こぼれ話
無名の人
二つのD 〜 令和を生きるヒント 〜
高校数学で「円と直線の位置関係」を考えるとき、「二つのD」の使い分けが大切だと教える。二次方程式の判別式 D (discriminant) と、点と直線の距離d (distance) とに着目して、例えば「円と直線が接するとき、D = 0 または d = r (r は円の半径)」のようなアイディアで問題が解けるのである。
心の距離 (distance) が大きくなりすぎると D < 0 となり(方程式が実数解をもたない = 虚数解をもつ・・・やがて妄想の世界に迷い込む?)相手を discriminate (差別)するようになるのかもしれない、などと「文学的」妄想をしながら「数学的」計算をすると、機械的で味気ない計算にも多少の楽しみを見出せることがある。
いずれにせよ、discriminantal (判別式の)・discriminating (識別するための・慧眼の・差別的なetc.)・discriminative (特徴的な・弁別力のある etc.)・discriminatory (差別待遇の・不公平な etc.)(『ランダムハウス英和大辞典』)等々、うんざりするほど紛らわしい派生語の数々を思い浮かべているうちに、「正しく識別・弁別すること」と「偏見によって差別すること」の境界は一般に思われているほど明瞭ではないような気がしてきた。
多様なものの中から共通する特徴を抽出し、何らかの基準によって複数の範疇(カテゴリー)に区別 (distinguish) することによって抽象的な「ラベル=区別」(distinction) を生成するのは人間ならではの能力である。一方で、多様性 (diversity) や差異 (difference) を必要以上に恐れて差別(discrimination) を生み出すのも人間に固有の特性かもしれない。(ホモ・サピエンスの歴史も、見方によっては「差別の歴史」と捉えることができる)
このような「人間の性(さが)」を克服して「文明的」な生き方を追求するためには、人間に本来備わっているはずの「理性」あるいは「善性」に期待するしかないだろう。その際に強力な手段になるのが「議論」である。
一般的に日本人は「議論が苦手」である、という言説を耳にすることが多い。確かに、日常生活のあらゆる場面で「オープンな議論」を嫌がる人を見かける。また、「パネル・ディスカッション (panel discussion) 」のはずなのに、勝ち負けにこだわって相手を「論破」しようとするあまり「ディベート (debate) 大会」にしか見えない代物も珍しくない。
学校教育に「知的ゲーム=言葉遊び?」としてのディベートを取り入れることに異を唱えるつもりはないが、サイバー空間でのわかり易くて安っぽい論理による「論破」ブームが社会問題になってくると、「ディベート・ゲーム」に興じてばかりもいられないのではないか、とも感じる。
国会中継で「上質の議論」が見られるようになるまでにあと何年待たされるのだろうか。
2022.7.23
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