第47話 こんなはずじゃない
竈に火を入れた母の正江が珈琲を淹れて増子に差し出すと、増子は一口飲むなりその場で吐き出しながら言い出した。
「不味い!お母さん!淹れなおしてよ!」
「不味いんなら、自分で淹れなさいよ」
普段から珈琲を淹れるのも、食事を作るのも珠子の役目。正江は自分のコップにお湯と砂糖を追加で足していきながら、ため息を吐き出した。
「それで?一体何があったの?」
久平は散々殴られたようで、顔は赤紫色に腫れ上がり、骨は折られていないようだけれど、全身を打ち付けているようだった。
シャカラベンダ農場に最近、配耕となった若者たちはタチが悪いようで、理由もなく暴力を振るう者もいるのだという。そういった輩に増子の夫の久平が襲われたのかと思いきや、
「松さんにやられたのよ」
テーブルの向かい側の席に座った増子は、流れる涙を自分の手で拭いながら言い出した。
「私たち、珠子が松さんの家に運ばれたっていう話は知っていたから、とりあえず松さんの家まで行くことにしたの。久平さんも行くって言うから、二人で行くことになったのだけれど、途中の坂道で松さんと顔を合わせることになったのよ。そうしたら松さん、久平さんを見るなり襟首を掴んで背負い投げにして、そのあとは馬乗りになって殴りつけ始めたのよ」
増子は小刻みに震えながら言い出した。
「私が縋ってお願いしても全然やめてくれなくて、そうしてあの人、腰のダンビラを引き抜いて言い出したの。ここはブラジルだから殺したって仕方ない、問題ないで終わるって聞いたんだけどねって」
神原松蔵は、戦地に赴いて戦ってきた日本軍兵士だったのだ。彼にとっては人を殺すことなど、大したことでもないのだろう。
「お願いだからやめてって、私を愛しているのならやめてくれって言ったら、蹴りつけた土を浴びせられたの。気色の悪いことは言うな、お前のことが本当に大嫌いだったって」
増子と松蔵は奥多摩の温泉街で幼少期を過ごした幼馴染のようなものなのだが・・
「妹が折檻を受けても気にしない、人が傷つけられても気にしない。その割には、自分が小さな怪我をしただけで大騒ぎをして、その鬱憤を妹に叩きつける。今だって、自分たちの都合で妹を追い出し、自分たちの都合で連れ戻そうとする。その姿勢に反吐が出ると言い出して、珠子は絶対に返さないって。自分がこの農場から連れ出すって。私たち家族に返すようなことになるくらいなら、あらゆる手段を使ってでも阻止してやるって、人が変わったみたいに言い出したのよ」
増子は顔を覆って泣きながら言い出した。
「きっとオンサの怨霊に取り憑かれているのよ。松さんが私のことを嫌いなんてことがあるわけがない、あるわけがないもの」
そんなことを言い出す娘を見下ろしながら、正江は思わず吹き出すように笑ってしまった。オンサの怨霊とはどういうことだろうか?ちょっと想像がつかないのだが。
「あの人たちは家族の縁というものを理解していないのよ」
何を言ったところで、珠子は自分が腹を痛めて産んだ子供なのだ。親の言いつけを守るのが子供の役目だろうし、親の言うとおりに生きるのが子供のするべきことなのだ。
翌日、徳三の家を訪れた正江と増子は、珠子を松蔵の家から取り戻してくれないかとお願いすることにしたのだが、
「寝言は寝てから言って欲しいね」
と、徳三は寝床に腰を下ろしたままの姿で言い出した。
「辰三兄さんが妻と選んだ人だから何くれとなく面倒を見て来てやったが、お前らは私がデング熱に罹ったと聞いても見舞いの一つにも訪れなかったようだな」
徳三の背を支えていた息子の九郎が言い出した。
「父さんはデング熱に罹るのは二度目。二度目のデングはほとんど助からないというのが世間の常識だから、誰もが治ることはないだろうと思っていたし、死んでしまう人間の見舞いに行ったところで意味がないとでも思っているのでしょう」
徳三は二度目のデングに罹って生死の淵を彷徨った。誰もが死ぬだろうと諦めていたところ、家族だけは最後まで諦めずに看病を続けた結果、奇跡の回復を見せたのだった。
「正江さん、増子さん、喉が渇いているでしょう、良かったらお茶でも飲んでいってくださいな」
徳三の妻はそう言って二人の前にコップを置いたのだが、そこには雑草が浮く泥水が入っていた。
