第4話【隣に誰か】

◆第四章


 翌朝、私は紅々塾へと向かった。


 スミさんがいっていたように、角仙娘である私が目覚めたことは、すでに周知されているようだった。

 塾生たちは私のことを好奇の目で見たが、それだけだった。驚くこともなければ、騒ぎ立てるようなこともなかった。そして話しかけてくる者もいなければ、近づいてくる者もいない。遠目でこちらを気にする視線を投げられるだけである。

 不快というほどでもないが、居心地の悪さは否めない。

しかし教育機関特有の居心地の悪さには、多少の懐かしささえ感じられた。

私はいつも一人だった。

それでも私は、その中の誰よりも勉強ができるという一点のみで、卑屈にならずに生きていけた。


「満点です」

 塾長の言葉に、塾内はにわかにざわついた。

「すばらしいです。入塾試験で満点をとったのは、あなたが初めてです」

 塾長は烏天狗の血を引く人間であると、スミさんから聞いている。顔の半分は和紙で隠されているので、いまいちどんな顔かはわからないが若い声である。

「ありがとうございます」

 私はそういって解答用紙を受け取った。

 入塾試験なるものは「読み書き計算の習熟度が知りたいので」と、渡された試験だった。それらは高校一年生レベルの問題だったので、私にとってはそれほど難しいものではなかった。

「本日から妖術書の勉強に入って問題ないでしょう。こちらの本棚から、好きな妖術書を選んで下さい」

 塾長は塾内の本棚を指した。

 妖術書といえど、それなりに種類があるらしい。

「内容はどれも変わりません。しかし微妙に表現の違いや、補足の違いがあります」

 妖術書は辞書のように、何度も改訂されてきたのだろう。

「では、一番新しいものを」

 塾長は「これです」と、一冊の妖術書を渡してくれた。

「とりあえず一読して見てください。じっくり学ぶのはそれからです」

 私は教室後方の文机で、それを読み始めた。

 スミさんから渡された妖術書は三分の一ほど読んでいたが、最初から読むことにした。


 無心でそれを読んでいたので、塾生たちのざわつきにはまるで気が付かなかった。

 私がそれに気付いたのは、私の隣にどっかりと影彦が座ってからだった。

「きたぞ」

 塾長から受け取った課題を文机に置くと、影彦は私をみた。

「うん、私もきた」

 影彦が塾に来るのはめずらしいことらしく、塾生たちはやはり好奇の目で影彦を見つめた。しかし女子については、にわかに色めきだっている気配があった。容姿端麗で成績優秀であれば、彼女たちが影彦を気にするのは当然である。

 居心地の悪さが消えた訳では無いが、隣に誰かがいてくれることで深く呼吸ができるように思った。

 一人でいることが当たり前だった私にとって、それは初めての経験であった。

「昨日もいったけど。旭灯、目が悪いな」

 私が再び妖術書に目を落とすと、影彦はいった。

「昨日もいったけど。そんなことないと思う」

 私は妖術書から目を離さずにいった。

「メガネ、作った方がいいぞ。便利屋にいこう」

 目が悪い自覚はなかったので、否定の言葉を吐こうとした。

 しかし影彦は私の言葉を待たず、ひょいと私を肩に担いだ。

「え」

 突然の出来事だったので、私は困惑した。

「塾長。旭灯の目が悪いから、メガネ作ってくる」

 影彦は私を担いだまま、颯爽と塾から出ていった。

 後方から、塾長の声が聞こえた。

しかし影彦はどこ吹く風といった感じで、その足を止めることはなかった。



「あの、どこまでいくの?」

 私は影彦に担がれたまま、その問いを発した。

「便利屋。町にあるんだ」

 その便利屋がどこにあるか分からないが、場所を聞いても私には見当がつかないだろう。

「とにかく自分で歩けるから。降ろして」

「わかった」

 影彦はそういうと、私を丁寧に地面に降ろした。

 来た道を振り返ると、朝比奈邸が鎮座する紅娘山が見える。私は影彦に担がれたまま、それなりに遠くまで来たらしい。

「便利屋は、ここからそんなに遠くない」

 私が来た道を振り返ったせいか、影彦はいった。

「私が人里に下りても、問題ないのかな」

 私は自分を人間だと思っているが、他者がどう思うのかは不明である。私が目覚めたことが周知であるといえど、町中の人がそれを知っているとも思えなかった。

「大丈夫だろ。でも念のため、オババと硯利すずりには連絡しておくか」

 影彦はそういうと、道端に生えていたさかきの葉を二枚取った。そして右手の人差し指と中指を立てて、短くなにかを詠唱した。そして「旭灯と便利屋いく」と葉に告げた。

 影彦が榊の葉を虚空に投げると、それらは意思を持って目的の場所へと向かった。

「これで、連絡は済んだ」

 私はツノが生えた自分が、町に下りて混乱がないかを心配していたわけであるが、影彦は私が朝比奈邸を離れたことを不安に思っていると感じたらしい。影彦が私を町に連れていくことになんの抵抗もない様子なので、私自身も「まあいいか」と思えた。

