは無気力に言った。

「あたしだってねー、たまーにだけどそんな気分になったりするわよ。そりゃ健康な若い女なんだし身体からだをもてあましたりもするわ。でもね、一時の気の迷いで面倒ごとを背負い込むほどバカじゃないのよ、あたしは。それにあたしが男あさりに精出すようになったらSOS団はどうなるの。まだ作ったばっかりなのに」

 ほんと言うとまだ出来てもいないんだがな。

「何か適当なお遊びサークルにすればいい。そうすりゃ人も集まるぞ」

「いやよ」

 一言できよぜつされた。

「そんなのつまんないからSOS団を作ったのに。えキャラと謎の転校生も入団させたのに。何も起こらないのは何故なぜなのよ? あああ、そろそろ何かパアッと事件の一つでも発生しないかな」

 こんなに参っているハルヒを見るのも初めてだが、弱気になっている顔は割合可愛かった。笑わなくても普通の顔をしているだけで、こいつはけっこうえがするんだ。つくづく、もったいない。

 その後、午前の授業中のほとんどを、ハルヒはじゆくすいして過ごした。一度も教師に発見されなかったのはせき……いやぐうぜんだろう、やはり。



 だがこの時、しくも事件はひそかに始まっていたのだ。パアッというほど派手じゃなかったからほとんどだれも知らないうちに始まって、また終わった事件なのだが、少なくとも俺は朝のホームルームの時点で、そうだな、足首にまでその事件にかっていたんだ。

 実はハルヒに話しかけながら、俺は一つのけんあんこうかかえていた。その懸案は朝、俺のばこに入っていたノートの切れはし

 そこには、

『放課後誰もいなくなったら、一年五組の教室に来て』

 と、明らかな女の字で書いてあった。



 どうかいしやくするか、脳内人格を結集して会議を開く必要がある。まず一人目が「前にも同じようなことがあったよな」と言っている。しかしこれはあのしおりに書いてあった長門の字とは明らかにちがう。あのしよう宇宙人モドキの字は機械のようにれいだったが、この紙切れの字はいかにも女子高生が書きそうな丸味を帯びている。それに長門なら下駄箱にメッセージを入れるなんて率直な手は使わないだろう。すると二人目が「朝比奈みくるってセンはないか」と言い出した。それもどうかと思う。千切ったノートの切れっ端にこんな時間指定もない伝言をよこすとは思えない。そうだな、朝比奈さんだったらちゃんとしたふうとう便びんせんで書いてくれるであろう。それに一年五組などと俺の教室を場所に指名しているのもおかしい。「ハルヒなら?」と三人目。ますますありえん。あいつならいつかのように階段のおどまでごういんに引っ張って行って話をつけるだろう。似たような理由で古泉説もきやつ。四人目がとうとう「じゃあ見も知らない第三の人物からのラブレター」。ラブレターかどうかはさておき、呼び出しを告げるれんらく文書であることは確かだ。相手が女とは限らないが。「のぼせるなよ。谷口と国木田あたりのとびっきりジョークかもしれないぜ」。そうだな、その可能性が最も理解しやすい。いかにもアホの谷口がやりそうな頭の悪いギャグのにおいがプンプンする。が、だったらもっとディテールにるような気もするのだが。

 そんなことを考えながら俺はワケもなく校内を練り歩いた。ハルヒは体調不十分を理由に早々に帰宅しちまった。好都合と言えば好都合だ。

 俺はいったん部室に行くことにした。あまり早く五組にもどって、それこそ誰もいない教室で誰とも知れないやつを待っているのもごうはらだし、待っている最中に谷口がやって来て、「よう、どんだけ待った? あんな紙切れ一枚でひょいひょいやって来るとは、お前も単純だなゲラゲラ」とか言われるともっとシャクにさわる。時間をつぶしてから教室をひょいとのぞいて、誰もいないことを確認してさっさと帰ろう。うむ、かんぺきな作戦だ。