徳三は辰三の腹違いの弟で、自分の世話をしてくれた兄を慕っているような男だった。辰三がブラジルに渡ると聞いて、即席の妻と息子を作ってついてくるような男であるし、あっという間に農場の日本人たちをまとめ上げるような底知れぬ力のようなものを持っている。
日本に居た時には裏の家業に関わっていたのではないかと正江なども考えていたし、なるべく失礼なことはしないように気を付けてはいたのだが、二度目のデング熱と聞いて、完全に死ぬものだと考えた。だから見舞いにも行かなかったのだ。
「さあ、飲んでください」
泥水を飲めという徳三の妻りよはにこりと笑う。
「こんな泥水!飲めるわけがないじゃないですか!」
増子がヒステリックに声を荒げると、りよはコロコロと笑いながら言い出した。
「性根が腐り切った小娘には、泥水でも勿体無いと思ったんですけどねえ」
徳三の家族は辰三が生きていた時には、それは親切にしてくれたのだ。特に珠子を可愛がっていて、度を越えた暴力は許さないし、即座に睨みを効かせてくる。その恐ろしさがあったからこそ、今まで一線を越えるようなことがなかった正江と増子になる。
今はまだ、徳三が回復し切っていないということもあって、増子は徳三の恐ろしさを忘れてしまっていた。
「失礼にも程があるわ!」
増子が椅子から立ち上がると、タイミングを合わせたかのように、
「オラー!トク、エスタメリョランド(徳、元気になったか?)」
農場の監督官との橋渡し役のような古株労働者のマティウスが顔を覗かせて声をかけて来たのだった。
「アインダナオン(まだよくなってない)」
徳三が寝床に座りながら声を上げると、マティウスが笑いながら言い出した。
「マス(だけど)ジャアコルドウ(すでに起き上がれている)グラッサダデウス(神に感謝しないと)!」
「アーエー(ああ、そう)」
そっけない徳三の答えを聞きながらマティスがズカズカと家の中に入ってくると、
「ノッサ!エラエマエンダタマチャ!(彼女は珠子の母だ!)」
と、マティウスが驚きの声を上げたので、正江はびくりと肩をふるわせた。
「エ(そうだよ)」
「ノッサセニョーラ」
マティウスは大袈裟に肩をすくめながらため息を吐き出すと、
「タマチャ、ナオンボルタスアカーザ(珠子はあなたの家には帰らない)タ(わかった)?」
と、言い出した。
自分に向かって何を言っているのか全く理解できない正江が目を白黒していると、
「エラスナオンエンテンジナーダ(彼女たちは何もわからない)エウボウエスプリカー(私が説明しておくよ)」
と、徳三が言うと、マティウスは大きく頷いた。
「タマチャ、アゴラナオンポジトラバリャ(珠子は今はまだ働けない)シ(もし)タマチャエスタメリョランド(珠子が良くなったら)タマチャ、バイトラバリャナマンサオン(邸宅の方で働かせる)タ(わかった)?」
「タ(わかった)」
その後、ブラジル人のマティウスは帰って行ってしまったのだが、正江と増子には彼が何を言っていたのかがよく分からない。ただ、珠子について何かを話して行ったのは間違いない。
「あの・・徳三さん、あの人は何を言っていたのでしょうか?」
正江の問いに、徳三はそっけなく答えた。
「珠子はあんたたちの家には帰らせない。敬虔なカトリック信者は暴力を嫌うから、珠子の有り様を見て思うところがあったんだろう。日本人と一緒に働かせたらまた暴力を振るわれると思われたのか、農場主の邸宅の方で働かせると言われたよ」
「なっ!そんな!」
結局、日本人は珈琲農場で働くのだ。最悪そこで捕まえれば良いと思っていた正江は、
「そんな勝手なことをされたら困ります!」
怒りの声をあげたのだが、すぐさま家から追い出されることになったのだった。
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G Wに突入です!こちらの掲載も粘り強くしていくつもりです!ジャンル違いですが『紅茶とサヴァランをあなたに』も毎日掲載しておりますので、家でのんびり、暇つぶしの時にでも読んで頂ければ幸いです!どちらの小説も佳境に差し掛かって来ました、ラストに向かって進んでいきます!!
ブラジル移民の生活を交えながらのサスペンスです。ドロドロ、ギタギタが始まっていきますが、当時、日系移民の方々はこーんなに大変だったの?というエピソードも入れていきますので、最後までお付き合い頂ければ幸いです!
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