遺された僕たちは、

本編 ─はじまり─

一『生きざるを得ない。』 前編


 幸喜こうきの親権と、彼との生活を引き受けることを選択してから、一週間ほど経つ。

 涙も枯れぬ赤い目で、文字通り血眼になりながら、恭平きょうへいは自宅の至るところを片づけていた。主に、恋人との逢瀬の痕跡を。彼が忘れていった衣類、歯ブラシ、生活用品をはじめ。買い置きのコンドームや潤滑油代わりの道具、すべて捨てた。これから共に暮らす未成年者の目には、あまりに毒だ。そして、自分と恋人が恋人たる関係だったと、彼にだけは知られる訳にはいかなかった。これが、一番の本心だ。

 唯一捨てられなかった、生前の恋人と自分が写った写真だけが手元に残った。迷いの末、フォトフレームに収めて、リビングのラック、上から二段目の引き出しに入れる。

 恋人との痕跡をすべて捨てて、自らの記憶と写真だけに留める。振り向かないための儀式は今朝、やっと終わった。


 今日は彼──幸喜を迎え入れる日だ。


(……どうしたもんかな。)

 烏の濡れた黒い髪を、右手で軽く掻きあげる。恭平は、眼鏡の奥の切れ長の目を何度も瞬かせる。普段は緩く弧を描く太めの眉は、八の字に下がっている。──今朝からずっとこうだ。

 すっかり片づいて、整頓された自宅。2LDKの全空間、余念なく掃除もした。幸喜の自室となる部屋にも、家具を揃えた。おまけに、今日の夕飯の下ごしらえも完璧。なのに、拭えない不安が恭平の胸に居座っている。

 本当に、これでよかったのかな?

 何度だって、臆病な自分が心の内側で問いかけてくる。振り払うために、かぶりを振るった。頭を冷やそうと、洗面所へ赴いて鏡と向き合う。照明のスイッチをオンにして、自分の虚像が鮮明に映る。

 表情、眉、口元、整えて、深呼吸。普段通り、温和に、いつも通り。何度も念じて。

 光の灯った深海色の瞳が、反射して自分を見ている。自分自身も、相対する眼を見つめた。

 ──亡くなった恋人の弟と暮らしていく責務を、改めて胸に刻みながら。



***



 R四年一月二十日日曜日。

 雲一つない晴れ空の下、恭平は見慣れた道を進んでいた。昼下がりだというのに、木枯らしが吹きすさぶ。タートルネックの首すじだろうと、容赦なく冷たさが染みる。腰丈のピーコートのみでは、少々心もとなかった。

 待ち合わせ場所は、恭平の自宅の最寄り駅に設定した。車で迎えに行くことも考えたが、生活する町に慣れてもらいたい、の思いが優った。

 家から五分ほど歩いた先、目的地の旗野はたの駅に到着した。駅前のロータリー付近に、人はまばらだった。恭平は右手首の内側の腕時計を、そっと見遣る。まだ、待ち合わせの時間には十分ほど早い。

(……ん?)

 あれ、と思い目を凝らす。駅前のベンチに腰掛ける、ダークグレーのポロコートをまとう人影。

 装いこそちがうが、一度だけ──恋人の葬式の日にだけ──見たことのある姿が、佇んでいた。それも、大きなキャリーケースと一緒に。辺りを見回しても、こんな昼間に大荷物を抱えている人は、その人以外いない。

 恭平はゆっくりと、進む先を決めた。


「──あのー、」

「っ、……」

 俯いていた頭がびくり、と揺れる。

 そこまで大きな声を出したはずではなかったが、と一瞬冷や汗が浮かびかけた。恭平は内心焦りつつも、動作はゆっくりと膝を少し折った。目の前の彼と、同じ目線になってから言葉を続ける。

