天使の入れるソーダはしょっぱい
まじかの
第1話 「天使の入れるソーダはしょっぱい(前)」
いつものようにあたしたちは見下ろしていた。
青い星のある一角に小さな黒煙が舞うと、あたしはさっとそこにヒトメガネを向けた。そして、すぐ隣で寝っ転がっている赤毛の天使に声をかける。
「マリ、ほら、また戦争始まったみたいよ」
「ええ、ちょっと待って、ミリ、どこ?」
マリが隣で慌てるのを無視し、あたしはメガネごしに戦争を覗いていた。黒煙、飛び交う銃声、そして人の悲鳴。
それらをあたしは、ぼうっと、ただただ、眺めていた。
それが、日常。あたしたちの何気ない毎日。
ふわふわとした雲の上で、のらりくらり生きて、下を観察したりする、そんな生活をあたし達は何百年も送っていた。
雲の上の天界にいる、小さな白い翼を持つ天使。それがあたし達。
あたし達天使には寿命が無い。そして、病気で死ぬことも。
何かに生まれ変わりたいと願わない限り、いつまでも生きていられる、そういう生き物。
天界にはあたし達みたいな天使はたくさんいて、大半が人でいう12歳くらいの背丈で、成長することはない。だけど、中にはちょっと背の高い天使もいて、そういう存在は大天使と呼ばれていた。大天使はあたし達よりもちょっと偉くて、天使の歴史や、天の世界のルールを知っている。
ある時、あたしは大天使に天使がなぜ存在するのかを尋ねたことがあった。
その大天使曰く、天使は何でも人の成れの果てで、人が強い悔いを残して死ぬと、天使になるそうだ。
人が天使になる際、それまでの記憶はリセットされ、言ってみれば、生まれ変わる。そして、天使は人だった時の悔いや心残りを、自由な生活を送ることで解消しているという話だ。
だが、これはどうやら憶測らしく、確かめた天使はいないのだとかなんとか。
あたしやマリが人間だった時、自分達にどんな悔いがあって死んだのかは、分からない。だが、おそらく人生の最期には何か良くないことがあったのだろう。
だから、大天使の教えに従って、あたしもマリも、朝から夜まで、その知りもしない悔いを晴らすために好きなことをしている。天使は腹が減ることはないが、天使が運営するケーキ屋のドーナツを食べたり、眠くなることもないが、雲にくるまって横になったりもする。全てが自由で気楽だ。
ただ、長い天使生を過ごすには時間を持て余すので、あたし達はよく地球を観察する。地球は、あたし達天使のいる天界よりも色んなことが起こる。
良い事も、悪い事も。
「見て、ミリ。あの兵隊、敵に捕まったのに殺されなかったわ」
「え、変ねそれ。どういうことなの?」
「それに捕まった人、泣きながら笑ってるわ。なんで?」
「全く、感情ってのは複雑すぎるわ」
あたし達天使には、欠陥があった。それは、感情が分からないことだ。
自分達がどうしてたまに、気分が沈んだり、逆に浮いたりするのかを、自分達でも理解できないのだ。
だからあたし達天使は、感情をコントロールする人間を観察して、その仕組みを理解しようとするのだが、今のところそれは徒労に終わっていた。天使の中で感情を理解できたという者は、天使史上、まだいないと言われている。
争いは多くの感情が渦巻く。だからあたしとマリはよく争いを見つけては、観察していた。そして今日も見つけた戦争を観察していたのだが、15分も見ているとあたしは飽きてしまい、寝っ転がりながらドーナツを食べていた。
そんなあたしの横では、マリはまだ熱心に戦争を観察し続けていた。
あたしはそんなマリを見て、「よく飽きないな」と、空いている手でマリの翼の毛をわさわさと撫でた。
マリとは長い関係だ。今日までで250年くらいは一緒にいると思う。
だからあたしはマリのことはよく知っていた。
マリはいつもはほわあんとしたのんびり屋のくせに、一つの事に夢中になると我を忘れてしまう、そういう天使だった。
そんなマリと正反対のあたしは、せっかちで短気な天使。言ってみれば、マリとあたしは正反対の性格だ。そして、あたしはマリの毛を撫でながら、たまに浮かぶ疑問について考えた。
