#2 深海の歌姫

 少し歩けば、程なくして周囲を岩に囲まれた小部屋の様な場所へと辿り着いた。

 そこには大きな腰ほどの高さの気持ち円状に形成された上面が平らな岩と、それよりも小さな膝ほどの高さの二つの岩。それらはおそらく机と椅子の用途として置かれた岩だろう。

 その岩の机の上には湯飲みが置かれていたり本が積まれていたりと、僅かな生活感が垣間見える。

 

 思い描く竜宮城の様な豪奢な出で立ちでは無いが、最低限以下ながらも人が過ごせるだけの空間がそこには在った。

 おそらく、ここが彼女の居住区だ。

 海の底に暮らすという事自体あり得ない事だが、事実そういったあり得ない事象が目の前で幾つもの起こっているのだから、そういう認識で間違いないはずだ。

 目の前の女性は間違いなく、この海底の住人だ。


「どうぞ、お掛け下さい」


 そう言って、彼女は奥にある岩の椅子へと座る。

 俺も彼女に倣って、促されるまま彼女の対面に置かれた椅子に腰掛けた。

 岩の冷たさがお尻に染みてきた。座布団の一つくらい欲しくなる。

 それから、俺は改めて話を切り出した。


「それで、さっきの話なんですけど」

「ええ、“質問に答えて欲しい”でしたよね。欲の無い方なんだなあって、少し驚きました」

「そう。でも、その前になんですけど――」


 と、俺はまず初めに一つ確認を取る事にした。


「――俺の願いを叶えて、望みを聞いて、君に何の利点が有るのかが分からない。何か対価を要求されるのなら、先に教えておいて欲しいです」


 何の意味もなく、何の対価もなく、いきなり現れた彼女が俺の望みを聞いてくれるなんて、そんな虫の良い話があるだろうか?

 いいや。そんなはずは無いだろう。

 悪魔との契約には対価として魂を喰われる様に、無料タダよりも高いものはない。美味い話には裏が有る。

 

 ほうほいと食いついた後に後出しで何か対価を要求されても、俺がそれに応えられるとは限らない。

 この不可思議で非現実的な状況で、目の前に吊り下げられた餌。警戒しない方が難しかった。


 俺がそう言うと、彼女は少し考える素振りを見せた後、「では」と切り出して、今さっき思い付いた様に答えを返してくれた。


「もしも何も対価を求められない事を不安に思うでしたら――また私に会いに来てください。それが、あなたから貰う対価としましょう」

「そんな、事で……?」

「はい。それで充分です」


 そんなの、対価とも言えないのではないだろうか。こんなにも綺麗な人の顔なら毎日だって見たいくらいだ。

 しかし、その答えの所為でいっそう不安感が増したとも言える。

 そんな俺の思考を他所に、彼女はその答えで充分だと思っている様で、ぽんと両の掌を合わせて、


「さあ、何でも聞いてください。お話ししましょう」


 と、ワクワクと言うオノマトペが聞こえてきそうな程の期待の眼差しを携えて、俺からの質問を待つ体勢に入ってしまった。

 純真無垢で、可愛らしい。深い紺色の瞳の奥に、星の輝きを幻視してしまいそうな程だ。

 そんな彼女の様子で、どうやら何か企んでいるわけでも、悪い人でも無いのだろうという事は見て取れて、俺の警戒は少し解きほぐされた。

 

 俺は腰を少し浮かして改めて椅子に座り直して、彼女との“お話”の体勢に入った。

 首だけを動かして周囲の様子をさっと窺った後、


「君はここで一人ですか?」

「はい。ここには私とあなただけです」

 

 やはり、そうなのか。

 見た所、周囲に他の誰かが居る気配も無かった。


「たった独りで――その、困ったり、不便だったりしないんですか?」


 そう問えば、彼女は少し目を伏せて、

 

「そうですね。少しだけ、寂しいかも……しれません」


 と、儚げに微笑む。

 

 ――彼女は、この深海で独り暮らしていて、話し相手が欲しかっただけなのかもしれない。

 それで“願いを叶える”だなんて突飛な事を言い出したのなら、可愛いもんだ。

 そう思うと、先程俺をここまで先導して行った彼女の足取りは、心なしか軽く跳ねていた様な気がしなくもない。


 すると途端に目の前の女性が可愛らしい幼い少女の様にも見えて来て、警戒していたのも馬鹿らしく思えて来た。

 俺は息を大きく吐き方の力を抜いて、体重を堅い岩の椅子に預け直した。

 

