遺された僕たちは、
堀
本編 ─はじまり─
一『生きざるを得ない。』 前編
涙も枯れぬ赤い目で、文字通り血眼になりながら、
唯一捨てられなかった、生前の恋人と自分が写った写真だけが手元に残った。迷いの末、フォトフレームに収めて、リビングのラック、上から二段目の引き出しに入れる。
恋人との痕跡をすべて捨てて、自らの記憶と写真だけに留める。振り向かないための儀式は今朝、やっと終わった。
今日は彼──幸喜を迎え入れる日だ。
(……どうしたもんかな。)
烏の濡れた黒い髪を、右手で軽く掻きあげる。恭平は、眼鏡の奥の切れ長の目を何度も瞬かせる。普段は緩く弧を描く太めの眉は、八の字に下がっている。──今朝からずっとこうだ。
すっかり片づいて、整頓された自宅。2LDKの全空間、余念なく掃除もした。幸喜の自室となる部屋にも、家具を揃えた。おまけに、今日の夕飯の下ごしらえも完璧。なのに、拭えない不安が恭平の胸に居座っている。
本当に、これでよかったのかな?
何度だって、臆病な自分が心の内側で問いかけてくる。振り払うために、かぶりを振るった。頭を冷やそうと、洗面所へ赴いて鏡と向き合う。照明のスイッチをオンにして、自分の虚像が鮮明に映る。
表情、眉、口元、整えて、深呼吸。普段通り、温和に、いつも通り。何度も念じて。
光の灯った深海色の瞳が、反射して自分を見ている。自分自身も、相対する眼を見つめた。
──亡くなった恋人の弟と暮らしていく責務を、改めて胸に刻みながら。
***
R四年一月二十日日曜日。
雲一つない晴れ空の下、恭平は見慣れた道を進んでいた。昼下がりだというのに、木枯らしが吹きすさぶ。タートルネックの首すじだろうと、容赦なく冷たさが染みる。腰丈のピーコートのみでは、少々心もとなかった。
待ち合わせ場所は、恭平の自宅の最寄り駅に設定した。車で迎えに行くことも考えたが、生活する町に慣れてもらいたい、の思いが優った。
家から五分ほど歩いた先、目的地の
(……ん?)
あれ、と思い目を凝らす。駅前のベンチに腰掛ける、ダークグレーのポロコートをまとう人影。
装いこそちがうが、一度だけ──恋人の葬式の日にだけ──見たことのある姿が、佇んでいた。それも、大きなキャリーケースと一緒に。辺りを見回しても、こんな昼間に大荷物を抱えている人は、その人以外いない。
恭平はゆっくりと、進む先を決めた。
「──あのー、」
「っ、……」
俯いていた頭がびくり、と揺れる。
そこまで大きな声を出したはずではなかったが、と一瞬冷や汗が浮かびかけた。恭平は内心焦りつつも、動作はゆっくりと膝を少し折った。目の前の彼と、同じ目線になってから言葉を続ける。
「あっ…驚かせてしまったかな。ごめんね。」
「……いや…」
ゆるりと、彼は頭をもたげる。淡いのに暗い色をした金髪が、反動でさらりとなびいた。柔らかい髪質だ。真正面からでも、長めの襟足が垣間見える。
恋人の棺の前で立ち竦んでいた背格好と、相違はほぼなかった。
「きみが、
「……っす…」
ぱちり。
真っ向から合わさった視線は、すぐに逸らされてしまった。所在なさげに、彼の視線は地面に落とされる。
春日幸喜。
遺言執行人から聞いた話では、今年で十六歳になる高校一年生。恋人の──弟。体躯も声もまだまだ成長の途中なようで、いわゆる「男性らしさ」は感じられなかった。
けれども、紅い目元と眉間の皺を見て、恭平は痛感せざるを得なかった。
(……完全に警戒されてる、よね…)
無理もない、と恭平自身思う。
今年で二十九になった恭平とは、干支ひと回りほどの年齢差がある。加えて、恭平は自分の体格のよさを自覚している。口調や雰囲気以前に、物理的な威圧感を感じてしまうだろう。
──そもそも、あいつの生前にすら、僕たちは会ったことがないのに。
死んだ恋人へ内心独りごちながらも。恭平は口角を上げたまま、声かけを続けた。
「えっと、会って話すのは初めてだよね。」
「………」
「僕は
ぐっ、と嘘のための息をのみ込んだ。
「友達、だよ。」
表情筋の一つも動かさないまま、恭平は微笑みを浮かべ続ける。
俯きがちな彼には見えてさえいないのか、彼は怪訝な素振りを見せない。
「…あいつ、友達なんていたんだ。」
「意外?」
「…まぁ。」
ほんの少しだけ低い、されど少年の声がこぼす。一体彼にとっての兄──恭平の恋人、否、〝友達〟はどんなふうに映っていたのだろうか。そんなことまで、踏み込んで聞く勇気はないけれど。
