異界 東京
水底 草原
第1話 期待
廃墟と化した東京。
全身から血を流し、一心不乱に走る少年が1人いた。
ビルの壁は崩れて木々が
アスファルトが
その黒い何かは、重力を無視して、崩れかけのビルの壁を
「もう追いついてきたのかッ!?」
壁のコンクリートを握りつぶしながら、近づく音が徐々に大きくなる。
そして、少年の背後にゴトッと音を立てて何かが降り立った。
「あっ……あ……」
振り返ると、その黒い何かは、少年を冷たく見下ろしていた。
昨晩。
『
ベッドで眠りに落ちかけていたとき、枕元に置いたスマホが光った。
通知を見ると親友からのメッセージだ。
親友との会話以外は、広告ばかりのアプリを開き、すぐに返信する。
『剣道部は? 全国大会近いんでしょ?』
『急に休みになった😏 だから行こうぜ!』
『ごめ 明日うちの店、バイトが入んなくて』
『またかよ・・・いくら親が
『わるい いつも誘ってくれてありがとKK』
『OKまたメッセするー』
今日も体が重い。
日中から夜まで店番し、遅めの晩ごはんを済ませ、風呂から上がるともう23時を過ぎていた。
――明日の朝も早い。早く寝ないと
朝6時のアラームを、スマホでサッと確認する。
位置がずれた充電ケーブルを直し、スマホを枕の横へ投げるように置く。
桜の季節とはいえ、夜は冷える。掛け布団をもう一度、深くかけ直した。
連日の疲労がたまっている。
サナユキは、すぐに眠りへと落ちていった。
夢と無意識の狭間をわずかに漂った後、再び、意識が集められた。
「……またか」
ここ数日、同じ
廃墟のど真ん中に1人。
よく知った道、何度も入ったことのあるスーパー、眠気眼でぶつかった電柱。
見慣れた近所である。200年は経ったのではないかと思えるほど、荒廃していることを除けば、だが。
――やっぱり誰も居ない
東京にもかかわらず1人も歩いていない。
夢なのだから当然といえば、当然か。
目の前には、剥がれたアスファルトから大きな木が見えた。
いたるところに木々が生い茂り、街のネオン看板にはツタが
そして、より異質なものが目を引く。
「相変わらず分けがわかんない。何だ、この卵?」
廃墟と化した東京には大小の卵が無数に落ちているのだ。
小さな者はうずらの卵ほど、大きいものはダチョウの卵ほどある。
そのうちの1つ、純白の卵を拾ったサナユキ。
夢は記憶や深層心理が反映されたものだと聞いたことがある。廃墟と化した東京と無数の卵に何の意味があるのだろう。
「誰も居ない世界に生まれ直したい……ってか」
1人苦笑していると、突如、背後から声が聞こえた。
「……あら、珍しい」
少女の声だろうか。
「ん? 誰?」
振り向くと同時に陽炎のように世界が消え去った。
代わりに、ぼやけた視界が目に入る。
そこは見慣れた自室の天井だった。
大きく吸い込んだ朝の冷たい空気に、体が縮こまりそうだ。
窓の外へと視線を移すと、まだ空は夜明け前。
時計を横目で見ると、セットしたアラームが鳴る15分前だ。
――はぁ、二度寝はできないな
ため息をつき、ベッドから起き上がった。
部屋の扉に手をかけた時、何かを蹴飛ばしてしまった。
竹刀である。
3尺6寸の子供用。竹刀袋から飛び出た
ずいぶんと前に剣道は辞めたはずなのに、何年も捨てきれずに部屋に置いてあるものだ。
竹刀を再び丁寧に壁に立てかけ、部屋を後にするサナユキ。
向かった先は、誰もいないダイニングだ。
併設させれたキッチンは半分物置のようになっており、昨晩に残した洗い物がある。
だが、静かな朝の古い一軒家、というわけでもない。
「「うぅぅ! にゃーーッ!」」
ドタドタと足元を何かが通り過ぎた。
「クロ、エリザベスを追いかけるのをやめろ」
黒勝ちのアメリカンショートヘアが、白いペルシャ猫を追いかけている。
走ったまま2匹は隣の部屋に消えていった。
「んにゃあ」
甘えるように足へ体を押し付けてくるのは、折れ耳のスコティッシュフォールド。
「はいはい。今、ご飯いれるから」
サナユキは、1階へと降り、猫たちの部屋へと足を向けた。
下にペットドアが付いた扉を開けると、そこは猫たちの部屋だ。
キャットタワーの上に、箱座りしていた3匹の猫が、軽やかに降りる。
天井付けの棚からキャットフードを取り出すと、ずらりと並んだ皿へと注いだ。
猫たちが一斉に群がる。
ご飯を頬張る猫たちから離れ、後ろに並んだトイレへと向かう。
猫たちの排泄物を一個ずつ確認しながら、ビニール袋へと集めていくのだ。
体調管理の一環だ。その後も、目ヤニ耳ヤニのチェックに続き、爪の手入れ、ブラッシングと、やるべきことは多くある。
自分の朝ご飯を食べる暇もなく、たちまち開店の時間がやってきた。
他界した両親が営んでいた猫カフェ『福猫』の開店である。
猫専用部屋を挟んで反対側の扉を開けると、フローリングと
猫たちを傷つける可能性があるため、椅子や机は一切、置いていない。両親のこだわりだった。
猫たちの世話を終えると次は、料理の支度。
とは言っても簡単な菓子の詰め合わせだけだが。
両親が生きていた時は、食材が
あと少しで開店。
