労働の対価

「働く = はた楽 (ハタラク)」


「周囲の人が楽できるように (時には家族も犠牲にして) 仕事をするのが組織人としての美徳である (?) 少なくとも自分はプロとして、それを是とする配偶者と結婚した ! 」


有名な論客が、概ねこのような趣旨のことを1990年代の社内会議で繰り返し熱く語っていた。当時の私は、この言葉を「素晴らしいご家族」にお聞かせして感想を伺ってみたいものだと内心思っていたし、尊敬する何人かの先輩方も同様の見解だったようだ。少なくとも、プロのサラリーマンとして栄達する上で「都合の良い女性(または男性)」と運命的な出会いをする確率は限りなくゼロに近いと思われた。ここでいう「運命的な出会い」と「打算に基づく結合」とは全く別物である。


振り返ってみると、彼の「優秀な」後継者たちが転職先の某有名企業でいまだに「ブラックな働き方」を「今どきの若者」にも強要していて不評であるらしいことを仄聞するにつけ、今風の言い方をすれば「協働性」とは似て非なる「手の込んだやりがい搾取」のロジックだったのかもしれないとも思えてくる。


コロナ禍を機に顕在化し、それ以前から「反グローバリズム」「トランプ現象」等の潜在的原動力にもなっていたらしい「過度な能力主義 (meritocracy) への異議申し立て」の動きは今後どこまで社会的広がりを見せるのか。


日本の場合、1980年代後半には既に完成されつつあった「高度に習慣化された全体主義」の素地があったせいか、この10年近くの「反知性主義」の静かで着実な広がり(元首相たちによる「日本語の破壊 = 議論の無力化・無意味化」だけでなく、保守・革新、与党・野党、経営者・労働者といった諸概念の「専門家・当事者たち」の個々の言動に裏付けられた変質・破壊)は、諸外国のダイナミックな潮流と比較して「何となくショボイ = まるで勝つ気がない?」感じがしなくもない。


乱暴な言い方をするならば、ミッドウェー海戦から玉音放送までの数年間の日本の指導者層の思考・行動様式と「数学的には同等」かもしれない。また、コロナ禍への場当たり的かつ後手後手の対応を見るまでもなく、「反知性主義」とは人がホモ・サピエンスであるのをやめるに等しい愚行である、ということは自明であろう。


マイケル・サンデルらの最近の議論によれば、「働くことの再定義」と、(やりがい搾取ではなく)「真のリスペクト」に基づく「正当な対価」の分配システムの構築とが21世紀の運命の鍵を握っているらしい。その先には「人として生きることの再定義」も待っているかもしれない。


少なくとも、「低賃金労働者の拡大再生産」を生業にするような似非学者(政商)が依然としてメディアにもてはやされ、政府の政策決定にも影響力を及ぼすような国家に「気の利いた別解」が見つかるとは、私には思えない。


2022.5.15

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