「今のは妖術?」

「今のは呪術。黒瀬家の者には、あれで連絡が取れる」

 私はこの世界のなにを知るでもないと知る。

硯利すずりという人も、黒瀬家の人?」

「うん、遠縁だ。硯利は妖将官だけど、町で便利屋をやってることの方が多いんだ」

 妖将官にも色んな働き方があるらしい。

「そういえば妖術書、持ってきちゃった」

「その妖術書、初めてみるな」

 影彦は私の持つ妖術書を見つめた。

「一番新しい妖術書らしいけど、最近版行されたのかな」

「妖術書に、新しいとか古いとかあるのか」

「内容はほとんど同じだけど、表現と補足が微妙に違うみたい。実際に、昨日読んでた妖術書より読みやすい気がする」

「読みやすさとか、考えたことなかった。妖術の応用書は面白いけど、妖術書はつまらないから、全然真剣に読んでなかった」

 彼が抜刀できない理由は、そういうところなのだろう。

「私にとっては、妖術書も面白いけど」

「どの辺が面白いんだ?」

「今のところ、三十三ページとか」

 私は妖術書を開いて、影彦に渡した。

「ページまで覚えてんのか」

 妖術書の内容について話すうちに、彼に深い知識があることも、その知識に偏りがあることもわかってきた。

 そうして歩くうちに、私たちはそれなりに人の往来のある場所まできていた。

「ここはもう町?」

 眼前には、時代劇で見るような景色が広がっていた。

 しかしそれと大きく違うのは、妖怪と思われる存在が散見されることだった。塾長のように顔を和紙や蔵面で隠している者も、少なからず存在している。この町の様子では、ちょっとツノが生えた人間がいても、なにを気にするでもないだろう。

「町だけど、まだ町の外れだ」

 人の往来があるので妖術書は閉じようと思った。

 しかし影彦が真剣に妖術書に目を向けているので、私が周囲に気を配ればいいかと思い直した。


「あ? 影彦か」

 町を歩いていると、ワイシャツにはかま姿の少年が影彦の名を呼んだ。

 ワイシャツに袴というよそおいは、官吏の正装であることを私は知っている。つまり影彦に声を掛けた少年は、官吏である。帯刀してないので、文官か妖将官である。この世界で帯刀が許されるのは、武官だけである。

 官吏の少年に声をかけられても、影彦は妖術書に目を落としたままであった。

「おい! 久しぶりだな、影彦」

 官吏の少年が影彦の肩に手を置いたので、影彦は「あぁ?」と不機嫌にいった。

 彼を鋭くにらんだ後で、影彦は「なんだ。徒真かちまか」と興味を失ったようにいった。

「お前は相変わらずだな。しかし、妖術書を読んでるなんてめずらしいな。神童と呼ばれたお前も、今はただの人だもんな」

 徒真と呼ばれた少年は、ひどく嫌味っぽくいった。

 その後で彼は、私に視線を向けた。

「そうか。角仙娘かくせんこの世話は、黒瀬家の役目だったな。妖将官にならなくても、立派な仕事ができてよかったな」

「そういうお前は、なんでこんなところにいるんだ。将学院しょうがくいんで、問題でも起こしたのか」

 影彦は不思議そうにいった。

「お前じゃあるまいし、そんなわけないだろ! 紅娘山に凶兆が出たから、この辺出身の妖将官は招集されたんだよ! 暇な塾生と一緒にするな!」

 徒真は顔を真っ赤にしていった。

影彦がまるで徒真の言葉を気にしていないような態度が、彼を苛立たせているようだった。

上野うえの家に絹香きぬかさんが奉公に来てることは、姉さんから聞いたか?」

 徒真は気を取り直すように、別の話題を振った。

「絹香? いや、聞いてない」

 影彦は今日初めて、徒真の言葉に興味を持ったように見えた。

「先月から、上野家に奉公に来てるんだ。お前の世話役を任されていた時より、元気そうで見違えたよ。お前といた時は、かなり参ってたんだろうな。俺もお前と遊ばなくなってから、すんなり妖将官試験に合格したし、お前は人を不幸にする素質があるのかもな。あんたも、影彦との付き合い方は考えた方がいいぞ」

 徒真はそういって私の肩に軽く触れた。

 瞬間、影彦は徒真の胸ぐらを掴んだかと思うと、ゴチンと勢いよく頭突きをした。

 そして徒真の胸ぐらを掴んだまま締め上げた。その力はかなりのものらしく、徒真のかかとは若干浮いていた。

 頭突きをされた涙目の徒真は、困惑した顔で私を見つめた。

「あなたは故意に、影彦に失礼なことをいったと思います。まず、謝罪をした方がいいかと」

 私の言葉を受けて、徒真は絶望の表情を浮かべた。おそらく影彦を止めてくれることを期待していたのだろう。

私は暴力をよしとするタイプでもないが、先に言葉の暴力を振るったのは徒真である。その場合、耐えろという方が理不尽なように思えた。

「わ、悪かった!」

 徒真は叫ぶようにいった。

 影彦は逡巡しゅんじゅんののち、徒真から手を離した。解放された徒真は、その場で何度か咳をした。

 影彦は振り返ることもせず、さっさとその場を後にした。

私は情けばかりに彼に手拭いを渡して、影彦の後を追った。

「大人とか外野は、暴力はよくないって無責任にいうけど。旭灯はちがうんだな」

 私が追いつくと、影彦はぽつりといった。

「なんとも言えないけど。あの人の振る舞いは、よくなかった」

 私は正直にいった。

「徒真は、俺が嫌いなんだ」

「そういう人もいるよ。私たちが全人類を愛せないように、全人類も私たちを愛してくれるわけじゃないから」

 私の言葉を受けて、影彦はなぜか嬉しそうに笑った。

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