「あっ…驚かせてしまったかな。ごめんね。」

「……いや…」

 ゆるりと、彼は頭をもたげる。淡いのに暗い色をした金髪が、反動でさらりとなびいた。柔らかい髪質だ。真正面からでも、長めの襟足が垣間見える。

 恋人の棺の前で立ち竦んでいた背格好と、相違はほぼなかった。


「きみが、春日かすが幸喜こうきくん?」

「……っす…」

 ぱちり。

 真っ向から合わさった視線は、すぐに逸らされてしまった。所在なさげに、彼の視線は地面に落とされる。

 春日幸喜。

 遺言執行人から聞いた話では、今年で十六歳になる高校一年生。恋人の──弟。体躯も声もまだまだ成長の途中なようで、いわゆる「男性らしさ」は感じられなかった。

 けれども、紅い目元と眉間の皺を見て、恭平は痛感せざるを得なかった。


(……完全に警戒されてる、よね…)

 無理もない、と恭平自身思う。

 今年で二十九になった恭平とは、干支ひと回りほどの年齢差がある。加えて、恭平は自分の体格のよさを自覚している。口調や雰囲気以前に、物理的な威圧感を感じてしまうだろう。

 ──そもそも、あいつの生前にすら、僕たちは会ったことがないのに。

 死んだ恋人へ内心独りごちながらも。恭平は口角を上げたまま、声かけを続けた。

「えっと、会って話すのは初めてだよね。」

「………」

「僕は橋口はしぐち恭平きょうへい。きみのお兄さんの──」

 ぐっ、と嘘のための息をのみ込んだ。

、だよ。」

 表情筋の一つも動かさないまま、恭平は微笑みを浮かべ続ける。

 俯きがちな彼には見えてさえいないのか、彼は怪訝な素振りを見せない。

「…あいつ、友達なんていたんだ。」

「意外?」

「…まぁ。」

 ほんの少しだけ低い、されど少年の声がこぼす。一体彼にとっての兄──恭平の恋人、否、〝友達〟はどんなふうに映っていたのだろうか。そんなことまで、踏み込んで聞く勇気はないけれど。

 そっと膝を伸ばしつつ、恭平は彼に微笑みかける。

「寒いのに待たせてごめんね。…立ち話もなんだし、行こっか?」

「………ん…」

 小さく頷いた彼は、おもむろにベンチから立ち上がる。キャリーケースを持とうとする手を、恭平は言葉で制する。

「あっ、持つよ。荷物。」

「──えっ」

「車で来れなかったから…そのお詫び。」

 角張った手を、幸喜へと差し出す。

 時間よりも早く来てくれていた彼を、寒空の下で待たせていた。そのお詫びも含めて。

 けれど、彼は唐突に声を荒げた。

「っ──別にいい、です」

 荷物くらい、自分で持てる。

 彼はそう言って、キャリーの持ち手をふんだくる。同時に、また目線を落としてしまった。明らかに、彼の眉間の皺は濃くなっていって、恭平は更に眉を下げる。

(………やっちゃった…わぁ……)

 両手で頭を押さえたくなる衝動を、全力で無視して、一言。

「そっか。ごめん。」

 とだけ返す。

 動揺は、彼に見せるべきではない。恭平はあくまで自然に振る舞おうと努めて、くるりと踵を返した。短いコートの裾が、冷たい空気に翻った。

「家はこっちだよ、案内するね。」

「……っす…」

 歩き始めた二人の合間。およそ二メートルほどの距離。

 その間隙を、凍てついた風が通り抜けていった。



***



 愛翔まなとが死んだと連絡が来たのは、年明け早々の平日、定時間際の時分だった。

 見覚えのない電話番号から発信が来て、出れば「三宅みやけ法律事務所の小暮こぐれ隆司たかし」という人物からだった。彼は努めて落ち着いた口調で、春日愛翔が亡くなったと伝えた。頭が真っ白になって、返答の一言も覚束ない恭平へ。葬儀の場所を丁寧に教えて、その身を案じてくれた。

