言ふ花

三屋城衣智子

前編

 



 どろりと咲く。




「あんたなんか大嫌い!!」

「杏奈……!」

 少女――関口杏奈(せきぐちあんな)は、そう言い捨てると友人の舞美(まいみ)と話していた学校の廊下を、下駄箱へとひた走った。何人かには見られたが、もう杏奈は気にしてはいられなかった。

 目にはとめどなく涙が溢れ、そのふっくらとしてまだ幾分いくぶんかあどけない頬を、うるおすかのように流れていく。頬を伝いきった後の水滴が宙に散った。

 それはキラキラと。とてもキラキラと夕方の太陽の光を浴びてひかり、虹のように消えていった。

 杏奈は下駄箱にくると外履きのスニーカーに履き替え、家への道を足速に歩いた。白く艶やかな新品の靴底がきゅっと鳴く。高校生の割に普段から化粧っ気のない杏奈の目元は段々と赤く腫れていく。一度ぐいっと手の甲でぬぐうと、彼女は前を見据えて今度はゆっくりと歩き始めるのだった。

 舞美とは高校で出会った。ふんわりとした雰囲気の彼女は、性格もおっとりしていて可愛らしくけれども少々うっかりとしていた。いつだったか無くしものをして泣きながらウロウロしているところを通りかかり、杏奈が一緒に探したことで良く話すようになった仲だった。

 親友だと思っていた。なのに。


 つらつらとそんなことを考えながら、夕飯の買い物を済ませた主婦や、遊びから帰るのだろう小学生の群れとすれ違う。

 ふと横を見ると、見知った商店街の中に一つ、これまで見たことのなかった看板がかかっているのが見えた。遠く、丸く紫色に仄暗く光るその看板には、ひらがなで「さきや」と書かれている。何の店なのか全くわからない。興味をそそられた杏奈は、足先を方向転換させ、商店街の中を歩くことにした。

 夕飯時、お肉屋さんではコロッケを買い求めるちょっとした列ができ、魚屋さんでは今日で最後と見切り品の値下げの声が響いている。その中を少しキョロキョロしつつも前へと歩く杏奈は、やがて目当ての店の前へと着いた。その店は白い壁に剥き出しの木の柱が見えるようなデザインで、店の扉は彫刻の施された木製だった。ガラス窓は付いていないので、中の様子は見えない。

「何のお店だろう?」

 裏から覗いてみたらわかるだろうか、そんな考えも浮かんだが、店構えの列を見る限り店の裏手は普通に壁だろう。二階の部分が住宅になっているのもあって、杏奈は裏へと回る案を自身で却下した。

「変なお店だと嫌だし……けど、なんか気になるなあ」

 そこにいきなりカランコロンという鐘の音が響いた。自分の考えに夢中になっていた杏奈はびくりと体をすくませる。目の前のドアから、誰か人が出てきたようだ。

「ありがとうございました! 本当に、何と言っていいか。帰ってすぐにやってみようと思います」

「お気になさらずに。これが生業ですから」

「本当に、ありがとうございました」

「お気をつけてお帰りください」

 年の頃は三十代くらいだろうか。ベージュのハイヒールに品の良いブラウス、スカートは膝すぐ上でどこかの企業に勤めていそうなスタイルだ。相手の店主の方は、男性だか女性だかちょっとわからない顔立ちで、こちらも白いカッターシャツにてろんとした黒いパンツを履いてどことなく品が良い。

 その店主は客を見送ると、目端に映った杏奈に声をかけた。

「お嬢さん、うちの店に用かな?」

「え? あっ、ハイ」

 杏奈はいきなり話しかけられたことに動揺したようだった。迷っていた気持ちなどなかったように肯定する返事をし、すんなりと、案内されるがまま木製のドアから店内へと足をすすめた。

「うわぁ……」

 入るなり彼女の口から感嘆のため息が漏れる。そこにあったのは、色とりどりのランタンが天井に吊るされ、これまた多色の花々集まる、まるで異国のような空間だった。

 杏奈はあたりを見渡す。見知った薔薇の花、見たことがあるけれど名前のわからない花、珍しく桜の枝。バケツに入れられあるものはそのまま床に、あるものはガラスケースの中に行儀よく並んでいる。ランタンは丸く、ステンドグラスのように花とか海とか風景など、色々な絵が描かれていて目に楽しい。

「すごい、綺麗」

「お褒めにあずかり光栄だな」

 店主はサイフォンからコーヒーを注ぐと、店の奥にある二つほどの机の一つに、それを置いた。どうやら奥にキッチンがあるらしい。お湯でも沸かしているのか、しゅんしゅんと音が鳴っている。