『あたしとマリは、なぜいつも一緒にいるのだろう?』
普通、正反対のタイプなら、お互いに毛嫌いするのではないか。でもあたし達は離れずに一緒にいる。長くいるのに、飽きが来ない。
少しの間、あたしはドーナツをかじりながらいつもの疑問について考えたが、その答えはもちろんというか、今日も出なかった。やはり感情を理解しなければ、この問題は解決しないのかもなとあたしは思った。
結局、その後、マリはさらに40分ほど戦争を観察し、
あたしはそのマリを観察してその日を終えた。
次の日も、いつもと同じような日になるだろうと思っていた翌日。
あたしに、そのいつもは訪れなかった。
朝一番、マリはあたしに、いつもとは違う、衝撃的なことを言ってきたからだ。
「ミリ、私、人間に生まれ変わることにした」
マリは真剣な顔であたしに面と向かって、そう言った。マリの表情は真剣で、それが冗談などではないとすぐに分かった。
それを聞いたあたしは、驚いたなんてものではなかった。翼の毛が全部、抜けてしまうかと思った。そして、口よりも先に手が動いた。次の瞬間、あたしは強い力でマリの肩を掴んでいた。
「ど、どうして?どうして、あんなどうしようもない生き物に?
人間なんて、100年もしない内に死んじゃうんだよ?」
そういったあたしは言葉の途中で、自分が動揺していることに、ふと気づいた。だが、その理由はボヤけていた。
なぜあたしは、こんなにも動揺して、そして焦っているのだろう?
「何年も人間を観察してみたけど、感情が分からなくて。そうしている内に、人間になってみたいと思うようになったの…」
一瞬、自問自答したあたしの耳に、マリの言葉が続いた。
その言葉を聞いて、あたしは口籠るしかなかった。マリはある一つの事に夢中になると、誰の言葉も聞かずに一心不乱になることがある。今回もそれだ。
あたしはマリの一途な想いが、今回、人間になることに向いてしまったことを恨んだ。恨むという感情自体よく分からないが、おそらくこういう心境を言うのだろうなと、あたしはぼうっと、考えた。
「…いつなの、下に行くのは」
結局、少し間を開けてあたしの口から出た微かな言葉は、それだけだった。そして、その言葉と同じくらい小さな返事が少し間を開けて、返ってきた。
「…3日後」
それを聞いたあたしの中に、暗い感情が渦巻いた。その感情の正体について考えてみても、やはりあたしの中で答えは見つからなかった。
それから、マリが旅立つまでの3日間、あたしとマリの間には何とも言えない重苦しい空気が流れた。
あたしが暗い気分になる理由は、やはりモヤがかかったようにボヤけていた。マリもあたしと同じ心境だったのだろう、たまにマリを見ても、あたしと同じ顔をしていた。あたし達はお互いに大して言うことも無く、ただただ、時間だけが過ぎていき、
気づけば3日目の朝を迎えていた。
来て欲しくないその日。皮肉のように晴れたその日。
マリは大天使とあたしの立ち会う中、ここ天の国を出発することになり、朝一番に地上に降りるため雲の端に足をかけていた。場は晴れやかな日光に照らされていたが、あたしの心は曇っていた。
「いいんだな、旅立ったらもう、戻れないぞ」
旅立ちを迎えるマリに、大天使が声をかけた。それをマリは後ろ姿のまま、聞いていた。
「はい、分かっています」
マリの声は少し沈んだままだったが、それでもこちらを振り向く気はないようだった。そのマリにあたしは何か言おうと思ったが、何を言えばいいのか、考えても、言葉が出なかった。
「最後に、お互い言うことはあるか?」
何も切り出さないあたし達を見かねた大天使が、そう言った。それを聞いて、マリは半分だけ顔をこちらへ向けた。あたしはそのマリの顔を見ても何も言葉が出ず、口を開けたまま2秒という時間だけが過ぎた後、
「「あ…」」