 『遺体と面会できませんか』

 そして、恭平が絞り出した言葉に気圧されて。隆司は安置されている場所すら教えてくれた。

 すべての仕事を忘れて、遺体の運ばれた病院へと向かったが、面会は不可能だと拒絶された。何度深く頭を下げても、医者も看護師も申し訳なさそうな返答をするばかりだった。──男性同士である恭平と愛翔が恋人であり、人生のパートナーであることは、何の法的根拠もなかったために。

 失意のまま、参列した葬儀。小さな会場に、自分の知らない愛翔を知っている人たちがたくさんいた。その中の誰とも、自分は異質だとわかっていた。愛翔の一番近くにいたはずなのに、遺影からは果てしなく遠い席だった。

 式があらかた終わったとき。せめて最期に一度会いたくて、棺の前に向かった。そこで。


 『…………まなと』


 暗い金色の髪、長い襟足。皺の寄ったブレザーのジャケット。震える小さな背中が一人、棺の前に立ち竦んでいた。

 愛翔に弟がいたと思い出したのは、その瞬間だった。



***



「ここが、幸喜くんの部屋。一通りの家具は揃えたけど、欲しいものがあったらいつでも言ってね。」

「………」

 幸喜の部屋には事前に、ベッドやデスク、クローゼットを設えた。元々は、愛翔と暮らすために用意していたものだったが、もう過去の話だ。

 おそるおそる、幸喜は部屋に足を踏み入れる。六畳ほどの空間の中央に、彼はキャリーケースを横にして置いた。

「…それじゃ、家のこととか、紹介し──」

「あのさ、」

 思わず、恭平は目を瞬かせる。幸喜の語気の強さに、怯んだゆえのことだった。彼は恭平を背に向けたまま、言葉を吐き捨てた。

「荷物、片づけたいんだけど」

「…あ、そうだよね。」

「……ひとりに、してくんね?」

 飾りのない言葉は、やけに冷たさを帯びている。

 背中越しでも、十二分に伝わってきた。自分はこの空間には必要ないのだと。

「……うん。わかった。じゃあ、ご飯どきになったら声かけるね。」

 それでいいかな? と今にも丸くなりそうな背中に問いかける。

 すると、彼はまた小さく頷いてくれた。その背姿を認めた恭平は、静かに部屋を出て、ドアを閉めた。


 リビングのソファに腰を落として、恭平は天井を仰ぎ見る。邪魔だな、と思って眼鏡を外した。ぼやけた視界に、ベランダから射し込む午後の日がにじむ。

 ──ひとりになる時間は、大切なものだ。

 それはとても理解できる。身近な人を亡くして間もない今は、他者と関わること自体しんどいのだから。恭平も、自覚がないと言えば嘘になる。

 そして、一人になりたいと彼が思うのも、当然の話だろう。プライベートは自分だけのものだし、他人の侵犯などもってのほかだ。──恭平も、よく知っていること。

 「ひとりにして」。

 それでも、その字義以上のものを勝手に憶測してしまいそうだった。例えば──話し方がウザいから、カマくさいからムカつく、とか。やっぱり、言葉だけでも拒絶されると、こう、苦しいものがあるのは否めない。


(………距離感、むずかしすぎない…?)

 十六歳。高校一年生。男子。多分シスジェンダー。そして、おおかたヘテロの子。いや、決めつけるつもりなどないから、本人に向かって断定なんて絶対にしないが。自分と同じマイノリティである確率は極々低いと、恭平はよく知っている。

 今の自分とは無論だが、学生時代の自分と比べても、差異はいくらでもある。だから、なんの参考にもなりはしなかった。せめて、生前の恋人──幸喜の兄である愛翔が、もっと弟の話をしてくれていたら。その情報を自分が覚えていれば。なんてたらればは積み重ねても致し方ない。