「じゃあ、取り敢えず自己紹介でもしますか。ええと、俺は“空間そらまジン”って言います」

「空間さんですね。私は――多分、“ナキ”だと思います」

「多分……?」

 

 彼女の煮え切らない自己紹介に、少し違和感を覚えた。

 普通は自分の名前に“多分”なんて前置きをする機会は無いだろう。

 何か事情が有るんだろうなとすぐに察する事は出来たが、気を利かせて聞き流す事も出来ず反射的に聞き返してしまう。


「ごめんなさい。ずっとここで独りだったもので、少し曖昧な部分が有りまして……」

「なるほど」


 確かに、こんな暗い場所で、他人と触れ合う事も無ければ名乗る機会も無く、朧気に忘れてしまう物なのかもしれない。

 もっとも、そんな経験も無い俺には想像する事しか出来ないし、正しくその心の内を想像する事なんて出来ないが。

 これを深く追求しても出て来るものは無いだろうと悟り、話題を変える。


「じゃあ、ここはどこですか? 見た所――というか、多分海の底だとは思うんですけど」

「ええ。おっしゃる通り、ここは海の底――暗闇に包まれた、深海の世界です。と言っても、普通は人が入って来られない場所ではあるのですが……」

 

 まあ、基本的に海の底に人が来る事なんて無いだろう。

 それに、ここはどういう訳か呼吸も出来る不思議な空間だ。

 海の底に存在するとは言っても、潜れば辿り着く様なただの深海では無いだろう事は理解できた。


 気になる事が多いのもあるが、何より初対面の相手との沈黙は耐えがたく、そのまま俺は思いついたことを適当に喋っていく。

 

「夢の中の世界とか、そういう感じでもないんですかね」

「夢の中……? は分かりませんが、今あなたが眠っているのでなければ、これは現実だと思いますよ。少なくとも、わたしの意識ははっきりとしています」

「ですよね……。俺も、こんな明瞭な夢は見た事ありません」

「はい。わたしの現実は、ここだけです」


 まあ、夢の中の住人が「ここは夢の中です」と素直に答えてくれるとも思えないが、それでも俺の肌感覚だってこの空間は現実だと訴えかけて来る。

 俺の現実も、彼女の現実も、ここに在る。


 また一つ話題を振る。


「ナキさんは、どうしてここに?」

「どうして、ですか? そうですね、ここは私の家みたいな物なので。あなたこそ――空間さんこそ、どうしてここに?」


 ここが彼女居の家なのは分かる。聞きたかったのはこの海底で暮らすに至った経緯だったのだが――まあ、いいか。

 俺は聞かれた事を答える。そちらも気になっていた事なので、問題は無かった。

 

「実は俺、どうやってここへ来たのか分からないんです。海を見ていると、歌声が聞こえて来て、それで――」

「――歌声、ですか」


 そう思っていた事を口を突いた順に喋って行くと、ふとある事に――可能性に気付いた。

 それをそのまま聞いてみる。

 

「もしかしてだけど、ナキさんが、俺をここに?」


 あの歌声は、女性の美しい声だったと、俺にはそう聴こえた気がした。

 目の前の彼女の――ナキのりんと鳴る風鈴の音の様な美しい声が、どこかその歌声に近しい物を想起させて、なんとなしにそう思ったのだ。

 歌に誘われるままに海へと入水し、深海の世界に。そして、目の前ナキが現れた。そう考えてしまっても無理はない。


「どうなんでしょうか。確かに私も歌を唄う事は有りますが……すみません、分かりません」


 しかし、彼女は小さく頭を振って、歯切れ悪くそれを否定した。

 何故こうも歯切れが悪いのだろうか。もし仮にナキが俺をこの深海へ導いたのだとして、肯定するにしろその事実を隠して否定するにしろ、こうも歯切れが悪い答えが返ってくる事は無いだろう。

 であれば、本当に分からない。つまり、彼女は自身それが可能かもしれないし、不可能かもしれないという事。

 おそらく近しい事が出来るが、実際に試したことは無い、前例が無い、くらいの感じだろう。


「可能性はゼロではないって感じなんですかね?」

「そうですね、無いとは言い切れません。でも、もし私の歌が海の上にまで聴こえていたのだとしたら、少し恥ずかしいですね。あまり上手とは言えませんから」

「いや、とても綺麗な歌声でしたよ。ナキさんさえ良ければ、また聴かせて欲しいくらいです」


 きっと、俺は彼女の歌声に惹かれてこんな海の底まで来てしまったのだから。

 俺にはそう思えてならなかった。


「あら……。では、またそれも“お願い”として、覚えておきますね」

 