あたしとマリは同時にそう、呟いていた。が、それからあたし達に続く言葉はなく、二人でシンクロするように顔を伏せ、口を閉じた。そして、お互いに黙ったまま、さらに2秒が経った後、マリの口だけが再び、ゆっくりと小さく開いた。
「じゃあ…いくね」
マリはそう言うと、再びあたし達に背を向けた。あたしはマリがどういう表情をしているのか気になったが、あたしには見えなかった。そして、その背中に向かってあたしが口にした言葉は決して特別なことではなく、日常的なものだった。
「元気でね」
そう言いつつ、あたしは心の中で『元気とは何なんだろうな』と思った。
元気という感情の意味は、良く分からない。何だか分からないが、それを今言うべきだと、何となく感じたから、言っただけだった。
マリはあたしのその言葉に後ろ姿のままちょっとだけ頷き、それから一拍置いた後、まるで人が玄関から出かけるような軽い足取りで、雲から一歩踏み出した。
すぐにマリの体はまるで身投げするかのようなスピードで地上へと落下していき、5秒もしない内にまるで豆粒のような大きさになり、そして、その豆粒はさらに細かい光の粒子になっていった。
あたしはマリが光の泡になって消えていくその様を、ろくに瞬きもせず、見ていた。
あたしはなぜか、マリが青い星に向かって消えていった後も、しばらく目を離すことができなかった。
その後、あたしは長い長い時間、消えたマリの残像を眺めて過ごした。
マリがいなくなった翌日のこと。
あたしは大天使に、マリがどの人間になったのかを教えてくれるよう、頼んだ。
大天使はあたしに「なぜまだマリを気にするんだ」と尋ねてきたが、あたしにもその理由は曖昧で、「気になるからです」としか答えられなかった。
自分でもなぜマリのことを気にするのか分からなかったが、そうしたいという衝動が抑えられなかった。
大天使に調べてもらうと、マリは転生したその翌日に、『真理』という名前の女の子として、東京で産まれたようだった。あたしはその産まれたばかりの真理をヒトメガネで見て、なぜか沈んでいた気持ちが浮かび上がるのを感じた。
「元気に大きくなるんだぞー」
あたしは病院で産まれたばかりの真理をヒトメガネで観察しつつ、弾む声でそう言った。なぜあたしは真理をこんなにも気にするのか、その理由は分からなくとも、あたしの中でマリは何か特別な存在なのだろう。
あたしはせっかちだから、それ以上理由について考えようとは思わなかった。
それからというもの、天の世界からマリがいなくなったので、あたしはほとんどの時間を一人で過ごした。
マリ以外にも天使はたくさんいたが、仲良くなれるとは思っていなかった。マリ以外でせっかちで短気なあたしを受け入れてくれる天使などいないだろうと思っていたからだ。
だから、ドーナツを食べたり、夜寝る時も、独りだった。なぜかは分からないが、何を食べても美味しくはないし、夜は温かさが減った。思いがけず、目が熱くなる時もあった。
毎日毎日、欠けた何かを埋めるように、病的に、あたしは真理を観察した。
朝から晩まで、真理を見ていた。真理がただの赤ん坊で泣き叫ぶだけの日も、小学生になり学校に通う日も、中学生になり勉強する姿をも、あたしはずっとずっと、見ていた。他の観察のように、飽きはこなかった。
ただただ、見ていたくなるのだ。
真理の観察を始めてから、20年ちょっとが経った時。
真理は21歳で大学生になっていた。同じ年の夏、彼女の身にある不幸が訪れた。
真理の母親が病気で死んだのだ。
真理の母親は死ぬには相対的に早すぎる歳で、発見が遅れたある病気が原因であり、日本には当時、治せる医者がいなかった。
そして、真理は母親が死ぬと狂ったように泣いた。あたしはその真理を見て、なぜか自分も胸が熱くなり、目から涙が零れた。
「ほら!こんなことになるから!だから、いくなと言ったんだ」
あたしは自分が持つ揺れるヒトメガネに水滴をこぼしながら、そう言った。
あたしは自分がなぜ泣いているのか分からなかったが、あたしの言うことを無視して地球へ行ったマリに怒っているのだろうと、自分を納得させようとした。だが、手の震えは止まらなかった。