 じゃあせめて、自分にできることは何か。

 十秒ほどの思案の末、恭平はローテーブルに鎮座しているノートPCを立ち上げた。



***



 静まりかえったリビングに、タイプの音だけが響く。デスクトップの文字が、オレンジと影のコントラストで見えなくなったとき。漸く夕刻が訪れたのだと気がついた。二時間あまり、集中力は切れてはいなかった。

 そろそろ夕食の支度をしないと。恭平はPCをスリープモードに変えて、キッチンへ移動した。食材等の準備は整っていたので、あとは調理と盛り付けを行うのみだ。

 ものの数十分で、今夜の食卓は完成した。ハンバーグとオニオンスープ、付け合わせのほうれん草の白和え。無難なメニューを選んだと自分では思っているが、彼の反応を見るまではわからない。

(よし──呼びにいこう。)

 エプロンを外して、恭平は腹を決める。

 たとえ拒まれる可能性があっても、煙たがられたとしても、生活上の関わりを断つなんてできない。そう恭平は自分を叱咤する。もう、学生時代の自分でも、社会人始めたての自分とも、今は違うのだから。恐れたら、だめだ。

 廊下を進んで、一番奥の彼の部屋。恭平は手の甲で、軽く三回ノックした。


「──幸喜くん。」

「…っ!」

 呼びかけへの返事は、彼の息遣いだけだった。

「えっと、晩ご飯用意したから…食べに来れるかな。」

「っ…ぁ…」

 かすれた声が、壁一枚隔てた向こうから耳に届く。なんだろう、また驚かせてしまったのだろうか。ばたばた、焦ったような忙しない音も聞こえる。

「…わかった、」

 その同意とほぼ同時に、ドアは奥へと開かれる。変わらず、視線を落としたままの幸喜が、背中まで俯くように立っていた。その額が若干青白いように、レンズ越しの恭平の目には映る。一秒、躊躇ったのちに、やっぱり聞こう、と恭平は思い直した。

「…食欲ある? 体調とか、大丈夫、かな。」

「────っ」

 なんの他意もない、たった一言の問いかけだった。けれども、目の前の幸喜は、みるみるうちに頬を赤らめてゆく。目を見開いて、そわそわと恭平から横顔を向けてしまった。

「……べつに、いいから。」

「…そう? 何かあったら、いつでも言ってね。」

「………」

 返事の代わりに黙り込む彼を見て、とりあえずリビングに向かうと決める。こっちだよ、と扉を開けると、彼はおずおずと小さな歩幅でついてきてくれた。

 四人がけのテーブルの上座に、彼を誘導して座ってもらう。そして恭平は、ハンバーグを載せたプレート等々を、彼の目の前に置いた。よく煮詰まったデミグラスの香りが、ふわりと食卓を満たす。

 二人分の夕食が、向かい合わせに並んだ。恭平もテーブル席に座り、真正面の幸喜に微笑んで言った。

「食べられる分だけでいいからね。あ、一応お代わりもあるよ。」

「……」

「それじゃ、いただきます。」

「っ……す…」

 手を合わせたのちに。恭平は先んじて、フォークとナイフを手に取った。自分の皿のハンバーグを、一口切り分けて。そうっと口へ運んだ。じゅわりとこぼれ出る肉のうまみに、思わず胸を撫で下ろす。少なくとも、ちゃんと人に出せるくらいの味だ。


(……食べてくれてる、かな。)

 時折彼をちらりと見ると、幸喜はもじもじとカトラリーを手にしていた。ゆっくり、おぼつかない手つきでハンバーグを小分けにしていく。

 小さな一口を、彼は口に入れた。

 表情は──変わらず、俯いている。

 しかしながら、幸喜はもごもごと手と口を動かし続けていた。カトラリーを下ろすでもなく、ハンバーグを除けるわけでのなく、食事を続行してくれていた。どんな顔をしているか、こそ自分には見えないが、恭平はひとつ安堵した。

(──よかった。)

