第7話
それからまた二年の月日がたった冬のことだった。喜一はある大工現場でのことが気になって、夜に外へ出て行燈を灯し、現場へ向かっていた。風が強く、冬の冷たい北風が着物の隙間から肌を刺す。現場に着くと、喜一は持ってきた設計図を行燈を頼りに広げ、昼間に大工仲間と組んだ柱を確認していた。
「やっぱり、ここの梁の組み方が違う。どおりで風でよく揺れるわけだ。これじゃあいつ倒れてもおかしくないぞ」
その時、背中の方から風の音に紛れて頼りない声が喜一の耳に届いた。
「おっとう!」
それは紛れもなく、四才になった息子の声だった。
声の方を探すと、家材を並べている場所に、息子の小さな姿があった。四才になった息子は活発に歩くようになったから、喜一が外へ出るのを見て、家からついてきていたのだ。
喜一は焦る。大工現場は子供には危ないものが多すぎる場所だ。道具一つとっても四才の息子に当たれば、簡単に骨を砕くだろう。
「喜助、こっちに来るな!」と息子の名前を呼ぶ。喜助は、びくりとして動きを止めた。同じ時、突風でどこかから飛んできた瓦が、壁用の木材を縛っている縄にがつんと当たり、
悲運にも、大人二人分以上の丈がある木材が、喜助の方へ傾いていった。当然、喜一は走るが、無情に木材は倒れていく。
「おい、嘘だろう……喜助! 返事をしてくれ!」
重い木材の擦れる音と、土煙が上がって、すぐに強風に飛ばされていった。
喜一の血の気が引いていく。まとめ紐が千切れ、倒れた木材は七本。子供の姿は見えなかった。
少しの静寂の後、木材の下敷きになったらしい、黒い何かが動いて、木材を跳ね除けて立ち上がった。白い肌が浮かび上がり、それは大人の男だった。腕には目をぎゅっと瞑った喜助が無事に抱えられていた。
「あぶねえなあ。こんなとこで子供が何してんだ。いよっとぉ!」
男は木材を片足で持ち上げ足元からどけた。歩き出すのに邪魔だったのだろう。
「あんた……フーさんか……? なんでここに……」
喜一は目を見開いた。息子をかばって一緒に木材の下敷きになっていたのは、紛れもなく二年前に賭博場で別れたきりの不死郎だった。
「これ、あんたの息子ですか? こんな現場に夜に子供を連れてくるなんて、不用心にも程がある」
不死郎は相変わらず、まるで昨日ぶりかのように「意外とかわいいじゃないですか。女房似ですか」と飄々とした様子で息子の頬をつついている。
ひとまず、喜一は息子を受け取るため両手を差し出した。
「なんであんたがここにいるのかわからないが、助かったよ。ありがとう」
喜一の差し出した腕に、不死郎は喜助を渡してきた。喜助は怪我はないようで、土煙が目に入ったのか、喜一の着物にしがみつきながら、片目を擦っている。
ひと安心して見上げた不死郎の顔、その額からどろりと赤い血が流れる。頭を切っていたのだ。よく見ると、肩の方からも紺色の着物に血が滲んでいる。
「おい、フーさん、あんた怪我してる。医者に診てもらおう」
「喜一さん忘れたんですか、怪我の治りが早いんです。俺に使う薬の無駄ですよ」
こんなのはねえ、と、自分の着物の袖でひたいの血を雑に拭ったあと、帯の内側に挟んであったのか、二つ折りで刃をしまえる小刀を取り出し、ためらいなく袖を割いて布にした。残った袖を肩まで捲り、口と片手で布を傷に巻いていく。不死郎の肩は無惨にも黒っぽく変色し、巻いた布にもすでに血が滲んでいる。不死郎はかなり慣れた手つきでだったが、顔は苦渋にしかめていた。やはり痛みはあるのだ。
喜一は急いで子供の地面に立たせ、不死郎を手伝おうとした。
「治るったって、あんた痛そうじゃねえか。やっぱり医者に……」
「いいんです。これは放っておいてください。それより、そろそろ町を移動しようと思うから、喜一さんにね、もう一度口笛を教えてもらおうと思ってきたんですよ」
「あんた……口笛を教えてもらうために、こんな冬の夜に、広い江戸の町で俺を探してたってのかい」
今は冬だ。しかし不死郎の格好は、出会った時と同じ、薄手の紺色の着物だった。きっとこれが一張羅なのだろう。
「なんです人を馬鹿みたいに。いいでしょう俺はそこらへんで寝ても死なないんですから。夜目も多少ききますし。賭博場で聞いたのは中途半端でしたから、もう一度やり方を聞いて次の町までそれで暇つぶししようと思って」
江戸の夜は暗い。特に喜一が住んでいる住宅街なんかは月明かりぐらいしかない。こんな暗くて寒い場所を、たった一人でふらふら歩いてきたらしい。必要なくとも、せめて灯りくらい持ってもいいだろう。自らを人扱いしていないみたいだ。
(こんな寒くて風が強い日くらい、家にいたっていいだろうに。しかも昼でなくこんな夜に人さがしなんて無茶苦茶だ……わざわざ夜に仕事場を見にきた俺も同じか。ひとまず、早く家に帰ろう)
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