そっと膝を伸ばしつつ、恭平は彼に微笑みかける。
「寒いのに待たせてごめんね。…立ち話もなんだし、行こっか?」
「………ん…」
小さく頷いた彼は、おもむろにベンチから立ち上がる。キャリーケースを持とうとする手を、恭平は言葉で制する。
「あっ、持つよ。荷物。」
「──えっ」
「車で来れなかったから…そのお詫び。」
角張った手を、幸喜へと差し出す。
時間よりも早く来てくれていた彼を、寒空の下で待たせていた。そのお詫びも含めて。
けれど、彼は唐突に声を荒げた。
「っ──別にいい、です」
荷物くらい、自分で持てる。
彼はそう言って、キャリーの持ち手をふんだくる。同時に、また目線を落としてしまった。明らかに、彼の眉間の皺は濃くなっていって、恭平は更に眉を下げる。
(………やっちゃった…わぁ……)
両手で頭を押さえたくなる衝動を、全力で無視して、一言。
「そっか。ごめん。」
とだけ返す。
動揺は、彼に見せるべきではない。恭平はあくまで自然に振る舞おうと努めて、くるりと踵を返した。短いコートの裾が、冷たい空気に翻った。
「家はこっちだよ、案内するね。」
「……っす…」
歩き始めた二人の合間。およそ二メートルほどの距離。
その間隙を、凍てついた風が通り抜けていった。
***
見覚えのない電話番号から発信が来て、出れば「
『遺体と面会できませんか』
そして、恭平が絞り出した言葉に気圧されて。隆司は安置されている場所すら教えてくれた。
すべての仕事を忘れて、遺体の運ばれた病院へと向かったが、面会は不可能だと拒絶された。何度深く頭を下げても、医者も看護師も申し訳なさそうな返答をするばかりだった。──男性同士である恭平と愛翔が恋人であり、人生のパートナーであることは、何の法的根拠もなかったために。
失意のまま、参列した葬儀。小さな会場に、自分の知らない愛翔を知っている人たちがたくさんいた。その中の誰とも、自分は異質だとわかっていた。愛翔の一番近くにいたはずなのに、遺影からは果てしなく遠い席だった。
式があらかた終わったとき。せめて最期に一度会いたくて、棺の前に向かった。そこで。
『…………まなと』
暗い金色の髪、長い襟足。皺の寄ったブレザーのジャケット。震える小さな背中が一人、棺の前に立ち竦んでいた。
愛翔に弟がいたと思い出したのは、その瞬間だった。
***
「ここが、幸喜くんの部屋。一通りの家具は揃えたけど、欲しいものがあったらいつでも言ってね。」
「………」
幸喜の部屋には事前に、ベッドやデスク、クローゼットを設えた。元々は、愛翔と暮らすために用意していたものだったが、もう過去の話だ。
おそるおそる、幸喜は部屋に足を踏み入れる。六畳ほどの空間の中央に、彼はキャリーケースを横にして置いた。
「…それじゃ、家のこととか、紹介し──」
「あのさ、」
思わず、恭平は目を瞬かせる。幸喜の語気の強さに、怯んだゆえのことだった。彼は恭平を背に向けたまま、言葉を吐き捨てた。
「荷物、片づけたいんだけど」
「…あ、そうだよね。」
「……ひとりに、してくんね?」
飾りのない言葉は、やけに冷たさを帯びている。
背中越しでも、十二分に伝わってきた。自分はこの空間には必要ないのだと。
「……うん。わかった。じゃあ、ご飯どきになったら声かけるね。」
それでいいかな? と今にも丸くなりそうな背中に問いかける。
すると、彼はまた小さく頷いてくれた。その背姿を認めた恭平は、静かに部屋を出て、ドアを閉めた。
リビングのソファに腰を落として、恭平は天井を仰ぎ見る。邪魔だな、と思って眼鏡を外した。ぼやけた視界に、ベランダから射し込む午後の日がにじむ。
──ひとりになる時間は、大切なものだ。
それはとても理解できる。身近な人を亡くして間もない今は、他者と関わること自体しんどいのだから。恭平も、自覚がないと言えば嘘になる。
そして、一人になりたいと彼が思うのも、当然の話だろう。プライベートは自分だけのものだし、他人の侵犯などもってのほかだ。──恭平も、よく知っていること。
「ひとりにして」。
それでも、その字義以上のものを勝手に憶測してしまいそうだった。例えば──話し方がウザいから、カマくさいからムカつく、とか。やっぱり、言葉だけでも拒絶されると、こう、苦しいものがあるのは否めない。
(………距離感、むずかしすぎない…?)