 一人うなずきながら歩いている間に部室の前までたどり着いた。ノックを忘れない。

「はーい、どうぞ」

 朝比奈さんの返答を確認して俺はドアを開ける。朝比奈さんのメイド姿はいつ何回見てもれんだ。

おそかったんですね。涼宮さんは?」

 お茶をれてくれる姿も様になっている。

「帰りました。何だかつかれ気味のようでしてね。ぎやくしゆうするなら今ですよ、弱ってる最中みたいだから」

「そんなの、しませんよー」

 長門が読書に情熱をかたむける姿を背景に、俺たちは向かい合ってお茶を飲んだ。また元の無目的な同好会未満になっている感じ。

「古泉は来てないんですか?」

「古泉くんね、さっきちょっと顔を見せたんだけど、アルバイトがあるからって帰っちゃった」

 何のバイトなんだかな。ま、この様子ではここにいる二人が手紙の主ではなさそうだ。

 ほかにすることもないので俺と朝比奈さんはれがちの会話の合間にオセロをして、三戦全勝を俺がかざり、次いでネットにつないで二人してニュースサイトをぐるぐる回っていると長門がパタリと本を閉じ、最近はそれを部活しゆうりようの合図にしている俺たちは帰りたくを始めた。もうまったく何を活動しているのかわからない。

 えるから先に帰ってて、という朝比奈さんのお言葉に甘えて俺は部室を飛び出した。

 時計は五時半あたりを指している。教室に残っている生徒など一人としていまい。

 谷口だってしびれを切らして帰っちまってる時間だろう。それでも俺は二段飛ばしで階段をけ上がり、校舎の最上階を目指した。何事にも万が一ということがある。だろ?

 ひとえたろうで、俺は深呼吸一つ。窓はりガラスなので中の様子はうかがえないが、西日でオレンジ色に染まっていることだけは解る。俺はことさら何でもなさそうに一年五組の引き戸を開けた。



 だれがそこにいようとおどろくことはなかったろうが、実際にそこにいた人物を目にして俺はかなり意表をつかれた。まるで予想だにしなかった奴が黒板の前に立っていたからだ。

「遅いよ」

 朝倉涼子が俺に笑いかけていた。

 清潔そうなまっすぐのかみらして、朝倉はきようだんから降りた。プリーツスカートからびた細いあしと白いソックスがやけに目に付く。

 教室のなかほどに進んで歩みを止め、朝倉はがおをそのままにさそうように手をった。

「入ったら?」

 引き戸に手をかけた状態で止まっていた俺は、その動きに誘われるように朝倉に近寄る。

「お前か……」

「そ。意外でしょ」

 くったくなく笑う朝倉。その右半身が夕日にあかく染まっていた。

「何の用だ?」

 わざとぶっきらぼうにく。くつくつと笑い声を立てながら朝倉は、

「用があることは確かなんだけどね。ちょっと訊きたいことがあるの」

 俺の真正面に朝倉の白い顔があった。

「人間はさあ、よく『やらなくてこうかいするよりも、やって後悔したほうがいい』って言うよね。これ、どう思う?」

「よく言うかどうかは知らないが、言葉通りの意味だろうよ」

「じゃあさあ、たとえ話なんだけど、現状をするままではジリひんになることは解ってるんだけど、どうすれば良い方向に向かうことが出来るのか解らないとき。あなたならどうする?」

「なんだそりゃ、日本の経済の話か?」

 俺の質問返しを朝倉は変わらない笑顔で無視した。

「とりあえず何でもいいから変えてみようと思うんじゃない? どうせ今のままでは何も変わらないんだし」

「まあ、そういうこともあるかもしれん」

「でしょう?」

 手を後ろで組んで、朝倉は身体からだをわずかに傾けた。

「でもね、上の方にいる人は頭が固くて、急な変化にはついていけないの。でも現場はそうもしてられない。手をつかねていたらどんどん良くないことになりそうだから。だったらもう現場の独断できようこうに変革を進めちゃってもいいわよね?」

 何を言おうとしているんだ? ドッキリか? 俺はそう用具入れにでも谷口がかくれてるんじゃないかと思って教室をわたした。隠れやすそうな所は、あときようたくの中とかか。

「何も変化しない観察対象に、あたしはもうき飽きしてるのね。だから……」

 キョロキョロするのに気を取られて、俺はあやうく朝倉の言うことを聞きらすところだった。

「あなたを殺して涼宮ハルヒの出方を見る」

 ほうけているヒマはなかった。後ろ手に隠されていた朝倉の右手がいつせん、さっきまで俺の首があった空間をにぶい金属光がいだ。

 ねこひざいて背中をでているような笑顔で、朝倉は右手のナイフを振りかざした。軍隊に採用されてそうなおそろしげなナイフだ。

 俺が最初のいちげきをかわせたのはほとんどぎようこうだ。そのしように俺は無様にしりもちをついて、しかもアホづらで朝倉の姿を見上げている。マウントポジションを取られたらげようがない。あわててバッタみたいにびすさる。

 なぜか朝倉は追ってこない。

 ……いや、待て。このじようきようは何だ? なんで俺が朝倉にナイフをきつけられねばならんのか。待て待て、朝倉は何と言った? 俺を殺す? ホワイ、なぜ?