 感想を求めるのは、いくらなんでも出しゃばりすぎだ。そう踏み留まって、恭平は静かに自分の食事に勤しむ。スープも白和えも、味は壊れていないと確認できた。心のうち息をついて、ぼんやりと空間を俯瞰した。心の余裕は、視界の広さに繋がっていた。


 対面する幸喜は、未だにもじもじと所在なさげに、身体を小刻みに揺らしていた。その耳はやけに赤い。緊張がなかなか抜けないのだろうか。時たま、ぴくりと身体の端のほうを震わせては、きゅっと身を縮め込む。その度に、浅い息の音が、彼からかすかに聞こえる。──まるで、何かに耐えながら食事をしているようだった。

 ──いや、おかしくないか?

 無理をして食べている? 否、そういう類の挙措ではない。何か、見覚えがある。記憶の中の何かに、似ている気が──。


「あ、のッ」

 ガタン。とテーブルが揺れた。スープの水面が、ゆがんで溢れそうになる。思わず、恭平はカトラリーを置いた。

「え、どうし──」

 見開いた視界が、彼を見上げる。向かい合っていたはずの幸喜は、椅子から中腰に立ち上がっていた。フォークを置いて空っぽになった右手は、右の脚の付け根のあたりをぎゅっと押さえていた。もじもじ、そわそわ、こまかい足踏みをしながら。

 見覚えのあった理由が、途端にわかった。

「──廊下出てすぐ、左の扉!」

「っえ」

「中座していいから、行っておいで。…トイレでしょ?」

「──!!」

 幸喜の顔は、一気に真っ赤に染まる。

 なんで、とか、ちが、とか言いかけるも、一つの言葉にはならず。わなわな肩を震わせて、眉間に皺を刻む幸喜。けれども、時間のほうが惜しいのか、彼はぱたぱたと急いだ足で、恭平の横を通り過ぎていく。

 がちゃ、ばた、ばたん。

 廊下を出て、一番近いドアの向こうへ彼は入っていった。


 ほどなくして、勢いの鋭い水音が、わずかに恭平の耳にも届いてしまう。

「…………」

 ──いつから我慢してたんだろ。全然、気づけなかった。

 合流してから今は、もう数時間ほど経つ。今日は冷え込んでいたし、慣れない環境で緊張も強いられていたはずだ。恭平は、幸喜の先ほどの様子を思い返す。部屋に彼を呼びに行ったときにはもう、相当切羽詰まっていたんじゃないか。だから、あんなに落ち着かない素振りだったのか。

 ──勘違いしていた自分に非があった。

 催してしまうことくらい、想定するべきだった。余裕がないのは、むしろ自分のほうじゃないか。

 一人残されたリビングで、恭平は未だに丸い目を瞬かせる。自分だけで食事を進める気にはなれなくて、手持ち無沙汰でテーブルのずれを直した。あと、彼のカトラリーや椅子の位置。いうなれば散らかった様子を見て、まざまざと感じる。それほどまでに、トイレを我慢していたという事実に。

 水音は、一分ほどで消えていった。

 それからしばらくの間、個室からは音沙汰がなかった。もしかして。が浮かびかけたとき、二回目の水音──今度はちゃんと流す音が聞こえた。いたたまれなさそうな薄紅色の頬の幸喜が、そそくさと戻ってきた。

 先ほどよりも、真に所在なさげに。彼は椅子に座ったのち、固まって俯いてしまった。

 彼の小さな口が、もごと動いた。


「………あの、」

「ん?」

「…食事中に、席立って…わりぃ…」

 消え入りそうな言葉をこぼして、彼は頭を下げる。ダイニングの照明に金色の髪が照らされて、しなっている。

 つややかなきんいろを見て、思い出がぶわりと蘇る。──愛翔も、そうだった。恭平は昨日のことのように、覚えていた。

 目の前の幸喜も、あの日の愛翔と同じ気持ちなのだろう。どうしても言えなくて、言えなくて、やっと気づいてもらえた頃には──愛翔は間に合わなかったのだから。同じくらい、悲しむことにならなくてよかった、とさえ恭平は幸喜へ思う。だから、できる限りの優しい声色で、こう伝えた。

