第18話 覆水盆に返らず

 扉の先の夜は思った以上に濃密で、水を打ったように静まり返っている。

 果たしてもう日付は変わったのだろうか。とにかく、またもや路地裏に逆戻りらしい。

 

 しばらくおれらは無言で路地裏を練り歩く。ただ足音を消して、衣擦れの音も極限まで消して。

 やがて沈黙に耐えられなくなっておれは口を開いた。

「……なあ、殺さなくてよかったのか」

「殺すって、あいつらをか」

 表情は眉一つ動かさなかったものの、アベルはほんの少し歩調を緩めた。

「そうだ。もしかしたらおれらを追ってきて、復讐されるかもしれない」

「だから殺すのか」

「それしか方法がないだろ」

「……」

 アベルは暫し沈黙した。地面に視線を落とし、何かを考え込んでいるようだった。おれは、アベルが何を考えているかわからない。その事実にほんの少し戦慄した。昔はわかったのに。今はわかったつもりにもなれない。

 そしてアベルはとうとう足を止めた。ゆっくりと顔を上げて、琥珀の瞳でおれを貫いて、


「カインは、人を殺せるのか」


 それは意志の話ではなく、能力の話だった。「するかしないか」ではなく、「できるかできないか」。

 それはとてつもなく難しい質問だった。だってしたことがないのだから。ユートピアでは人の殺生は大罪だった。人が安心して生活を営むためのルール。だから誰も殺人を犯さなかった。表立っては。

 もちろん大罪だから殺人をしなかった訳じゃない。殺す必要がなかったのだ。道徳心に篤い訳ではなかったが、意味もなく殺人を犯さないくらいの倫理観は持ち合わせているつもりだった。

 

 じゃあ、今は? 理由があれば、おれは人を殺せるのだろうか。


 ふと脳裏にマスターの遺体が蘇る。「死んだらおしまい」。そうだ、人は、生物は、みな等しく死ぬのだ。ならば何を恐れるのだろうか。

 虫を踏んで殺すのと、豚を殺して解体するのと、人にナイフを心臓に突き立てるのと何が違うのだろうか。

 でも、無理だ、とも思った。殴り合いの喧嘩とは訳が違うのだ。喧嘩は負けても勝っても次がある。けれど、殺し合いは次がない。それはあまりにも。


「ほら。すぐ答えられないなら軽々しく口にしないほうがいい」

 アベルは溜息交じりに言った。どこか疲労が滲んでいるように聞こえたが、それは疲労ではなく呆れという感情なのかもしれない。

 何だか腹が立ったので少し食い気味に問い返す。腹が立っていたのはアベルに対してかもしれないし、自分に対してかもしれない。

「じゃあ、アベルは人を殺せるのか」

 まさか問い返されると思っていなかったのか、片割れはぱちりと琥珀の瞳を瞬かせる。一瞬視線を地面に落として、そして緩慢に答えた。


「……必要とあらばな。そうならないことを願うさ」


 曖昧な回答。でも、可か否で言えば「可」なのだろう。なら、おれにもできるだろう。だっておれはカインとアベルの『手足』なのだから。出来なければならない。

「その必要はないさ。おれがいるから」

 アベルはまた瞬きをした。少し呆けているような、らしくない顔。しかしおれがその顔をゆっくりと拝む前にアベルはふいと顔を背けて歩き始めてしまった。

「そうならないように、考えるさ」

「そりゃありがたい」

 ふざけた口調で言うと、アベルは苦笑した。

「まあ、この路地裏に紛れているうちは大丈夫だろう。ここなら逃げるのも姿をくらますのも造作ないからな」

 たしかに曲がり角は沢山あるし、所々大きな廃材が転がっている。逃げる隠れるにはお誂え向きだ。ユートピアの狭い宿舎でかくれんぼに興じていたおれらにとっては朝飯前だろう。

「はは、はぐれものには路地裏がお似合いってことか」

 おれが笑いながら軽口を叩くと、アベルは頷いた。

「この国は異物を排斥するシステムが整っているんだ。さすが大国なだけはある。異物を受け入れてくれるのが混沌の路地裏ってことだな」

「ならいっそ荒らしてしまうか」

 いっそ、ぜんぶひっくり返してしまいたかった。もどかしい。でも、それは幼稚な喚きのようで悔しかった。この世界に適合できなかった者の、負け犬の遠吠え。それが嫌ならこの世界を甘んじて受け入れるか、変革を成功させるか。そして大半の者は前者を選ぶ。その方がずうっとラクで成功率も高いからだ。ハイリスクハイリターンを望むものは希少。

 果たして、この片割れは。


「はは、ひっくり返す、か。面白い。ありだな」

 

 そう、アベルなら、きっとそう言ってくれるだろうと思った。信頼とか甘えとかそんな感情ではなく、厳然たる事実だった。

 そこで、おれらの間に風が吹く。それと同時に、すうとまっすぐな琥珀の瞳がふっと揺らぐ。

「ま、それも一旦休息を取ってからだ。体力には限界があるからな」

「間違いない」

 一日中歩き回ったせいで体は疲労困憊、そしてとてつもない空腹を感じていた。


 あの荒くれ者たちから奪ったのは服、ナイフ、林檎、それから数枚の干し肉だ。あの場でアベルは林檎しか手に取らなかったが、林檎じゃ腹は膨れない。密かに盗んでおいた干し肉をアベルに渡す。

「ほら、干し肉」

 ひゅうとアベルは口笛を吹いて囁く。「驚いた、こんなものどこで見つけたんだ?」

「さっきの部屋に置いてあったのを拝借してきた」

「そうか。さすがだな、カイン」

 アベルの言葉に何だか喜びにも似た感情が湧き上がってきておれは顔を顰めた。おれはアベルに褒められるために生きているのでもなければ、アベルの為に生きているのでもないのだから。

 おれは、おれが生き延びられるように生きている。アベルだってそうだ。人のために生きられるほどおれらは余裕がない。そうでなければ共依存でとっくの昔に二人とも潰れている。

 畢竟、本当の意味で自分を救えるのは自分だけなのだ。


「お、こことかいいんじゃないか?」

 アベルの言葉に意識が現実に戻ってくる。顔を上げるとアベルがひとつの小屋を覗いているのが見えた。そうだ、おれらは寝る場所を探していたんだった。

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