じようだんはやめろ」

 こういうときにはじようとうしか言えない。

「マジ危ないって! それが本物じゃなかったとしてもビビるって。だから、よせ!」

 もうまったくワケが解らない。解るやつがいたらここに来い。そして俺に説明しろ。

「冗談だと思う?」

 朝倉はあくまで晴れやかに問いかける。それを見ているとまるで本気には見えない。笑顔でナイフを向けてくる女子高生がいたら、それはとてもこわいと思う。と言うか、確かに今俺はめっちゃ怖い。

「ふーん」

 朝倉はナイフの背でかたたたいた。

「死ぬのっていや? 殺されたくない? わたしには有機生命体の死のがいねんがよく理解出来ないけど」

 俺はそろそろと立ち上がる。冗談、シャレだよな、これ。本気だったらシャレですまされんが。だいたい信じられるわけがないだろ。別にどろぬま化したあげくこっぴどく振った女でもなくクラスでもロクにしやべりゃしないな委員長にものりつけられるなんて、本気の出来事だと思えるわけがない。

 だが、もしあのナイフが本物だったなら、とっさにけなければ俺はいまごろ血だまりの中にしずんでいたにちがいないだろう。

「意味がわからないし、笑えない。いいからその危ないのをどこかに置いてくれ」

「うん、それ無理」

 じやそのもので朝倉は教室で女子同士かたまっているときと同じ顔で微笑ほほえんだ。

「だって、あたしは本当にあなたに死んで欲しいのだもの」

 ナイフをこしだめに構えた姿勢で突っ込んで来た。速い! が、今度は俺にもゆうがあった。朝倉が動く前にだつのごとく走り出し、教室から逃げだそう──として、俺はかべげきとつした。

 ?????

 ドアがない。窓もない。ろう側に面した教室の壁は、まったくのり壁さながらにネズミ色一色で染まっていた。

 ありえない。

なの」

 背後から近づいてくる声。

「この空間は、あたしの情報せいぎよ下にある。だつしゆつふうした。簡単なこと。このわくせいの建造物なんて、ちょっと分子の結合情報をいじってやればすぐに改変出来る。今のこの教室は密室。出ることも入ることも出来ない」

 り返る。夕日すら消えている。校庭側の窓もすべてコンクリートの壁に置きわっていた。知らないうちに点灯していたけいこうとうが寒々しく並んだ机の表面を照らしている。

 うそだろ?

 うすかげゆかに落としながら朝倉がゆっくりと歩いてくる。

「ねえ、あきらめてよ。結果はどうせ同じことになるんだしさあ」

「……何者なんだ、お前は」

 何回見ても壁は壁でしかない。立て付けの悪かった引き戸もりガラスの窓も何もない。それとも、どうかしちまったのは俺の頭のほうなのか。

 俺はじりじりと机の間をぬって朝倉から少しでもはなれようとする。しかし朝倉は一直線に俺に向かってきた。机が勝手に動いて朝倉の進路をぼうがいしないようにしているのに比べて、俺の下がる先には必ず机が一団になっている。

 おっかけっこは長くは続かず、俺はたちまちのうちに教室のはしに追いやられた。

 こうなったら。

 を持ち上げて思い切り投げつけてやった。椅子は朝倉の手前で方向てんかんすると横に飛んで、落ちた。そんなアホな。

「無駄。言ったでしょう。今のこの教室はすべてあたしの意のままに動くって」

 待て待て待て待て。

 何だこれは。何なんだこれは。冗談でもシャレでも俺か朝倉の頭が変になったわけでもないとしたら、いったいこれは何だ。

 あなたを殺して涼宮ハルヒの出方を見る。

 またハルヒか。人気者だな、ハルヒ。

「最初からこうしておけばよかった」

 その言葉で俺は身体からだを動かせなくなっているのを知る。アリかよ! 反則だ。

 足が床から生える木にでもなったみたいにどうだにしない。手もパラフィンで固められたみたいに上がらない。それどころか指一本動かせない。下を向いた状態で固定された俺の視線に朝倉のうわきが入ってきた。

