配信開始前

アサフェティダの香りに乗せて



 あぁ、いい匂い。


 鼻の奥にこびりついて取れない、この匂い。


 刺激が強くて、臭いけど、少し奥深い。



 なんの匂いか、わからないけど、もう一度、会いたい。


 私は、そう強く願った。




×+×+×+×+×



 

 私には、親がいない。数ヶ月前に、失踪した。

 なぜか、わからない。


 けれど、前に仕事に行くと言って、行ったきり帰ってこなくなった。


 もう、しばらく会っていない。


 学生の身であった私には、それがどれほど苦しいものなのか、すぐにはわからなかったが、のちに知る事となった。その身を持って。



 なぜかは、わからない。



 それから、さらに約15年が経った。


 私は、28歳で、ずっとカンボジアに住んでいる。

 スリや強盗が多発する、危険な国ではあるが、身元不在の居場所としては、十分であった。


 犯罪率も高く、銃火器も一般的に出回っている。自分の身は、自分で守る国だ。


 身分も人権も知らない私にはちょうどいい。





「はぁ。」


 ため息とも、あくびとも取れる、不可解な声を出す。

 木陰で座り、あくびをして眠る。それが、私のルーティンワークだ。




 パラパラパラ


 雨音で私は起きる。まさか、この時期に雨が降るとは。

 カンボジアでは、今乾季が来ていた。

 雨が降ることなど、ないはずだが。



「少し、邪魔するよ。」


 そう言って、私はどこかの軒下に移動した。

 服が濡れて風邪をひけば、たちまちここでは死んでしまう。


「あいよ」


 店主の声も聞こえた。少しくらい飲んでやるか。まぁ、何があるかはメニューを見てもわからんのだが。


 読み書きができないのが、まさかこんな時に障害となるとは。


「とりかえず、店主のおすすめのドリンクを頂こう。」


 なんとか、注文した。何が出てくるかわからないが。

 おや、先客がいたようだ。


「どうも。」


 声をかけられた。

 とりあえず、返す。


「どうも」


 相手は、黄色人男性。クメール人にしては、肌が浅い。白人とまではいかないが、おそらく中国人だろうか。

 だとすれば、おそらく貿易の商人だろう。少し、おこぼれでももらえないだろうか。


「どうしてこんなところに?」


「いや、迷ってしまって。日本と違うものだから。」


 こいつ、日本人だったのか。

 じゃあ、おこぼれは無理か。


「雨、止むといいですね。」


「そうですねぇ。」




×+×+×+×+×




 数日後。


 再び、あの店を訪れた。

 すると、またあの男がいた。


「お久しぶりです。」


 声をかけると、彼はゆっくりと顔をあげ、言った。


「パスポートとかを無くしてしまったんだ。おかげで、こんな感じさ。」


 この弱肉強食な社会において、彼はおそらく肉となるだろう。

 パスポートを無くして帰れなくなった、つまり身分を証明できない人間は、ここでは鴨になる。

 なんだか、少し興味が湧いた。


「なら、一緒に来ますか? 特に家もないですけど。」


「いいんですか? ありがとうございます。」


 こうして、歪な共同生活が始まった。




×+×+×+×+×




 一般的に日常生活ではあまり困ることはない。強いて言うなら、医療関係や食事だろうか。

 屋台のものは食べるとお腹を下すこともある。最悪の場合は、そのまま感染症だ。


 私の場合は節約のために、日雇いのバイトで稼いだお金を使って生活していて、宿のお金を使わずに野宿した。



 そこに、日本人である彼が加わった。


 不思議と、楽しかった。



 お金も減るから、娯楽に行けることも減ったけど、前よりずっと、笑いが増えた気がした。




「おはよう」


「おはようございます。」


 今日も、変わらず挨拶を交わす。

 もちろん、朝食を作るための器具などないので屋台に行く。


 屋台は、朝の通勤に合わせてもう開いている。


「二つください。」


 そう言って、待つ。屋台は手軽だが、食事に菌がついているなど、実は衛生面のリスクも高い。

 だが、安い方は屋台なので仕方ない。


 彼の方を振り返ると、何か決意を固めたような顔をしていた。


「実は、パスポートの失効手続きが終わって、日本に帰れるようになったんだ。」


 衝撃の告白だ。まぁ、いつか帰るとは思っていたが。


「それと、君の名前で、友達に探してもらったら、君の戸籍が見つかったんだ。」


 まさか、そんなことをしているとは思わなかった。


 自分の家族……か。

 複雑だな。


 果たして、今、どんな顔をしているだろうか。

 嬉しいのか、悲しいのか。自分でもわからない。


「最後に、家族に会いに行こうよ。」


 彼は、そう言った。




×+×+×+×+×




 その、当日となった。


 あたりには、あの独特な匂いが漂っている。


 あぁ、懐かしいな。


 まさか、この農園に家族はいるのだろうか。あの後、戻ってきたのだろうか。



「着いたよ。」


 彼は、そう告げた。つまり、ここと言うことだ。

 ここは、来ることもないと思っていた、実家。方向を見失ったため、あの後2度と行っていなかったが、見た目だけは覚えていた。


 間違いない。ここが、実家だ。



「こんにちは。」


 彼の方に目向けると、私の家族なのだろうか。

 顔を覚えてすらない家族がいた。


 不思議な感覚だ。


 きっと、この人たちと私は血が繋がっている。そんな気がする。けれど、いきなり他人を家族と思えと言われても困る。そんな気分だ。


「まずは、見つけてくれてありがとな。」


「あぁ、大丈夫。」


 思えば、彼との関係はおこぼれを狙いに行ったことからだったか。

 いや、あの雨からだろうか。


 まぁ、そんなことは構わない。


「じゃあ、またな。」


 彼と別れなければならない。


「必ず、また、来いよ。」


「あぁ。」



 彼との歪な関係は、ここで終わりだ。


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