離れの狂人

藤 秋人

離れの狂人

 私(わたくし)、小雪が斉藤様のお宅に女中として旦那様にお会いした時。それはもう、優しく。まるで我が子の様に扱って下さったのは、最初の大きな喜びでした。

 

「古参の女中にいじめられたら、迷わずためらわずに私の所にきなさい」

「今日から小雪は我が家の家族だ。女中だからといってそれは変わりはないよ」


 洋式のドアーやガラス窓の細工は美しく。ともすれば、あの頃のガラスなど女の力でも割れてしまうので、仕事を始めた当初は割ってしまいやしないか。農家の四女であるガサツな私ですから、それはもう神経を使ったものです。


  斉藤家は、ここら一帯の文明開化の旗手で。明治帝が崩御され、時代が大正に移ると民本主義の担い手として国会議員としても活躍。第一子の達郎様は、医学博士でいらっしゃり。私が、高熱を出した時は、達郎様御自ら薬を作り飲ませてくれたものです。


「小雪、僕らの大切な家族。女中の中でも君は勤勉だから。無理が祟ったのかも知れないね」


 たしかそんなことを仰っていました。

 これが、私の生活であり、世界であり。お屋敷は私にとってこの世の全てと言って過言ではありませんでした。


 そして、三年が経つ頃。達郎様が患者の薬を屋敷の実験室に忘れたとの電話があり。私が包み紙に綴じられた薬を駅まで届けることになりました。今思えば全く不思議な話なのですが、奉公に来て丸々三年間。私は一切、屋敷を出ることがありませんでした。思い起こせば、このお屋敷に来るときは緊張でガチガチに固まっており、気づけば斉藤の大きな門の前と言った有様でしたから。


 私は、斉藤の家の内側は知っていても外から見た斉藤の家と言うのを知らなかったのです。


 それはさておき、達郎様の実験室はあまり立ち寄りたくない場所。分厚いガラスの中にホルマリン漬けになった臓物や、死産の赤ん坊が棚に所狭しと陳列されており、その対面に良く陽が入る達郎様の大きな机があるのです。薬や帝国大学に出すレポートなどが、言い方は悪いのですが散乱しています。


 幸い、件の薬は、患者の名前と薬の名前が書いてあり。私でも直ぐ見つけることが出来ました。


「あら……?」


 薬を入れる紙袋がもう一つ目に入ったのは、その時です。乱雑に『テストステロン』と書かれ患者名のところには『一郎』とだけ書かれていました。普段、達郎様は決して崩した文字を書かれない方でしたから、この殴り書いた様な薬袋から得体の知れない怒りが漂っているようで、私は二、三歩後ずさりをしたものです。けれども、結局のところ『それ』がなんであるかは女中である私には関係なく、行ってまいりますと門を出て、久方ぶりに外の世界に出ました。


 本当に、三年間。一度たりとも斉藤の敷地から出ていなかったのです。

 病人は屋敷から二駅離れた場所にあり、達郎様は駅舎でお待ちになっておりました。


「達郎様、小雪でございます。お申しつけ通りの物をお持ちしました」

「小雪は本当に良い子だね。うんうん、薬もこれに相違ない。患者が待っているからね、私はこれから汽車に乗るよ。帰りは……夜遅くなるから駅についたら電話をするから誰か電話室に詰めているようにね」

「なら、小雪がお待ちしております。最近、達郎様は何かとお忙しいですから私。気が気でなりません」


 すると、駅員さんが『お兄ちゃん、こんな美人さんを待たせるなんて罪作りだね』と茶化すものですから赤面することしきりでした。


「ああ、そうだ」

 達郎様が何か思い出した様に声をあげました。

 

「小雪は、ウチに来てから外に出るのは初めてだったね。商店会を見回ってくると良いよ。どこの娘だと聞かれたら斉藤の名前を出して構わない。そろそろ、小雪にも外での仕事もやってもらいたいから。まずはゆっくり歩いてみなさい」


 私が、明確に上女中として達郎様専属になった瞬間でした。一生このことを忘れることはないでしょう。もっとも……今の私に、生涯を達郎様の傍でお仕えすることが出来れば、ですが。


 商店会の方々は、私が斉藤家。それも上女中と知ると丁寧に熱心に接してくれました。御用達の豆腐、御用達の魚屋などなど。その時ばかりは、女中としての立場を忘れ、まるで斉藤家の令嬢の様な気分を味わったものです。それで、その足で道をしっかり見て斉藤の門を再びくぐれば良かったのです。


 斉藤の屋敷は、ずっと大きな洋館が一棟建っているものだとばかり思っていました。事実、三年屋敷の中でご奉公させて頂いて、探偵小説などにありがちな隠し扉などもなく。庭から出ても、勝手口から出ても、見上げるのはモダンな洋館そのものだったのです。しかし、どういうことでしょう。私は見てしまったのです、ちょうど陽が当たらない屋敷の北の隅に、時代遅れな――そう私が生まれたうらぶれたあばら家のような――小屋があったのを。