「あなたが死ねば、必ず涼宮ハルヒは何らかのアクションを起こす。多分、大きな情報ばくはつが観測出来るはず。またとない機会だわ」

 知らねえよ。

「じゃあ死んで」

 朝倉がナイフを構える気配。どこをねらってるんだろう。けいどうみやくか、心臓か。解っていれば少しは心構えも出来るんだが。せめて目を閉じ……れない。なんつうこっちゃ。

 空気が動いた。ナイフが俺に降ってくる。

 その時。

 てんじようをぶち破るような音とともにれきの山が降ってきた。コンクリートの破片が俺の頭にぶつかって痛えなこのろう! 降り注ぐ白い石の雨が俺の身体を粉まみれにして、このぶんじゃ朝倉も粉だらけだろう、しかし確認しようにも身体がピクリとも……あれ、動く。

 顔を上げた俺は見た。何を?

 俺の首筋に今にもれようとしているナイフの切っ先とナイフのさかにぎっておどろきの表情で静止する朝倉とナイフので握りしめている──素手でだぜ──長門有希のがらな姿だった。

「一つ一つのプログラムが甘い」

 長門は平素と変わらない無感動な声で、

「天井部分の空間へいも、情報封鎖も甘い。だからわたしに気づかれる。しんにゆうを許す」

じやする気?」

 対する朝倉も平然たるものだった。

「この人間が殺されたら、ちがいなく涼宮ハルヒは動く。これ以上の情報を得るにはそれしかないのよ」

「あなたはわたしのバックアップのはず」

 長門はきようのようなへいたんな声で、

「独断専行は許可されていない。わたしに従うべき」

「いやだと言ったら?」

「情報結合を解除する」

「やってみる? ここでは、わたしのほうが有利よ。この教室はわたしの情報制御空間」

「情報結合の解除をしんせいする」

 言うが早いか、長門の握ったナイフの刃がきらめき出した。紅茶に入れた角砂糖のように、しようけつしようとなってサラサラとこぼれ落ちていく。

「!」

 ナイフを放して朝倉はいきなり五メートルくらい後ろにジャンプした。それを見て俺は、

 ああ、この二人本当に人間じゃないみたいだな、とかゆうちようなことを思った。

 一気にきよかせいだ朝倉は教室の後ろにふわりと着地。微笑ほほえみは変わりない。

 空間がぐにゃりとゆがんだ。としか言いようがない。朝倉も机も天井もゆかもまとめてらぎ、液体金属のように変化する様が見て取れたが、よくは見えない。

 ただその空間そのものがやりのようにぎようしゆくする、と思ったしゆんかんには長門のかざしたてのひらの前で結晶が爆発したことだけがわかった。

 かんはつ置かず、長門の周囲で次々と結晶の粉がさくれつしてはい落ちる。空間をこごめた槍状の武器が視認不可能な速度で俺たちをおそい、長門の手が同様の速度でそのすべてをげいげきしていることに気付いたのは、しばらくたってからのことだった。

「離れないで」

 長門は朝倉のこうげきはじきながら片手で俺のネクタイをつかんで引き下ろし、俺はかがみ込んだ長門の背中に乗っかるような体勢でひざをついた。

「うわっ!」

 俺の頭を見えない何かがかすめて黒板を粉々にたたつぶした。

 長門がチラリと上を見上げる。そのせつ、天井から氷柱が生えて朝倉の頭上に降り注ぐ。残像だけを残す高速移動。天井色の氷柱が床に何十本ともなくき立って林を作る。

「この空間ではわたしには勝てないわ」

 まったくのゆうの表情で朝倉はたたずんでいる。数メートルの間をはさんで長門とたい。俺はと言うと、情けないことにこしが立たず、床にへばりついていた。

 長門は俺の頭をまたいで立っていた。にも上履きの横に小さく名前を書いているのがこいつらしい。小説の朗読をするような口調で長門は何かをつぶやいた。こう聞こえた。

「SELECTシリアルコードFROMデータベースWHEREコードデータORDER BY攻性情報せんとうHAVINGターミネートモード。パーソナルネーム朝倉涼子を敵性と判定。とうがい対象の有機情報連結を解除する」