店内の有線放送のスイッチを入れ、『都内での不審死が相次いでる事件の続報です。田中厚生労働――』というニュースアナウンサーの声を遮るように、店の扉が開いた。
入ってきたのは小太りの中年。
「
中年の男は、無言でカバンを放り投げる。
「ったく、あのクソバイトが! 辞めやがって!」
朝からブツブツと文句を言っている。
おそらく
フロアは土足禁止だが、
「
そして、
「店長の俺に文句言ってのかッ!? バイトの分際でッ! ああッ?」
いつものことではあるが、今日は特に機嫌が悪いようだ。
確か昨日、近くのパチンコ屋で、スロットの新台がでるとか、でないとか、口にしていた。
「す、すみません……」
舌打ちをして、サナユキを放り投げるように手放した。
「未成年のお前がオーナーやってられるのも、俺がいるからだろうが! こんな潰れかけの店の運営を手伝ってやってんだ、感謝しろ」
猫カフェの運営には、第一種動物取扱業や動物取扱責任者の設置など、行政の認可がいる。しかし、サナユキはまだ必要な資格を持っていないのだ。
両親が急死し、猫カフェをたたむかを悩んだ時、銀行に紹介されたのが
サナユキは歯を食いしばりながらも、無理やり笑みを作る。
「はい。全部、
なおも腹が収まらないのか、腹が大きく出た中年男は、荷物と椅子だけが置いてある厨房へ引きこもり、スマホを
機嫌が悪いときは一切、接客しないのだ。
開店後もそんな調子で、ほとんど1人で切り盛りしながら店を回していく。
正午を過ぎ、入店対応が一通り終わったときになって、やっとアルバイトの大学生が来てくれた。
――ふう。昼ご飯が食べられる
一言二言アルバイトへ状況を伝え、ダウンジャケットを羽織りながら、店を出ようとしたとき、カランと店の扉が開く。
「いらっしゃ……い、ませ」
サナユキの視点が釘付けとなる。
視線の先には美しい少女が1人。
齢は同じくらいで、おそらく高校生だろう。
「入れますか?」
「あ、はい! 今日も、お1人でしょうか?」
――しまった
思わず『も』などと口走ってしまった。
これでは、まるで顔を覚えているみたいではないか。
少女は先々週から3度ほど店を訪れてくれており、来店が密かな楽しみだったのだ。
「ええ」
気恥ずかしさで顔を赤くしたまま、口早に答える。
「す、すみません、今は満席です。30分後くらいであれば、おそらく席が空いていると思います」
「あら、残念です。では、このあたりで待てる場所はありますか?」
「それならカフェが。店を出てから左へ行って、3つ目の交差点を右に曲がった所にあります」
「あの……よければ途中まででよいので、案内してもらえませんか? 私、方向音痴で」
サナユキの顔が更に赤くなる。
着かけたダウンジャケットから、今から外出することを推測したのだろう。
「い、い、いいですよ!」
そのまま一緒に眼の前の大通りへ出たものの、どう会話をしてよいのかもわからず、無言のまま歩くしかない。
緊張するサナユキに対して、少女が微笑みを浮かべながら顔を覗き込んできた。
「いつも、あのお店で働いてるんですね」
「ひ、ひゃいっ!」
ひどく裏返ってしまった声が、虚しく響く。
「面白い人ですね……すごく興味があります」
息を呑む。
――きょ、興味!?
耳の先まで真っ赤になった顔を必死で誤魔化そうとするサナユキへ、少女は淡々と微笑みながら話を続けた。
「よければ、もう少し話しをしたいのですが、いいでしょうか?」
「お、俺でよければ! い、いくらでも」
「よかった」
少女がサナユキの手をサッと掴み、手を引く。
――柔らかい手だ
手から汗がにじみ出て、心臓がバクバクと音を立てる。
向かう先はビルとビルの間のようだ。
真昼というのに薄暗い。
室外機から出る熱気で暑苦しく、なんとも言えない生乾きの臭いがする。
全く気にした様子もなく、楽しそうに手を強く引き、誰も居ない奥へと進んで行く少女。
「あの、どこへ……ってッ」
急に少女が、サナユキを通りから見えない壁へとガッと押し付けた。
そしてまじまじと顔を覗き込んでくる。
「本当に興味深い」
少女の輝く目に違和感を覚えて仕方ない。
「え、あの、どういう?」
「知ってます?
全く意味がわからない。
「………………はい?」
返答に困りながら、目を見返すが、本気のようだ。
――もしかして、電波系?
少女は手を離して、サナユキの肩を両手で強く押し始めた。
痛みが肩に走る。
不思議なことに、自分より小柄な少女が押し付けた手は、万力のように固定されたまま、動かない。
「知ってますよね? だって、何度もあなたを異界で見たもの」
突然、背中に感じる壁がスッと消えた。
「うわッ」
受け身も取れず、背中から倒れこむサナユキ。
焦り、というより恐怖に近いものが胃の辺りを駆け抜けた。
押し倒され、背中に衝撃を覚えつつも、目の前にいるはずの少女へとすぐに視線を戻す。
「な、何するんですか!?」
だが、目の前には誰も居なかった。
「え? だって、今さっきまで」
何が起きたのかも分からず、あたりを見回すサナユキ。
そこは夢で見た、廃墟と化した東京だった。
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