 よほどジィーっと見ていたのでしょう。通りを歩いていた老女がしゃがれた声でこう言います。


「あんまりじつと見なさんな。一郎様が幽閉されて早五年。あのあばら家もそのために態々新築して館と切り離したというのがもっぱらの噂じゃて」

「一郎様?」

「そう、斉藤一郎様じゃ。文筆家でな、かの漱石にも一目置かれていたらしいね。内務省にお勤めになっておってな」

「斉藤の家は達郎様がご嫡男と聞き及んでおりますが……」


 すると老女はマズイことを言ったと悟ったのでしょう。まぁそんなうわさ話もあるもんさ。とそそくさと立ち去ってしまったのです。一体どうしたと言うのでしょう。


 その日の夕餉。旦那様が『小雪、三年ぶりの町はどうだった?』とお尋ねになられたので、大変新鮮でございました。また達郎様の凛々しいお姿は、普段のお姿からは恐れながら想像出来ませんでした。すると大層旦那様はお喜びになり、そうだろうそうだろう。あれは外面だけは良いからな。普段のズボラさがなぜ表に出ないのか、不思議でならぬ、と。


「ところで、気になることはあったか。儂の目や手が及ぶところであればぜひとも小雪に何かしてやりたいと思うのだ」


 望外の喜びに、気色ばんだ私でしたが屋敷に帰る前に見た『あの暗がりの小屋』『一郎と言う斉藤家の嫡男』を思い出し。私は老女に聞いた話と、不気味に佇む小屋の話を旦那様に話しました。


「お前はっ!」


 顔を真っ赤にしてお怒りになる旦那様。私はただ、申し訳ございません、申し訳ございませんと謝るのに必死でした。


「もう良い……遅かれ早かれ知ることになるのだから」


 諦めにも似た表情で旦那様は訥々と語り始めました。



 あれは感性が豊かと現代風に言うべきであろうが、当時はどこか得体の知れない。神が乗り移ったような、一種狂気を感じさせるような鋭い心を持っておった。帝大を出て内務省に努め、かの漱石にも文の才を見出された。間違いなく一郎は優秀だった。


 あれがおかしくなったのは、達郎が持ってきた精神外科とやらのレポートだったな。それからというもの、あやつは達郎が自分を殺めるのではないか、廃人にしたて上げて脳病院に隔離するつもりだと騒ぎ始めた。皮肉なもので、一郎は体が弱く、弟の達郎が医者になったのはそれが切っ掛けだったというのに。


 一介の娘に過ぎない私には、想像できない世界だった。何も言えずにいると旦那様は努めて優しい表情を作り、こう言った。


「小雪、そろそろ電話室においきなさい。達郎からの電話がくるだろうからね。そうしたら、駅まで迎えにいってやりなさい」


 それと、と付け加え。


「北の離れに小雪、時々行ってはくれまいか。古参の女中や、兄弟である達郎。母でさえ寄せ付けんのだ。それと一郎のことは、屋敷の中では儂か達郎のどちらかしか触れてはならぬぞ」


 酷く恐ろしい気持ちになり、私はブンブンと首を何回も縦に振るのでした。


 一郎様とお会いしたのは、二月も終わりになる頃だったでしょうか。達郎様からお預かりした、そう全てが変わったあの日。薬袋に書かれた『テストステロン』を何とかして一郎様に飲んでいただくこと。それが私に課せられた使命となったのです。

 

 件のあばら家は、うらぶれた外見とは打って変わって、清潔な畳の匂いが漂い。土間からは、ほんのりとした味噌の香り。しかしそれ以上に、黒インクの濃い匂いが充満していました。

 

「誰か?」


 するどい声でした。唯一設けられた窓の下に机があり、半分黒く染まった人影。これが一郎様に相違ありません。


「怪しい者ではございませぬ。三年前から、このお屋敷にご奉公させていただいております。小雪と申します」

「私にとっては十分怪しい。三年前、私は既にこの座敷牢の中で、ひょっとするとお前は変装した皐月の婆かも知れぬ」

「皐月さんは、今は奥様付きになっております。それに私自身、お外においでにならない一郎様に三年前にここに来たと言う説明は出来かねます。平にご容赦くださいまし」


 それもそうだな。一郎様は頷くと、では薬を飲ませに来たのだろう? 達郎が作った毒薬だ。無知なお前に付け込んで俺を殺そうと。家の物の手口は分かり切っておる。


「ケケケ」


 あざ笑い、僅かに見える口元は吊り上がっておりました。


 しかし、一郎様のためにも私の懐にある『テストステロン』をお飲みになって頂かなければなりませんでした。では私は無理に一郎様にお薬はお勧め致しません。代わりに煮炊きと身の回りのお世話をさせて下さいと申し出ました。