 教室の中はもうまともな空間ではなくなっていた。何もかもが学模様と化してわんきよくし、うずを巻いておどっている。見ているといそうだ。まるで遊園地のビックリハウスに乗っているような視覚効果。目が回る。

「あなたの機能停止のほうが早いわ」

 ごくさいしきしんろうかげかくれた朝倉の声がどこから聞こえてくるのか全然解らない。

 ヒュン、と風切り音。

 長門のかかとが俺を思い切り飛ばした。

「なにす」

 る、と言いかけた俺の鼻先を見えない槍が通過、床がめくれ返る。

「そいつを守りながら、いつまで持つかしら。じゃあ、こんなのはどう?」

 次の瞬間、俺の前に立ちはだかった長門の身体からだが一ダースほどの茶色の槍につらぬかれていた。

「…………」

 つまり、朝倉は俺と長門に向かって同時に多方向から攻撃を加え、そのうちのいくつかを結晶化して無効にしたものの、迎撃しきれなかった槍が俺を襲い、俺を守るために長門は自分の身体を使用した、ということだったのだが、この時の俺にはそんなこと知るよしもなかった。

 長門の顔から眼鏡めがねが落ちて、床で小さくねた。

「長門!」

「あなたは動かないでいい」

 胸から腹にかけてビッシリと突きさった槍をいちべつして長門は平然と言った。

 せんけつが長門の足許に小さな池を作り始めている。

「へいき」

 いや、ちっとも平気には見えねえって。

 長門はまゆ一つ動かさずに身体に生えた槍を引きいて床に落とした。かわいた音を立てて転がった血まみれの槍は、数瞬ののちに生徒机へと姿を変える。槍の正体はそれか。

「それだけダメージを受けたら他の情報にかんしようする余裕はないでしょ? じゃ、とどめね」

 揺らぐ空間の向こうに、朝倉の姿が見え隠れする。笑っている。両手が静かに上がり──俺のちがいでなければ、指先からうでまでがまばゆい光に包まれて二倍ほどにびた。いや、二倍どころか──。

「死になさい」

 朝倉の腕が、さらに伸び、しよくしゆのようにのたくってとつしゆつ、左右からの同時攻撃、動けない長門のがらな身体が揺れ……。俺の顔に赤くて温かい液体が飛び散った。

 右のわきばらに突き立った朝倉の左腕と、左胸を貫いた右腕が、背中を突きやぶって教室のかべをもぶち抜いてようやく止まっていた。

 長門の身体からき出した血が白い足をつたって床のまりのはばを拡大させていく。

「終わった」

 ポツリと言って、長門は触手をにぎった。何も起こらない。

「終わったって、何のこと?」

 朝倉は勝ちを確信したかのような口調。

「あなたの三年あまりの人生が?」

「ちがう」

 これだけの重傷を負いながら長門は何もなかったように言った。

「情報連結解除、開始」

 いきなりだ。

 教室のすべてのものがかがやいたかと思うと、その一秒後にはキラキラした砂となってくずれ落ちていく。俺の横にあった机も細かいりゆうに変じて、ほうかいする。

「そんな……」

 てんじようから降るけつしようつぶを浴びながら、今度こそ朝倉はきようがくの様子だった。

「あなたはとてもゆうしゆう

 長門の体中に刺さったやりも砂になる。

「だからこの空間にプログラムを割り込ませるのに今までかかった。でももう終わり」

「……しんにゆうする前に崩壊因子を仕込んでおいたのね。どうりで、あなたが弱すぎると思った。あらかじめこうせい情報を使い果たしていたわけね……」

 同じく結晶化していく両腕をながめながら朝倉は観念したように言葉をいた。

「あーあ、残念。しょせんわたしはバックアップだったかあ。こうちやく状態をどうにかするいいチャンスだと思ったのにな」

 朝倉は俺を見てクラスメイトの顔にもどった。

「わたしの負け。よかったね、延命出来て。でも気を付けてね。統合思念体は、この通り、一枚岩じゃない。相反する意識をいくつも持ってるの。ま、これは人間も同じだけど。いつかまた、わたしみたいな急進派が来るかもしれない。それか、長門さんのあやつり主が意見を変えるかもしれない」