「コーヒーでもどうぞ」

「ありがとうございます、でもいいんですか?」

 杏奈は店の入り口に立ったまま返事をした。

「何がだい?」

 店主は何を言っているか本当にわからないかのように、首を傾げながらこたえた。

「えっと、雑貨屋さん、なんですよね? 私買いにきたわけでもないのに、コーヒーいただいちゃっていいのかなって」

「構わないよ。確かに雑貨と生花を売っているけれど、コーヒーは趣味なんだ。ふむ。それでいくと私はむしろ押し売りしてるのかもね」

「ふふふ。じゃあ、遠慮なく押し売られます」

 なんだか語り口が面白い人だ。杏奈はひとしきり笑うと、店の奥に入り椅子へと座った。店の奥に来てみると、なるほど小ぶりなキッチンには二口のIHコンロへ薬缶やかんがかかっていた。クリーム色したそれは、本体に花柄が帯のようにぐるりと描かれていて、少しレトロに杏奈には感じられた。キッチンの裏には木製の手すりのついた階段がある。手すりには店のドアと同じく精緻せいちな細工が施されているようだ。店内は細々デザインがありつつも雑多には何故か感じなかった。物もたくさんあるが、綺麗に整頓されている。

 整えられたその場所に、杏奈は気付かぬうちに力の入っていた体の強張りを解いた。椅子の背もたれにゆったりと、背中を預ける。店主がそこへ、チョコレートの入った皿を持ってやってきた。

「よければどうぞ。貰い物なんだけれど」

「ありがとう、ございます」

 目の前に置かれた皿の上のチョコレートは、つるりとまるく、これまた花の柄がワンポイントで入っており、ランタンの光を浴びてとても美味しそうに杏奈の目に映った。店主はきびすを返すと、自身が飲むのだろう、ティーバッグをカップに入れ薬缶のお湯を入れた。

「いえいえ。ところで、目元が真っ赤だけれど、大丈夫?」

 彼はカップ&ソーサーと共に彼女の向かいの椅子に腰掛けると、ひっそりとした声で尋ねた。杏奈はハッとしたように両手を目元にやる。セーラー服のスカーフが腕に当たって揺れた。

「何でも、ないです」

「本当に?」

 じっと、店主は杏奈の目を見つめた。彼女は視線を逸らすとカップに手を伸ばし、一口、自分を落ち着かせるようにコーヒーを口に含んだ。

 それを見ながら肘をつき顎に手を当て、店主はじぃと杏奈を見る。彼女は気まずい思いをした。ほぼ初対面だのに何かを見透かされるような気さえした。なのに、どうしてかまた店主の方へと視線をやってしまい目を逸らすことができない。

「何で。そう思ったんですか」

「だって、今にも泣きそうだよ」

 とても柔らかな声で、店主がこたえた。表情はびた一文変わっていないのに、杏奈にはそれが心配する声のように感じた。ふわり、花の甘やかな香りがする。口の中でとろりと溶けるような。

 杏奈は思わず口にしていた。

「友人に、彼氏を取られたんです」

「それは……何と言っていいか」

 店主は、少し気の毒そうに言って自身も入れたての紅茶を口に含む。杏奈は目の前の唇を注視した。それから鼻筋を、その後で豊かなまつ毛を。白磁のような肌は艶めかしく。触ると柔らかいのだろうか、それともつるりと冷ややかなのだろうか――そんな考えがなぜか杏奈の脳裏に浮かんだ。

「高校に入学して出会ったんです、彼と」

 杏奈の彼とは、入学式に少し遅刻した時、うっかりぶつかった相手だった。

「いってっ」

「あっ! ご、ごめんなさい」

「あー怪我はないから、いいよ。そっちは大丈夫だった?」

 転んだというのに気にした風もなく、むしろ彼女を心配すらして。お尻を叩きながら立ち上がって、はにかむ顔が綺麗だと思った。

「それで?」

 店主に促され、コーヒーを一口飲むと、杏奈はまた口を開く。

「同じクラスになったんです、その、 正吾しょうごと」

 偶然だね、と笑い合ってお互い名前と簡単な自己紹介をした。そうしたら、またまた偶然に隣の席になって。

「素敵な出会いだね」

「はい。それから仲良くなって、ひと月たったくらいかな? 彼から告白してくれて、付き合うことになったんです」

 最初のデートは水族館。映画館で恋愛映画やアクション映画。カラオケにも行った。初めては彼とだった。仲はとても良かったと思う。けれど、

「浮気、してたんです彼」

「それは、また」

「ほんとですよね、青春返せって……思う」

 発覚したのは友人が街中で腕を組んで歩く彼を激写したからで。杏奈は怒り狂って彼のところへ行くと詰め寄った。案外あっさり白状して、もう浮気はしないと約束させてその件は終わったのだ。

 杏奈はコーヒーの水面をじっと見ながら当時を思い返していた。悔しい、あんな――

「……大丈夫?」

 声をかけられて慌てて前を向く。綺麗な瞳が杏奈を射抜いていた。ほんとうにきれい。喉が、乾く。ごくり。彼女はコーヒーをまた一口、口に含んだ。甘い香りがする。売り物の花の匂いだろうか。杏奈は少しだけ気になって店内を見渡した。

「一回は、許すってなったんです、泣きましたけど、好きだったし」

 杏奈はカップをぎゅっと握った。

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