第四話「流れ出るサワガニの怪」

4-1 首長竜、ジラフ、首の長い動物のこと

■4.流れ出るサワガニの怪



 怖いほど静かな、雨上がりの夜。春の空気はまだ冷たく、男は震えながら湖の水で何度も腕を洗っている。はっと気づくと、男の立つ浅瀬にはどこから現れたのか、サワガニが群れていた。わかるのだ。こいつらにはわかるのだ!

 男が洗い流す、死臭と血の匂いを敏感に嗅ぎ付け、湧いて出るのだ!

 男が震えているのは、寒さのせいばかりではなかった。

 ふとその意識が、恐怖からの逃避で過去に飛んでいる。幼馴染三人、仲良くこのほとりで駆けまわった幼少期。そうだ、あの頃、俺達はここであの方に出会ったのだ……。


「お前達……あまりはしゃいで溺れるでないぞ……水は優しく、そして怖いのよ……」


 あれは、夢か? 現実か?

 美しい女が水面みなもに立つ光景は、幼い記憶を捻じ曲げた幻想だろうか。

 ほんとうの事だろうか?

 男は思い出の中の光景も、目の前の光景も全てが嘘であれば良いと願い、ぼんやりと立ち尽くしている。 

 どうしてこんな事になったのだろう。

 そんな事を思う。


「……あっ」


 その時だ。

 いつしか霧の流れてきた湖面に、人影が立つのを見たのは。

 幽鬼のようなあれは、いつか見た幻の女か、あるいは……。

 男はぎゅっと目を瞑り、悲鳴飲み込んで逃げ出している。



 祝、臨時収入である。

 鳴滝博物店なるたきはくぶつてんくだんのたかひひるの標本ひょうほんを競売にかけ、それは日乃和国ひのわこくでも稀に見る高値をつけた事はまずめでたかったが、何より太っ腹な事に、コウゾウがこの金額の六割を玉匣標本店たまくしげひょうほんてんの取り分としてくれた事はありがたい。それはイヨとゲンマに妖怪娘共が向う暫く暮らして行くには十分すぎる額だったので、ゲンマは初め断ろうか悩んだほどだ。


「大将そりゃあ悪いぜ、初めは情報と交換って話だったじゃないか。盛り上げるのに経費だってかかってるだろうに、あんまり俺達に得すぎるや」

「俺は後から妖怪の噂話を聞かせただけだぜ。最初の一頭はお前が見つけてきたんじゃないか。それに展翅も素晴らしい出来栄えだった。六割ってのは別に不当な分け前じゃない」

「でもよ」

「それにな、ゲンマよ。標本商なんてのはそもそも、市場がうんと狭い。最初は金払いの良い客だって、一通り目ぼしい種を集めちまえばそれきりだし、たいして儲からん業界だ。それだから誰も見た事のない野生の亜種に、皆目の色変えて群がるのよ。ゲンマ、俺はお前に、この業界を盛り上げる事を期待している。お前も店を継いだなら、もっと先の事を考えな」


 電話口のコウゾウの言葉に、ゲンマは感銘を受けていた。やっぱりでかいぜ、大将はよ……。そんな事を思えば、少し認められたようで薄っすら涙ぐんでしまう。


「わかったよ大将。へへ、それなら驚くぜ。また新しいたかひひるが二頭入っているんだ。しかも前のとは色も形も違う。たかひひるってのは、あらゆる蝶の中に生まれる突然変異なのかもしれねーや」

「そりゃあ凄いな。そうだ、こっちもお前の耳にちと入れたい噂があってよ」


 大将の言う事には、なんでも椙森すぎのもり雨流湖うりゅうこと言う広い湖に、近頃怪獣が出没している。霧のかかる夜に、巨大な首の長い水馬すいばとも龍ともつかぬ生き物が湖面に現れて泳ぎ回り、また静かに湖の底へ消えていくのだ。

 これを人々は、湖に祀られた女神・流霧姫るきひめの化身としてありがたがり、見物に訪れる者も多くあると言う事である。


「観光客目当てのホラ話だと思うが、念の為な。あんまり当てにゃならんけど」

「いや、もし急にその水馬とやらが現れるようになったなら、たかひひるが何か関係しているのかもしれねーや。早速行ってみるぜ」


 こうしてゲンマはイヨ達に留守を任せ、狐龍こりゅうへ変ずると椙森へと駆けていった。



「なんだかのどかな所じゃねーか。こりゃあイヨの奴を連れてきてやれば良かったぜ」


 目の前に広がる湖面の広々とした事に、ゲンマは安らいだ気持ちでうんと伸びをしている。水馬が出るとは一体どんな恐ろしい湖かと思ってみれば、すっかり開けた観光地だ。大将の言う通り家族連れの観光客もあちこちに見えたし、出店でみせまであるのはちょっとしたお祭り気分である。


「りんご飴欲しいぞな~」

「ああん? ちょっと待ってろよ」


 生きた襟巻が尻尾でぎゅっとしてくるので、仕方なく屋台でりんご飴を買ってやると、狐はするりゲンマの首から滑り降りて、林檎が丸ごと真っ赤な飴に封じられた駄菓子をばりばりと食い始めている。その様子を見た子供が狐を指差しあっと声を上げたが、こういう時堂々としていると案外騒ぎにならないものだと学んだゲンマは、腕組して湖を眺めるばかりだ。子供は親に手を引かれ、不思議そうに歩いて行った。ほらな。