 朝倉の胸から足はすでに光る結晶におおわれていた。

「それまで、涼宮さんとお幸せに。じゃあね」

 音もなく朝倉は小さな砂場となった。ひとつぶ一粒の結晶はさらに細かく分解、やがて目に見えなくなるまでになる。

 さらさら流れ落ちる細かいガラスのような結晶が降る中、朝倉涼子という女子生徒はこの学校から存在ごとしようめつした。

 とすん、と軽い音がして、俺はそっちへ首をねじ曲げ、長門がたおれているのを発見してあわてて立ち上がった。

「おい! 長門、しっかりしろ、今救急車を、」

「いい」

 目を見開いて天井を見上げながら長門は、

「肉体の損傷はたいしたことない。正常化しないといけないのは、まずこの空間」

 砂のほうらくが止まっていた。

「不純物を取り除いて、教室を再構成する」

 見る間に一年五組が見慣れた一年五組へと、元通りに、そうだな、まるでビデオの逆回しだな、いつもの教室に戻っていく。

 白い砂から黒板が、きようたくが、机が生まれて、放課後教室を出た時と同じ場所に並んでいく光景は、何と言えばいいんだろうな。こうして生で見ていなければ良く出来たCGだと思ったろうな。

 壁だったところにまどわくが出来て、すうっととうめい化して窓ガラスとなる。西日がオレンジ色に俺と長門をさいしよくした。試しに自分の机の中を調べてみたら、ちゃんと入れたままにしておいたものがそのまま入っている。俺の体中に散った長門の血もいつしか消えている。たいしたもんだ。ほうとしか思えない。

 俺はまだている長門のわきかがみ込んだ。

「本当にだいじょうぶなのか?」

 確かにどこにもケガがあるように見えない。あれだけさっていたら制服も穴だらけだと思ったが、そんなものは一つもなかった。

「処理能力を情報の操作と改変に回したから、このインターフェースの再生は後回し。今やってる」

「手を貸そうか」

 俺のばした手に、案外素直にすがりついた。上体を起こしたところで、

「あ」

 わずかにくちびるを開いた。

眼鏡めがねの再構成を忘れた」

「……してないほうが可愛かわいいと思うぞ。俺には眼鏡属性ないし」

「眼鏡属性って何?」

「何でもない。ただのもうげんだ」

「そう」

 こんなどうでもいい会話をしている場合ではなかったのである。後々俺は、とことんやむことになる。長門を置き去りにしてでも、さっさとこの場を立ち去るべきだったかと。

「ういーす」

 ガサツに戸を開けてだれかが入ってきた。

「わっすれーもの、忘れ物ー」

 自作の歌を歌いながらやって来たそいつは、よりにもよって谷口だった。

 まさか谷口もこんな時間に教室に誰かがいるとは思わなかっただろう。俺たちがいるのに気づいてギクリと立ち止まり、しかるのちに口をアホみたいにパカンと開けた。

 この時、俺はまさに長門をき起こそうとするモーションに入ったばかりだった。その静止画をみたら、逆に押し倒そうとしているとも思えなくもない体勢なわけで。

「すまん」

 聞いたこともないな声で谷口は言うとザリガニのように後ろへ下がり、戸も閉めないで走り去った。追うヒマもなかった。

おもしろい人」と長門。

 俺は盛大なため息をついた。

「どうすっかなー」

「まかせて」

 俺の手にもたれかったまま動くことなく長門は言った。

「情報操作は得意。朝倉涼子は転校したことにする」

 そっちかよ!

 などとツッコンでいる場合ではない。とうとつに俺はがくぜんとした。よく考えたら俺はとんでもない体験をしてしまったんじゃないか? この前に長門が延々と語ったデンパ話、トンチキなもうそう語りを信じるとか信じないとかいう問題ではない。半信半疑とも言ってられん。さっきの出来事は本気のヤバさとは何かを俺に実感させてくれた。マジで死ぬかと思った。長門がてんじようから落ちてこなければ、確実に俺は朝倉によって強制しようてんさせられていただろう。ぐにゃぐにゃした教室の光景も、バケモノじみた姿になった朝倉も、それをどうやってかしようめつさせてしまった長門の無感動さも、それらはすべてリアルに俺の身へと降り注いだことだった。