十六歳。高校一年生。男子。多分シスジェンダー。そして、おおかたヘテロの子。いや、決めつけるつもりなどないから、本人に向かって断定なんて絶対にしないが。自分と同じマイノリティである確率は極々低いと、恭平はよく知っている。
今の自分とは無論だが、学生時代の自分と比べても、差異はいくらでもある。だから、なんの参考にもなりはしなかった。せめて、生前の恋人──幸喜の兄である愛翔が、もっと弟の話をしてくれていたら。その情報を自分が覚えていれば。なんてたらればは積み重ねても致し方ない。
じゃあせめて、自分にできることは何か。
十秒ほどの思案の末、恭平はローテーブルに鎮座しているノートPCを立ち上げた。
***
静まりかえったリビングに、タイプの音だけが響く。デスクトップの文字が、オレンジと影のコントラストで見えなくなったとき。漸く夕刻が訪れたのだと気がついた。二時間あまり、集中力は切れてはいなかった。
そろそろ夕食の支度をしないと。恭平はPCをスリープモードに変えて、キッチンへ移動した。食材等の準備は整っていたので、あとは調理と盛り付けを行うのみだ。
ものの数十分で、今夜の食卓は完成した。ハンバーグとオニオンスープ、付け合わせのほうれん草の白和え。無難なメニューを選んだと自分では思っているが、彼の反応を見るまではわからない。
(よし──呼びにいこう。)
エプロンを外して、恭平は腹を決める。
たとえ拒まれる可能性があっても、煙たがられたとしても、生活上の関わりを断つなんてできない。そう恭平は自分を叱咤する。もう、学生時代の自分でも、社会人始めたての自分とも、今は違うのだから。恐れたら、だめだ。
廊下を進んで、一番奥の彼の部屋。恭平は手の甲で、軽く三回ノックした。
「──幸喜くん。」
「…っ!」
呼びかけへの返事は、彼の息遣いだけだった。
「えっと、晩ご飯用意したから…食べに来れるかな。」
「っ…ぁ…」
かすれた声が、壁一枚隔てた向こうから耳に届く。なんだろう、また驚かせてしまったのだろうか。ばたばた、焦ったような忙しない音も聞こえる。
「…わかった、」
その同意とほぼ同時に、ドアは奥へと開かれる。変わらず、視線を落としたままの幸喜が、背中まで俯くように立っていた。その額が若干青白いように、レンズ越しの恭平の目には映る。一秒、躊躇ったのちに、やっぱり聞こう、と恭平は思い直した。
「…食欲ある? 体調とか、大丈夫、かな。」
「────っ」
なんの他意もない、たった一言の問いかけだった。けれども、目の前の幸喜は、みるみるうちに頬を赤らめてゆく。目を見開いて、そわそわと恭平から横顔を向けてしまった。
「……べつに、いいから。」
「…そう? 何かあったら、いつでも言ってね。」
「………」
返事の代わりに黙り込む彼を見て、とりあえずリビングに向かうと決める。こっちだよ、と扉を開けると、彼はおずおずと小さな歩幅でついてきてくれた。
四人がけのテーブルの上座に、彼を誘導して座ってもらう。そして恭平は、ハンバーグを載せたプレート等々を、彼の目の前に置いた。よく煮詰まったデミグラスの香りが、ふわりと食卓を満たす。
二人分の夕食が、向かい合わせに並んだ。恭平もテーブル席に座り、真正面の幸喜に微笑んで言った。
「食べられる分だけでいいからね。あ、一応お代わりもあるよ。」
「……」
「それじゃ、いただきます。」
「っ……す…」
手を合わせたのちに。恭平は先んじて、フォークとナイフを手に取った。自分の皿のハンバーグを、一口切り分けて。そうっと口へ運んだ。じゅわりとこぼれ出る肉のうまみに、思わず胸を撫で下ろす。少なくとも、ちゃんと人に出せるくらいの味だ。
(……食べてくれてる、かな。)