 と、彼女はまた照れ臭そうにはにかんで見せた。

 

 そう話の流れで“質問”の次のお願いが“歌”に決まってしまった。

 元々俺は質問の対価としてまた彼女に会いに来ることになっているので、その時にでも聴かせてもらえばいいだろう。――と、そう考えて思い至る。


「――そうだ。少し話は戻るけれど、また会いに来るって話。俺はどうやって帰って、どうやってまた来ればいいんですか?」


 そうだ。俺はまた会いに来ると約束してしまったが、元々どうやってここへ来たのか分からない。

 それはつまり、約束を果たす方法を持ちえないのだ。

 

「ああ、それなら簡単な事です。日が昇れば――朝になれば、時間切れです。そして、日が落ちればまた、ここへ来られるでしょう」


 つまり、この深海の世界へ来られるのは夜の間だけ、という事。

 どういった仕組みかは分からないが、自分の名前すら歯切れ悪く答える彼女がこの問いには自信を持って答えてくれたのだから、間違いは無いのだろう。

 

 しかしなんというか……、まるでシンデレラみたいだな。もちろんタイムリミットが0時の鐘の音では無いので、正確には違うだろうが。

 それに、相手はシンデレラでも、乙姫様でも、人魚姫でも無い。――彼女は、深海の歌姫だ。


 しかしこの回答を受けて、俺はある一つの可能性に思い至った。


「――もしかして、俺の前にも誰か、ここへ来たことが有るんですか?」

 

 これは彼女の口ぶりから予想出来た事だ。

 おそらく、以前にも俺と同じ様にこの深海の底へと迷い込んで来た誰かが居た。

 自分の名前すら曖昧で歯切れ悪く答える彼女も、前例が有ったからこそこれには自信を持って答えられた。


 彼女は一瞬しまったという表情をした後、少し迷って、それから俯きがちながらも答えてくれた。


「……そう、ですね。以前にもこの場所に迷い込んで来た方が、一人だけ居られました」

「その人は、どうしたんですか?」


 そう問うと、また彼女は言い淀んで、答えが返ってくるまでに一瞬の間が有った。


「……居なくなりました。ある時から、ぱたりと姿を見る事は無くなりました」

 

 彼女は嘘が吐けない、隠すのが下手だ。話したのはこの短時間だけだが、それでもそれだけは分かる事だった。

 だからおそらく、その答え自体は嘘では無い。しかし、事実の全てでも無いだろうと察する事が出来た。

 

 何故姿を現さなくなったのか、理由が気になった。

 一応望みを叶えるという形で質問を許されている立場上、俺が深く追求すれば答えてはくれるだろう。

 しかし、彼女の陰る表情が俺の胸をちくりと刺して来て、それ以上理由を問いただす事は出来なかった。

 

 

 そう話していると、思っていたよりも時間は早く過ぎていたらしい。

 ここは深海。周囲の灯りはクラゲの淡い光だけの暗闇だから、空の様子も見えない。時間間隔が正しく持てない。

 しかし、彼女にはそれがきちんと分かる様で、


「あら。そろそろ、時間ですね」


 と、会話の切れ目でおもむろにそう言った。

 

「時間――ああ。もう朝ですか」


 先程彼女の言っていた、時間切れというやつだ。

 どういう仕組みかは分からないが、ナキ曰く、夜が明け日が昇れば俺は地上へと帰る事が出来るらしい。

 

「ええ。もう日が昇る頃です。楽しい時間というものは、存外早く過ぎてしまうものですね」


 その彼女の声が聞こえるとほぼ同じくらいのタイミングで、俺は強烈な眠気に襲われた。


「……ん……、あれ……?」

 

 視界がぼやけ、ぼうっとする。

 身体から魂が抜け落ちたみたいに、自由が利かない。

 そして俺はそのままその眠気に負け、岩で出来た硬い机に突っ伏してしまった。


 朧げな意識の中、ナキの声が聞こえて来る。


「それでは、また明日も会いに来てくださいね、空間さん。約束、ですからね」


 俺は言葉を発することが出来ず、何とか首だけを少し動かして、それに応える。

 その首肯に彼女は満足したのか、俺の頭上で少し微笑んだ様に息を漏らす気配を感じられた。


「明日もまた、お願いを聞いてあげます。明日も、明後日も、その次も、またその次も。だから――」

 

 その声を最後に、俺の意識は暗転した。

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