 これじゃ、長門が本格的に宇宙人か何かの関係者であることを納得せざるを得ないではないか。

 おまけに、このままでは俺はこのイカレタじようきようの当事者になってしまう。ぼうとうに言ったとおり、俺は巻き込まれ型のぼうかん者でいたいのだ。わきやくじゆうぶんなのだ。なのに、これではまるで俺が主人公みたいじゃねえか。確かに俺は宇宙人みたいなやつが出てくる物語の登場人物になりたいとかつて思っていたが、本当に自分がそんなキャラになってしまうとなると話は別だ。

 はっきり言や、困る。

 何かしらの問題に直面して困っている奴に横から半笑いで適当なアドバイスをするような、そんな役割を俺は望んでいたのだ。こんな俺自身がクラスメイトに命をねらわれるような、不条理な展開は願い下げにしたい。本当の話、俺はまだ人生にしゆうちやくがあるのだ。

 オレンジ色に染められた教室で、俺はしばしぜんとしたままこうしていた。長門の体重を感じさせない身体からだを支えたままで。

 これは……いったいどうしたものだろう? 俺は何を思えばいいんだ? けていたおかげで俺は、とっくに再生とやらがしゆうりようした長門が無表情に見上げていることにも気付かずじまいだった。



 翌日、クラスに朝倉涼子の姿はなかった。

 当たり前と言えば当たり前のことなのだが、それを当たり前だと思っているのはどうやら俺だけであり、岡部担任が、

「あー、朝倉くんだがー、お父さんの仕事の都合で、急なことだと先生も思う、転校することになった。いや、先生も今朝聞いておどろいた。なんでも外国に行くらしく、昨日のうちに出立したそうだ」

 と、あまりにもうそくさいことをホームルームで言ったときも、「えーっ?」「何でーっ?」と主に女子どもがさわぎ立て、男子連中も、ザワ……ザワ……と顔を見合わせ、岡部教師も首をひねっていたわけなのだが、もちろんこの女もだまっていたりはしなかった。

 ごん、と俺の背中をこぶしいて、

「キョン。これは事件だわ」

 すっかり元気を取りもどした涼宮ハルヒが目をかがやかせていた。

 どうする? 本当のことを言うか?

 実は朝倉は情報統合思念体なる正体不明の存在に作られた長門の仲間で、なんか知らんが仲間割れして、その理由が俺を殺すか殺さないかで、なぜ俺かと言うとハルヒの情報がどうのこうので、あげくの果てに長門によって砂に変えられてしまいました、とさ。

 言えるわけねえ。つーか俺が言いたくない。あれはすべて俺のげんかくだったと思っていたいくらいなのだ。

なぞの転校生が来たと思ったら、今度は理由も告げずに転校していく女子までいたのよ。何かあるはずよ」

 かんの良さをめてやるべきなのだろうか。

「だから親父おやじの仕事の都合なんだろ」

「そんなベタな理由は認めらんない」

「認めるも認めないも、転校の理由で一番ポピュラーなのはそれだろうよ」

「でもおかしいでしょ。いくら何でも昨日の今日よ。転勤の辞令からしまで一日もないって、どんな仕事よ、それ」

むすめに知らせてなかったとか……」

「あるわけないわよ、そんなの。これは調査の必要ありね」

 仕事の都合というのは言い訳で本当はげだったんじゃないかとか言おうとしたがやめておいた。それが真実でないのは俺が一番よく知っている。

「SOS団として、学校の不思議を座視するわけにはいかないわ」

 やめてくれ。

 昨日の事件は俺にてつてい的な変革を要求せしめた。なにしろ、マジモノのちようじよう現象をの当たりにしてしまったのだから、それをなかったことにするには、俺の目か頭かのどちらかがどうにかしていたか、この世界そのものが実はおかしかったのか、実は俺は長々と夢を見続けているのかの、どれかを選ばなくてはならなくなってしまった。

 そして俺はこの世界が非現実のシロモノだとは、どうしても思うことが出来ないでいるのだ。

 まったく、人生の転機が訪れるには、十五年と数ヶ月は少々早すぎの気がしやしないか?

 なんで俺は高一にして、世界の在り方などというてつがく的な命題に直面しなければならないのだろう。そんなもん、俺が考える事ではないはずだ。これ以上、余計な仕事を増やさないで欲しい。

 そうでなくとも、俺はまたまたけんあんこうかかえているんだからな。

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