時折彼をちらりと見ると、幸喜はもじもじとカトラリーを手にしていた。ゆっくり、おぼつかない手つきでハンバーグを小分けにしていく。
小さな一口を、彼は口に入れた。
表情は──変わらず、俯いている。
しかしながら、幸喜はもごもごと手と口を動かし続けていた。カトラリーを下ろすでもなく、ハンバーグを除けるわけでのなく、食事を続行してくれていた。どんな顔をしているか、こそ自分には見えないが、恭平はひとつ安堵した。
(──よかった。)
感想を求めるのは、いくらなんでも出しゃばりすぎだ。そう踏み留まって、恭平は静かに自分の食事に勤しむ。スープも白和えも、味は壊れていないと確認できた。心のうち息をついて、ぼんやりと空間を俯瞰した。心の余裕は、視界の広さに繋がっていた。
対面する幸喜は、未だにもじもじと所在なさげに、身体を小刻みに揺らしていた。その耳はやけに赤い。緊張がなかなか抜けないのだろうか。時たま、ぴくりと身体の端のほうを震わせては、きゅっと身を縮め込む。その度に、浅い息の音が、彼からかすかに聞こえる。──まるで、何かに耐えながら食事をしているようだった。
──いや、おかしくないか?
無理をして食べている? 否、そういう類の挙措ではない。何か、見覚えがある。記憶の中の何かに、似ている気が──。
「あ、のッ」
ガタン。とテーブルが揺れた。スープの水面が、ゆがんで溢れそうになる。思わず、恭平はカトラリーを置いた。
「え、どうし──」
見開いた視界が、彼を見上げる。向かい合っていたはずの幸喜は、椅子から中腰に立ち上がっていた。フォークを置いて空っぽになった右手は、右の脚の付け根のあたりをぎゅっと押さえていた。もじもじ、そわそわ、こまかい足踏みをしながら。
見覚えのあった理由が、途端にわかった。
「──廊下出てすぐ、左の扉!」
「っえ」
「中座していいから、行っておいで。…トイレでしょ?」
「──!!」
幸喜の顔は、一気に真っ赤に染まる。
なんで、とか、ちが、とか言いかけるも、一つの言葉にはならず。わなわな肩を震わせて、眉間に皺を刻む幸喜。けれども、時間のほうが惜しいのか、彼はぱたぱたと急いだ足で、恭平の横を通り過ぎていく。
がちゃ、ばた、ばたん。
廊下を出て、一番近いドアの向こうへ彼は入っていった。
ほどなくして、勢いの鋭い水音が、わずかに恭平の耳にも届いてしまう。
「…………」
──いつから我慢してたんだろ。全然、気づけなかった。
合流してから今は、もう数時間ほど経つ。今日は冷え込んでいたし、慣れない環境で緊張も強いられていたはずだ。恭平は、幸喜の先ほどの様子を思い返す。部屋に彼を呼びに行ったときにはもう、相当切羽詰まっていたんじゃないか。だから、あんなに落ち着かない素振りだったのか。
──勘違いしていた自分に非があった。
催してしまうことくらい、想定するべきだった。余裕がないのは、むしろ自分のほうじゃないか。
一人残されたリビングで、恭平は未だに丸い目を瞬かせる。自分だけで食事を進める気にはなれなくて、手持ち無沙汰でテーブルのずれを直した。あと、彼のカトラリーや椅子の位置。いうなれば散らかった様子を見て、まざまざと感じる。それほどまでに、トイレを我慢していたという事実に。
水音は、一分ほどで消えていった。
それからしばらくの間、個室からは音沙汰がなかった。もしかして。が浮かびかけたとき、二回目の水音──今度はちゃんと流す音が聞こえた。いたたまれなさそうな薄紅色の頬の幸喜が、そそくさと戻ってきた。
先ほどよりも、真に所在なさげに。彼は椅子に座ったのち、固まって俯いてしまった。
彼の小さな口が、もごと動いた。
「………あの、」
「ん?」
「…食事中に、席立って…わりぃ…」
消え入りそうな言葉をこぼして、彼は頭を下げる。ダイニングの照明に金色の髪が照らされて、しなっている。