それから数日、暗い気持ちのままあたしは真理を観察し続けたが、真理の私生活も明るいものではないようだった。
真理は毎日のように大学を休み、たまに、泣いた。そして真理と父親との関係もギクシャクし始めた。
時折、二人は口論をするようにもなった。
そんな真理の毎日を見ていて、あたしの中には、言い知れぬ感情が沸き上がっていった。わなわなと震える何かが、抑えきれなかった。
その感情は日に日に大きくなり、真理の母親が死んでから6日も経つと、その感情はあたしになぜか、ある決断をさせた。
あたしは人間に生まれ変わることを申請していた。
「なぜ、人間になりたいんだ?」
人間になることを決めたあたしに、大天使はそう尋ねた。
だが、あたしは「なりたいからです」としか答えようがなかった。
ここ数年、あたしを動かしているのは、衝動だけだった。もちろん、その衝動の正体は不明なままだ。
「マリに関係あるのか?」
大天使は続いてそう尋ねてきたが、「おそらくあります」としか答えられなかった。
それを聞いた大天使は、あたしにそれ以上何か質問してくることはなかった。全ての天使は感情が分からない。それは大天使も例外ではなく、なぜを説明できないあたしのことを察したのだろう。
それから、大天使はあたしに人間に転生するルール等を説明した。転生する人間の名前は天使が自由に付けることができる。そして性別や、誕生するタイミングも決められる。遡って生まれることもできる。
できるだけ天使の今と同じ状態で生まれたかったあたしは、真理が生まれる時間まで遡って生まれることにした。同じ日に同じ時間で、真理と同じ女の子になる。
新しいあたしの名前は、『美理』。
「生まれる場所も真理の近くにしてください」
あたしは大天使にそう頼んだ。大天使は「それで申請してみる。明日には生まれ変われるはずだ」と言った。
その日の夜、あたしはなぜかいつもよりも心が寒く感じなかった。なりたくもなかった人間になるというのに、あたしの胸は熱く、弾んでいた。
翌日。やはり天気のいい日。
朝一番にあたしは雲の縁に立っていた。そばには立会人の大天使がおり、最期に、と大天使はあたしに言った。
「なぜ、真理のためにそこまでしようとするのだ」
それにあたしは、はっきりとした声で答えた。
「分かりません。でも、行かなきゃいけないって。あたしの心臓があたしに言うの」
あたしのその言葉に、大天使は溜息をつくと、
「たまにはそういう衝動的な行動もいいかもしれないな。もう、何も言うまい。じゃ、元気でな」
とあたしの背中に言った。あたしは大天使の方を振り向かずに小さく、「さよなら」とだけ言った。それからあたしは、少し助走を付けて走り、雲の世界から勢いよく飛んだ。
少しでも早く、少しでも近くへいこうと。
「待っていて」
そう呟き、空に身を躍らせたあたしに、青い星が目下に迫った。
飛び降りたあたしに、すぐに新しいあたしが入ってくる。同時に、あたしの身体は光となり、拡散していくのが分かった。時間が遡り、過去の世界へ自分が巻き戻る。
しかし、設定したはずのないある情報があたしの中に入ってきた。
それは、あたしが生まれる場所だった。
あたしは東京で生まれることを希望したのに、あたしの生まれる場所は、そこから遠く離れた北海道になっていた。
「そんな、どうして!
こんなに離れてたら、会えない!」
光になりつつあるあたしの身体が、東京を横目に北上していく中、あたしは目を閉じて心の中で念じた。
「絶対、絶対に!真理に繋がる何かを残す…!」
それからすぐに、あたしは光の欠片になり、青い星へ吸い込まれていった。そんな中、あたしは最期の瞬間まで強く自分に念じ、想いを残し続けた。
「きっと、待っていて」
その囁くような一言を最期に、光る天使としてのあたしは散り、青い星へと消えた。
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