「…気にしないでいいよ。僕も、気づかなくてごめんね? トイレの場所だけでも、教えておけばよかったね。」

「………っ」

 彼がほんの少しだけ顔を上げたのが、視界に入った。トパーズ色の瞳は、暗がりの中でもてらりと光を帯びていた。潤んでいたからだと、直感的に恭平は気がつく。

 あまり詮索しすぎるのは、彼のためにも止したほうがいい。これ系の話題は、年頃の子にはデリケートなものだ。一部の男子はネタにもしがちだが、恭平の目では幸喜はそんなふうに見えなかった。現に今さっき、ひどく恥じらっていたのだから。

 恭平はおもむろに両手をお皿のほうへ、ぱっと向ける。おどけたような仕草で、声色を明るく制御する。

「…さ! 気を取り直して、ご飯食べよっか。スープ、あっためる?」

 相手に気にさせないためには、まずは自分が気にしないこと。努めて、恭平は先ほどと変わらず振る舞う。どうやら幸喜も、少しは恭平の言葉に耳を傾けてくれたのか、罰が悪そうに顔を上げた。

「…いい、っす。」

 けれどもまだ、目線にはそっぽを向けられてしまうのだが。



***



 食事が終わり、食器を片づけ終わった頃。恭平は幸喜をそっと引き留めた。あらかじめ用意していたコーヒーとマグで、食休みの席を設えた。尤も、一番の目的は「話」をするためだった。

「コーヒー、飲める? 牛乳入れようか。」

「…飲める。」

 そう答えが来たので、二つのマグにコーヒーを注ぐ。お茶請けにクッキーを添えて。向かい合わせにマグを置いて、自分も再び座った。


「生活のことで話をしたいんだけど…」

「…何?」

 一応、話を聞く気自体はあるらしい。彼の身体だけでも恭平のほうを向いているのを確認してから、二言目を発する。

「明日から僕は仕事だから、家を空けることになるんだけど…」

「……」

「合鍵渡すから、幸喜くんが学校行くときはそれで施錠してほしいんだ。…いいかな?」

 返答を待つこと、約三秒。

 幸喜は首から、小さく頷いてくれた。恭平にとっては充分だった。

「施錠のルールなんだけど…家を出るときは、たとえどちらかが家にいても、外から鍵をかけること。セキュリティの観点でね。」

「…よーするに、家出たら締めればいいんか。」

「そういうこと。飲み込みが早いね。」

 この家のドアはオートロックではない。万が一締めるのを忘れないために、恭平はずっとそうしてきた。今後は出入りも一人分増えることだし、定式的な規則は必要だろう。

 懐から、恭平は用意していたものを取り出した。幸喜の前に置いたのは、銀色の鍵だった。

「はい、これが合鍵。大切にね。」

「……」

 わかってる、とでも言いたげに。幸喜は視線を正面の恭平から逸らす。銀の鍵を手に取って、テーブルの下に両手と一緒に仕舞い込んでしまった。

「……あと、ご飯は朝と夜は作るから。昼はお金渡すね。」

「………」

「僕のほうが早く家出ることになると思うし…朝はつくり置いていく感じになっちゃうかもだけど…ごめんね。」

「……別に…」

 飾り気のない反応を見て、少なくとも異論はないのだと読み取る。自分との共同生活に、納得はしてくれているのだと。


 言っておくべきことは、それくらいかと見直したとき。そのとき不意に、言いよどむ呼吸が前方から聞こえた。

「………あの、さ」

「うん? 何かな。」

 幸喜は横を向いたまま、煩わしそうに右ひじを片手で押さえつつ、呟いた。

「…俺、夜にバイトしてっから。…帰り、遅くなる。」

 ──初耳だった。同時に、恭平は目をまん丸にさせる。高校一年生で、バイト。しかも夜。随分、自分の学生時代とは乖離しているよう思えた。動揺はすかさず、聞き返してしまった。

