第一幕 夾竹桃祭りの夜

序章

ある少女の死

__イス皇国__555年7月20日21時頃



 あたしは今、誰だったっけ。

 走りながらぐしゃぐしゃの頭の中を整理するけどうまくいかなかった。


「林に入ったぞ!」

「追え! 撃ってもかまわん!」


 思考を邪魔するのはあいつらの声。

 パン! と銃声が聞こえた。

 もういい加減諦めてほしいのに、実のところ追われる緊張感でなんとか意識を保てている。――保てているのだろうか?


 ええっと、あたしは今ルーシーだっけ。 

 いや、違う。ルーシーはずっと塀の中だった。中庭に出ても見上げた空は塀と建物とでいびつに切り取られ、今みたいに港に停泊する蒸気船や街明かりが煌めく夜景なんて見たことがなかった。潮の匂いがする夜風も知らなかった。


 あの場所は、そう、タルコット侯爵家の翼棟だ。与えられた個室は狭いけど、不衛生ではなかった。自分たちで掃除していたから。

 外に出られるのは昼間だけ。毎日勉強ばっかりで、答えを間違うと折檻されて、翌日には治ってるからまた同じように鞭で打たれた。まるで馬扱いだ。そしてあたしは今、まさに馬車馬のように必死に走っている。


 ぜぃ、ぜぃ、と肺が悲鳴をあげた。

 一時間も走りっぱなしだと体力自慢のイモゥトゥでもそろそろ限界。一時間? もっと前から逃げていたような気がする。あいつらに見つかったのはテント街、たしか茜空に蒸気船の煙が黒く棚引いていた。今は、木々の合間からのぞく星空の一部を黒煙が塗りつぶしている。スッと星が一つ流れて黒煙の中に消えた。


「いたぞ!」

「あっちから回り込め! 崖に追い詰めろ!」


 パン、パンと二度銃声がし、バサバサッと羽音をたてて鳥影が目の前を横切った。あたしは密かに「クソッタレ!」と吐き捨てる。ふと、セラフィアお嬢さまのことが頭を過った。


 ――ユフィ、そんなはしたない言葉をいったいどこで使うの?


 以前仕えていたエイツ男爵家の令嬢は、真面目で、努力家で、好奇心旺盛だった。あたしがうっかり口走った「クソッタレ」というロアナ語の意味を興味津々に尋ね、ヨスニル語に訳すと「ええっ」と眉を寄せた。あのころのお嬢さまにはまだあどけなさが残っていて、しかめた眉も、非難するような目つきも、彼女の何倍も生きているあたしから見ればずいぶん可愛らしく映ったものだった。

 

 研究所に送ったお嬢さま宛ての手紙は無事ついただろうか。もう目を通してくれただろうか。彼女がイモゥトゥ研究者になったことをもっと早く知っていたら、もっと早く研究所に手紙を出していたら。

 不意に〈魂の死〉が近づいているのを実感し、じわっと瞼が熱くなった。

 たぶん、お嬢さまから返信があったとしてもあたしがそれを目にすることはない。


「まだ、死にたくないよ」


 林の中を走っていたはずがいつの間にか目の前はひらけ、暗い水平線と、星空と、入江の港、停泊した蒸気船。今夜は夾竹桃祭りだから街の方がずいぶん明るい。ジチ教徒でもないくせに、海沿いにあるディドリーのテント街も色とりどりの灯が瞬いている。

 このまままっすぐ行けば行き止まり、その先は絶壁で海にドボン。林に引き返せばあいつらと鉢合わせる。


「泳いで帰ってみせましょう」


 ディドリーの踊り子風に節をつけて口にした。そして、勢いをつけて崖から飛び降りた。


「くそっ! 飛び降りやがった!」

「戻れ! 舟を出せ」


 頭上から聞こえる声が、衝撃とともにゴボゴボという水音に変わる。現実が真夏のぬるい海水と百数十年分の記憶に飲み込まれ、思考が振り出しに戻った。あたしは今、誰だったっけ?

 ルーシー? 

 ユフィ?


「ダーシャ!」


 そういえばディドリーに混じって踊り子をやっていたときはダーシャだった。


「ダーシャ!」


 もう一度呼ばれ、散り散りになった意識をなんとか寄せ集めると一艘の小舟が近づいてくるのがぼんやり見えた。パシャン、パシャンと、規則的に櫂が水をかく音が心地よかった。

 手足の感覚はすでに曖昧で、街の明かりも星屑もどこかへ消えて、海底に沈んでいくのか、それとも雲の中を漂っているのか、見たような景色と知らない景色が脈絡なく浮かんでは遠ざかっていく。


 ――クソッタレ。


 どこかから、お嬢さまのはしたない言葉が聞こえた気がして、境界を失った意識の中であたしは瞼を持ち上げる。キラキラの金髪。大人びた切れ長の目に青空のような碧眼。あたしはその澄んだ空にのまれていった。

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