「なになに、看板に伝説が書かれてあるぞ。なんでもこの湖にはありがたい女神様がいて、この土地を護ってくださっているんだとよ。水馬はその化身と書いてあるな」

「水馬は急に現れるのではなく、もともとここに伝わる伝説であったか」

「こりゃ今度はハズレかもしれんな」


 都の発行する地球民話集によれば、湖に怪獣が見られる、とはそれこそ人類がまだ地球で暮らしていた頃からあちこちで語られていた定型らしい。

 その怪獣とは、水生の首が長い竜。即ち首長竜と言う種類の海生爬虫類で、地球では中生代の遥かな昔に絶滅した古生物である。これが湖で密かに生き残り、度々人々に目撃されたのが怪獣の正体と言う訳だ。


 首が長い動物で最も有名なものにジラフがある。ジラフは元々森林に生息していたオカピのような原始的な偶蹄目の動物が、やがて草原に進出し、高い位置の木の葉を食べるように首を伸ばし進化したものだと考えられており、キリンの名でも知られている。

 このキリンの長い首は、人間の首と同じ数の七つの骨で支えられている。頑丈で、時に鞭のように振るって武器にするなど、骨の数が少ないとかえって丈夫で柔軟なのだ。


 一方、首長竜もまた長い首を持つ生き物だが、その首は七十個以上もの頸椎から成り、左右や下方向へは良く曲がるが、上向きにはあまり動かせない構造を持つ。

 地球民話に語られる湖の怪獣は、湖面から長い首を持ち上げ、鎌首をもたげた状態で泳ぐ姿で登場するが、このような姿勢を本物の首長竜は取る事が出来ない。伝説の姿は、古生物学的には誤りなのだ。この他にも、突き詰めて調べてゆくと湖の怪獣は殆ど信憑性のない目撃談ばかりで、そのような怪獣が現実に存在した可能性は無に等しい。

 少なくとも地球における湖の怪獣は、全て何らかの誤認かホラ話と断じて良いのだ。


 一方、この日乃和国の海には大型の海生爬虫類が独自に発生し、生き残っている。中には淡水域に適応しているものもあるから、湖で首長竜が見られる可能性も無い事はない。

 が、残念な事に雨流湖は海と通じておらず、大型の水生爬虫類が複数生息するだけの食べ物がある可能性も恐らく低い。加えて目撃された姿が湖面に頭を突き出した水馬となると、これは首長竜ではなく未知の大型動物と言う事になるだろう。


 するとやはり妖異怪獣の類である可能性は捨てきれないのだ。


「仕方がない、数日は粘ってみるか。夜の湖も見てみたいしな」

「それが良いぞな。わがはいもな~んかひっかかってるぞな」


 かくして虫屋と狐は湖からほど近い宿に逗留とうりゅうする事となったのである。



「ご主人、近頃この湖では首長の水馬が出ると噂に聞くが、本当かい」

「お客さん男一人で怪獣見物かい。物好きだねえ、あれかい。雑誌の記者さんかなにかかい」

「まぁ取材みたいなもんだよ。あんたは水馬を見た事があるかい。あるいは光るちょうとかさ」

「水馬様を見たって話は聞くが、光る蝶ってのは知らないなぁ」


 宿屋の主人は首を傾げている。はなから期待していなかったゲンマは、そうかい、と頷くと、遥々取材に来た記者が空振りでは不憫に思ったのか、主人が水馬の良く見られる場所を案内してくれると言うのは驚いた。


「おいおい、本当にいるのか」

「さて……実を言うと私も見た事はないよ。ただよくお客さんは騒いでいるね。この湖は夜になると霧がかかる。恐らく湖面の水鳥か何かを見間違えるのだろうね。水に浮かんでいる生き物は大きさや距離がわかりにくい」

「へぇ……」


 水馬は女神の化身として地元では大事にされていると言うから、皆信じているのかと思えば、主人は案外現実的だ。夜になるとその言葉通り霧が出てきた。ゲンマは主人と一緒に懐中電灯を片手にぶらぶらと歩き出す。夜の湖へ怪獣捜索って訳だ。本当に、こんな事ならイヨを連れてきてやれば良かったぜ。いつも留守番ばかりで、妹には退屈な思いをさせているんだ……。


「昼間の霧のない日はボートも貸し出してるんだけど、夜は危ないから……ん? あれはなんだろう」


 夜の湖は静かで、時折遠くから不気味な声が響くのは、かえるか、それこそ水鳥か……うっかりすると霧に呑まれて方向が分からなくなりそうな夜の湖畔を、男二人、色気なく歩ていると……ふと宿屋の主人が声を上げている。

 懐中電灯の光が照らすのは、湖に打ち上げられた大きな旅行鞄だ。観光客の忘れ物にしちゃあんまりでかい。もしかして捨てていったのか? 不届きな奴がいるもんだぜ、と呆れると、その鞄の隙間から青白い手が飛び出ている事にはびっくり仰天した。


「あっ、あっ、お客さん! 警察呼んで、警察っ!!」

「いや、地元の人間じゃないからわからんよ。ここは俺が見張っておくから、ご主人あんた宿に走って電話しなよ!」


 慌てふためく二人、宿屋の主人は顔を青くして駆けてゆくと、やがて警官を連れて戻ってくる。ゲンマ達が見守る中、鞄を引き上げた警官がその蓋を開けてみると……。

 それは、不自然に折りたたまれた女の水死体であった。

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