第37話 夢のような朝……を迎えたわけではない

 初めての経験をした。


 妹といった家族ではない。血のつながらない、まさに他人の女性と同じ部屋で一晩を過ごした。

 人生において決して叶わないであろう。そう諦めていた夢のような体験を、齢四十近くしてついに……と感激することではなかった。


 起き上がりがけに、ズキズキっとこめかみ辺りにきたヤスオだ。

 くるむ布団をはねのける力は弱々しい。

 みみ水を、と声に出すくらいふらふらで簡単に立ち上がれない。


「あ、あだじも……」


 死にそうな未亜みあのお願いが聞こえた。こちらは布団から起き上がれない。

 アタマが痛い……、とその横で転がる菜々なながうめいている。


 どうやら動ける者はヤスオだけのようだ。ま、待っててください、と気合を入れて膝を立てた。

 なんとか歩き出すも足許は当然ながら覚束ない。

 失敗したぁ〜、と悔やみながら廊下へ出れば、昨晩が甦ってくる。


 なぜか未亜と菜々と両親が泣いていた。

 迎えに行った信二と、旅荘の前で待ち構えていたうららの妹夫婦と共に戻った部屋は涙に暮れている。

 この時点で嫌な予感しかしなかった。

 加えてうららが諦めたようにヤスオへ言ってくる。


「この様子じゃ、父さん母さん、明日はダメそうだから、私と信二はこれでいくわ。ヤスオ、あとはよろしくね」 

 

 あっさり投げ渡しては信二の腕を取って背を向けた。


 えー! と不服の叫びを上げたいところだが完全休日とはいかない旅館業に食堂もある。文句は言えない。


 覚悟を決めて部屋へ入るなりだ。

 やっちゃん! 安田さん! と女性の二人が潤んだ目を向けてきた。

 普段なら、どうしましたか? と心配するところだが、今日はホラーゲームをプレイした際に通じる戦慄が背筋に走る。やっぱり逃げ出そうか、と考える。


「さぁさぁさぁ、やっちゃん、座って」

「どうか安田さん、こちらへ」


 素早く立ち上がった未亜と菜々に両脇をがっちり固められた。喜ぶべき女性の接着が完全な酔いを知らせてくる。歓待を装う強制としか思えなければ、警戒度数が一気に跳ね上がる。

 状況の確認で座ったままの凪海へ目を向ければ、苦笑が返ってきた。がんばれよーとばかりに手を振ってもくる。かなりヤバいことを教えてくる。


 無理やりに座らせられる形で落ち着いたヤスオへ、さっそくだった。

 呑んで呑んで、と未亜がお酒のグラスを差し出してくる。

 拒否するわけにもいかず、ヤスオは口にするなりだ。


「うわ、なんだよ、これ!」


 思わず上げてしまうほど、きつい。焼酎の水割りだと思っていたが、とても薄めている感じがしない。

 正体は隣りで菜々の作る姿によって判明した。

 グラスへ先に入れるは、ミネラルウォーターだ。それも底へ、ちょろりと浸す程度だ。それから焼酎をがばがば注ぎ込んでいる。比率もそうだが、入れる順番も逆ではないか。

 酔っ払いすぎである。


「あ、あのぉ〜、鮎川さん。それはちょ、ちょっとぉ〜」


 相変わらず煮え切らない態度が事態の悪化を招く。学べないヤスオに報いはすぐだった。


「ヒドい、ヒドいです、安田さん。私が作ったものはいらないなんて」


 今にも菜々が泣き出しそうにしてくる。

 そそそそんなことでは……、と言いかけたらだ。


「やっちゃん、それはないよー」


 反対側に陣取る未亜がヤスオの脇腹を突いてくる。こちらも相当だ。


「未亜さんも飲み過ぎて……」

「やっぱりそうだったんだよね!」


 いきなり言葉を遮る未亜がヤスオの言っていることを理解してとは思えない。

 やっぱり、そうだった。

 ぐいっと未亜はあおるだけではない。空けたグラスを、ドンッとテーブルへ置くなりだ。


「興味が湧かないんだよね。どうせ、どうせ……巨乳じゃないもん」

「そうよ、ヤスオ。こんな素敵なお嬢さんなのに。性癖が強すぎるのは問題よ」

「誰でも言うわけではないがな。ヤスオの場合はちょっと好みじゃない体型だったとしても、がっつくくらいがちょうどいいと、父さんは思うぞ」


 余計な追従を両親まで入れてくる。


 これだけでお腹いっぱいなのに、さらに割りの比率がおかしい焼酎を平気で呑んでいた菜々がグラスを静かに置いた。


「未亜ちゃんもご両親も甘すぎます。いくら巨乳だろうが、見るどころか触ろうともしない。それが安田ヤスオです」


 困ったものだわね〜、と母親がしみじみ呟いている。

 やっちゃんのイケずぅー、と未亜の今ひとつ謎の非難も飛んでくる。


 困り果てたヤスオはこの場では唯一正気を保っていそうな人物へ視線を送った。

 オレ、知らねーとでも言っていそうな顔を凪海が横へ向ける。逃げている。


 助勢が絶たれたヤスオこそ泣きたい気分である。

 コンプライアンスを守って悪いのかよー! と言いたいが言えるはずもない。

 もう呑むしかない。

 こうして珍しく二日酔いとなり、食堂で笑いながら迎える妹夫婦から水だけでなく味噌汁にサラダも添えられた。


 幸いにも弱った分だけ今日は静かな一日へなりそうだ。

 女性二人を前に味噌汁をすするヤスオの胸裡は穏やかだ。


 これから泣くはめへ陥るなどと思いも寄らずであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る