「…バイト? 何時ごろから何時まで?」

「……五時から十時。」

 高校生にしては、遅い出歩きじゃないか? だが──バイトの許可を出したのは、かつて彼と同居していた愛翔しかいない。確かに、あいつは職業柄、夜の街への抵抗は一切なかったけれど。何を思って、容認したのか。恭平には全く理解が及ばなかった。

 僅かに訝しんだ恭平の表情を盗み見ていたのか。幸喜は声のトーンを落として吐き捨てる。

「…文句でもあんの。」

「……い、いや。愛翔が、認めてたんでしょ? なら僕は物申す権利なんてないよ。」

 そう、戸惑いは幸喜へではなく、愛翔に向けられるべきなはずだ。彼の前で不信な顔を見せるべきではないと、表情を和やかに引き締めた。

 八の字の眉を見て、幸喜は音のないため息を零した。緩慢な動きで、彼の頭は持ち上がる。その視線に、恭平の目も絡み取られた。


「……あのさ、」

「…うん。」

「……あんたの生活には、俺、必要以上に関わらないから。だからあんたも──俺にいらない干渉しないでくれない?」

 困るんだよ、余計な口出しされんの。

 幸喜は目尻の下がった目で、恭平をまっすぐに睨んでいた。逸らされ続けていた視線は、今だけ──自分の主張を通すために、揺るがず恭平へと突き刺さる。

 冷たい瞳が自分を拒絶している。

 けれど、怒りの情動は一切湧き上がらなかった。何故なら、これが単なる反抗でも嫌悪でもないとわかったから。

 これは、どうにもならない現状への、捨て鉢のようなきもちなのだ。彼だって、こんな生活をするなど予想だにしていなかったろう。今まで通り愛翔と暮らして、自分の生き方を阻むものはなかったのかもしれない。

 だが、兄の死は日常をまるきり変えてしまった。十六歳が不自由なく生きていくためには、ほかの大人の力を借りざるを得なかった。愛翔は、恭平にその役目を託してくれたけれど。きっと、幸喜にとっては誰だって同じなのだろう。

 でも実際、恭平にとっても、そうなのだ。

 愛翔以外の人間など、皆同じだと思っていた自分だ。訃報を受け止めたのち、真っ先に頭に出てきたのは、人生を投げ棄てる選択だった。

 ──僕たちは、同じものを亡くした。

 ──けれど、悲しみも抱える想いも、同じじゃない、この気持ちは、共有なんてできない。彼と自分の向かい合うはざまには、見えない壁があった。大切な人の喪失という壁だ。


「…わかった。」

 これは合意だ。お互いの共同生活の境界線を守る決まりへの。

「僕も、過干渉にはならないようにって思ってたから…それがいいね。」

 もとより、彼の生活や人生にどうこう言う権利など自分にはない。たとえ、彼の親権を担ったとしても。ならば、彼の意思ときもちを重んじたかった。

 ただ。

 恭平には、ひとつだけ譲れないものがある。

 愛翔から託された、たった一つの責任だ。

 声にしっかり輪郭をつけて、恭平は幸喜へと告げた。咽喉は、躊躇いを踏み越えて音を作り出す。

「…でも、もし困ったことや大きなお金が必要になったときは、いつでも僕に教えてね。」

「……」

 返答はない。実際、彼が自分に心を許して、頼ってくれるとも思えない。

 それでも大切なことは、言葉で伝えたかった。


「幸喜くんが大人になるまで、僕が保護者としての責任を持つから。」

 愛翔との最期の約束を果たすために。

 橋口恭平は、春日幸喜と向き合い続ける覚悟を、とうに決めていた。



前編 了

 後編へ続く

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