「こんな俺で良いのか、狂人なのだぞ」

「私には、そのようには見えません」


「脳の病気はな、心の病は一見して分からないものなのだ。私も、役人時代に脳病院に視察に行ったことがある。さっきまでニコニコしていた患者が、般若のごとき形相で看護人達をバッタバッタと投げ捨てるのだ。それも、骨と皮だけになったような青年がだぞ? 私とて、そのような手合いだと思われているから、こうして隔離されておるのだ」


「それでも、今日から小雪は一郎様専属です。まずは昼餉の支度を致しませんとね。今日はカルシウムというお薬をお味噌汁の中にいれましょう。一郎様は虚弱でいらっしゃるとのことで、達郎様が特別に調合された栄養なのですよ」


「小雪、お前は何も分かっていないなぁー。カルシウムは獣の骨を砕いたもの。一番人間に効くのは、同じ人間の骨を砕いたものと聞く。お前が味噌汁に入れようとしているのは、そういう性質のものなのだぞ」

 怖気が立つとはこのことでしょうか。一郎様はハッキリシッカリした明瞭な思考を持っておられるように感じられました。だとすると、このカルシウムなるものも。ひょっとすると人骨紛なのかも知れません。

「小雪、良いことを教えてやろう。西洋医学というのはな、薬の成分は追及しても、その原料には頓着しないものなのだ。虚弱虚弱と言われ続けて、過去には精のつくものを良く食べさせられた。マムシの生き血、ウナギの肝、豚の肝臓に腸を味付けして焼いたもの。どれもゲテモノ喰いよ」

 そう言われて、私は自分の無学を恥じました。ここまで、頭脳明晰な方が気狂いであるハズがないのです。


「たしかに、では今日は普通のお味噌汁を作りましょうね」

「それがいい、それでいい」


 奇妙な一郎様との生活、その一日目のことでした。

 

 週に一度、旦那様と達郎様に一郎様の様子を伝える日が設けられていました。毎週毎週、聞かれることは変わりません。

 

『一郎は薬を飲んだのか』『壁に頭を打ち付けたり、お前に乱暴をするようなことはないか』


 それに対する私の答えは、あまり変わり映えはしません。


「お薬は理路整然とした反論に私が太刀打ちできず、お飲みになられません」

「一郎様は、お優しい方です。無理もさせませんし、何より一日中。書を読んでいるか、何か書きものをされていらっしゃいます」


 最初の内は、そうかそうかと聞いていた旦那様方でしたが。ひと月、ふた月経つ頃には、私を疑う様になったのです。気狂いの傍に長時間いると気狂いになる――これは達郎様の言。情を通じているのではないか、一郎の子を孕んだのではないかと問い詰める旦那様。


 一体、どちらが狂っているのか、見当がつきません。そう一郎様にぼやくと。

 

「ワハハ、我が斉藤の家は元から狂っておるのだ。狂っていなければ政治家も医者も役人もつとまるまい」


 などと仰る。その日は一郎様の機嫌が大層良かったので、私は達郎様から預かった『テストステロン』粉末を彼に差し出しました。


「小雪、まさかお前までもが俺に毒を飲めと言うのか」

「毒ではありませぬ、薬にございます。テストステロンというのは、最近見出されたホルモンと言うもので男性由来のものと聞いております。虚弱、精力増進、神経衰弱に効果があると」

「お前、それを本気で信じているのか? 言い訳はなんとでもつくのだぞ」

「では、この小雪も一緒に飲みましょう。それで狂ってしまっても、死んでしまっても一郎様をおひとりにはさせません」


 そこまで言われると立つ瀬がない。そう言って薬の包み紙を開け、半分ずつ飲みました。


 その日の晩。週に一度の報告会の日。

 

「お喜びください旦那様、達郎様。一郎様がテストステロンをお飲みになりました」

「本当か」「本当か」

「本当です。それが証拠に怪しまれぬよう、この小雪も半分飲みました」


 飲みましたと言ったところで、体が飛んでいくのを感じました。頬を張られたと分かったのは、数分経ってからのことでした。激昂し、真っ赤な顔で涙を流す達郎様が叫びます。


「テストステロンは、オスの睾丸から生成するのだ。一郎兄に調合したのは、死刑囚の睾丸だぞ! それを君は飲んだと言うのか。ゆっくり説き伏せて和やかにあの兄と飲んだと言うのか!」

「気狂いだ、小雪が気狂いになってしまった」


 以来、小雪は一郎様と共に過ごす様になりました。

 

 週に一度、達郎様が怪しげな液剤や粉末を持ってきては『正気に戻るために飲め、食べろ』と迫ります。しかし、一度それを口に付ければ。また気狂いと呼ばれるのでしょう。このあばら家の鍵は大きな南京錠が六つついていますが、私が一郎様の元へ訪れた時は三つだったのです。


 もう騙されません。もう、騙されません。気狂いなのは旦那様と達郎様なのです。太陽の光さえもロクに入らず、日々白くなる肌を眺めながら。正気と真実はここにあると、一郎様と語らい、時に男女の交わりを重ねながら、私達は私達なりの正気を保っているのです。ここに真実があるのです。あすこにはありません。

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