荒波の舵取り

【い-14】文学フリマ京都_筑紫榛名

(23)

 阿久悠という作詞家をご存じだろうか。尾崎紀世彦が歌う『また逢う日まで』やピンク・レディーの『UFO』など数々のヒット曲の歌詞を書いた人物だ。その彼が書いた詞の中に『津軽海峡・冬景色』もある。私は昨年の十二月、その歌詞と同じように、雪の中の青森駅のホームに降り立った。実際に降り立ったのは、東京駅発の東北新幹線から屋根に覆われた新青森駅のホームであったが。

 そうして私は久しぶりに故郷に戻ってきた。新青森駅から奥羽本線と五能線を乗り継ぎ、五所川原駅に降り立った。私の生まれ故郷だ。ここから津軽鉄道で北へ向かえば、あの太宰治の生家もある。

 久しぶりに戻ってきた故郷で、最初に訪れたのは、実家ではなく、墓地であった。海外生活が長く、親孝行もろくにできなかった父母の墓はもちろんであったが、このときの目的は、実は別にあった。それは、私が子どもの頃、近所に住んでいた二歳年上の赤木メイ子という女性の墓であった。

 というのも、彼女は私の人生に大きい影響を与えた人物の一人であったからだ。前回までに述べた海外事業部での仕事も、私が社長に就任してからの仕事も、彼女が私に言って聞かせた言葉があったからこそ、私は成し遂げられたのだと思っている。

 赤木さんは、私より二歳年上の女性だった。家が近所であったのだが、奇しくも同じ高校に通っていた。

 当時はまだ高校進学率も高くなく、女性は中学を卒業したら奉公に出たり、農家や漁師の家事手伝いになることが多かった。しかし、彼女の実家は地元でも周囲の農家をとりまとめる豪農であった。そのため、その家の一人娘である彼女は高校へ通う費用も出せる余裕がある家であった。ちなみに前回までに度々述べているが、私の実家は貧しい農家であった。ただ、実家は一番上の兄が継いでくれた上、私と妹についてはお金を出してくれて、なんとか高校に通わせてくれたのだった。

 彼女は大人しく、人見知りの女性で、目立つような人ではなかった。そのため、小学校の頃からその存在は知っていたが、それ以上のことはよく知らなかった。

 そのような彼女と接近したのは私が高校一年生から二年生に上がる前の三月、すなわち彼女の高校の卒業式の前の、多分三年生の登校日だったのだろう。私はたまたま帰りの電車が同じになり、同じ五所川原の駅で降りた。


江島優次郞 極皇商事元社長

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