桃色頭巾参上
@Haah
第1話
1
俗に、
「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も寝られず」
などと申します。
ペリー来航以来、江戸の町はハチの巣をつついたような騒ぎ。
幕府の狼狽は敏感に庶民に伝わり、漠然とした不安が広がって、そこかしこで押し込みやかどわかしなどが横行する物騒な世となっておりました。
そんな幕末のある夜。ひとりの町人が帰宅の道を急いでおりました。
この男、したたかに酒に酔っております。
もともと酒好きで遅くまで飲み歩くの常としておりましたが、さすがにこの世情で夜道の一人歩きは剣呑と、近頃は早く切り上げるように心がけてはいたのですが、そこは吞兵衛のだらしなさ。
ついつい行きつけの居酒屋に長っ尻を決め込んで、ハッと気が付けば、とうに夜九つ(深夜0時)を過ぎている。
あわてて店からを提灯を借り込んで、おっかなびっくり夜道に出てはみたものの、寂しい街道に柳の枝だけが揺れている光景が、なんとも心細くてたまらない。
(くわばら、くわばら。辻斬りが出たって噂もある。あんなに呑まなきゃ良かったな)
毎度、呑兵衛が繰り返す、薄っぺらい反省の念をかかえて、ブルブル膝をふるわせながら、長屋までの距離を酔眼で測っております。
この街はずれの赤ちょうちんからは、それほど遠くない自分の棲み処のある街並みがぼおっと黒く浮かんで見えるのは良いけれど、しかしなにやら風に乗って捕り方の声やら半鐘の音さえ伝わってくるではないか。
(ややっ。なにか騒ぎか?)
思わずへっぴり腰になってしまった彼の耳に、ヒタヒタヒタという足音が近づいて来る。
身を隠すように提灯を両手で押し出してみると、なにやら人影らしきものがこちらに向かって走ってきている気配。
(な、なんだぁ?)
恐怖をこらえて、酔った瞼を無理に見開いた彼の眼前にあらわれ出たもの――。
町人が驚いたの驚かないのったらありません。
まず提灯の淡い光に照らし出されたのは、真っ白い乳房。
そのふたつの優美な半球が、頂きのピンクの乳首も鮮やかに、疾走のリズムに合わせて弾んでいます。
続く腹部は肌なめらかで引き締まり、中央にかわいらしいお臍が見て取れます。
逞しさすら感じさせるスッキリと伸びた両下肢は力強く大地を蹴って、その粘っこい肉づきの両腿の付根には、さも柔らかそうな艶っぽい茂みがほんのりと盛り上がり、女の印である羞恥の肉割れまでを堂々と見せつけているのです。
「出たーっ!」
町人は提灯を取り落とし、うずくまりました。
そりゃそうです。
迷信深い当時のこと。夜道でこんな奇怪なものにぶつかって、平気でいられるわけがない。
白狐の化身か、はたまた夜叉の変身か。
どちらにしても、この世の者と思われぬ、まこと妖異の類いに違いない。
(なんまんだぶ、なんまんだぶ)
道端に放り投げられた提灯のろうそくの火が、まわりの紙と竹ひごに燃え移り、ぼっと黄色い炎を上げます。
その明かりの中、傍らを若き女人のまばゆい裸身が足音高く駆け抜けて参ります。
その全身を見るや、なぜか胸どころか女の秘部までさらけだした恥ずかしい姿なのに、頭部にだけ赤い布きれが覆っており、頭巾のように顔を隠しているのがわかります。
もとより怯える町人は恐怖で顔も上げられません。したがってその不思議にも謎にも気が付きもせず、ただ必死に、
(権現様、権現様。もう酒はこれっきりにしますので、命だけはお助けください。ヒイーッ)
と絶対に守ることのできない約束を、胸の内で繰り返すばかりです。
そうこうするうちに、奇妙な人影は急速に遠ざかっていき、いつしか美しい桃のような臀部だけが月明かりに照らされ、そしてそれもやがてゆっくりと夜の闇に消えて行ったのでありました。
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