つややかなきんいろを見て、思い出がぶわりと蘇る。──愛翔も、そうだった。恭平は昨日のことのように、覚えていた。
目の前の幸喜も、あの日の愛翔と同じ気持ちなのだろう。どうしても言えなくて、言えなくて、やっと気づいてもらえた頃には──愛翔は間に合わなかったのだから。同じくらい、悲しむことにならなくてよかった、とさえ恭平は幸喜へ思う。だから、できる限りの優しい声色で、こう伝えた。
「…気にしないでいいよ。僕も、気づかなくてごめんね? トイレの場所だけでも、教えておけばよかったね。」
「………っ」
彼がほんの少しだけ顔を上げたのが、視界に入った。トパーズ色の瞳は、暗がりの中でもてらりと光を帯びていた。潤んでいたからだと、直感的に恭平は気がつく。
あまり詮索しすぎるのは、彼のためにも止したほうがいい。これ系の話題は、年頃の子にはデリケートなものだ。一部の男子はネタにもしがちだが、恭平の目では幸喜はそんなふうに見えなかった。現に今さっき、ひどく恥じらっていたのだから。
恭平はおもむろに両手をお皿のほうへ、ぱっと向ける。おどけたような仕草で、声色を明るく制御する。
「…さ! 気を取り直して、ご飯食べよっか。スープ、あっためる?」
相手に気にさせないためには、まずは自分が気にしないこと。努めて、恭平は先ほどと変わらず振る舞う。どうやら幸喜も、少しは恭平の言葉に耳を傾けてくれたのか、罰が悪そうに顔を上げた。
「…いい、っす。」
けれどもまだ、目線にはそっぽを向けられてしまうのだが。
***
食事が終わり、食器を片づけ終わった頃。恭平は幸喜をそっと引き留めた。あらかじめ用意していたコーヒーとマグで、食休みの席を設えた。尤も、一番の目的は「話」をするためだった。
「コーヒー、飲める? 牛乳入れようか。」
「…飲める。」
そう答えが来たので、二つのマグにコーヒーを注ぐ。お茶請けにクッキーを添えて。向かい合わせにマグを置いて、自分も再び座った。
「生活のことで話をしたいんだけど…」
「…何?」
一応、話を聞く気自体はあるらしい。彼の身体だけでも恭平のほうを向いているのを確認してから、二言目を発する。
「明日から僕は仕事だから、家を空けることになるんだけど…」
「……」
「合鍵渡すから、幸喜くんが学校行くときはそれで施錠してほしいんだ。…いいかな?」
返答を待つこと、約三秒。
幸喜は首から、小さく頷いてくれた。恭平にとっては充分だった。
「施錠のルールなんだけど…家を出るときは、たとえどちらかが家にいても、外から鍵をかけること。セキュリティの観点でね。」
「…よーするに、家出たら締めればいいんか。」
「そういうこと。飲み込みが早いね。」
この家のドアはオートロックではない。万が一締めるのを忘れないために、恭平はずっとそうしてきた。今後は出入りも一人分増えることだし、定式的な規則は必要だろう。
懐から、恭平は用意していたものを取り出した。幸喜の前に置いたのは、銀色の鍵だった。
「はい、これが合鍵。大切にね。」
「……」
わかってる、とでも言いたげに。幸喜は視線を正面の恭平から逸らす。銀の鍵を手に取って、テーブルの下に両手と一緒に仕舞い込んでしまった。
「……あと、ご飯は朝と夜は作るから。昼はお金渡すね。」
「………」
「僕のほうが早く家出ることになると思うし…朝はつくり置いていく感じになっちゃうかもだけど…ごめんね。」
「……別に…」
飾り気のない反応を見て、少なくとも異論はないのだと読み取る。自分との共同生活に、納得はしてくれているのだと。
言っておくべきことは、それくらいかと見直したとき。そのとき不意に、言いよどむ呼吸が前方から聞こえた。
「………あの、さ」
「うん? 何かな。」
幸喜は横を向いたまま、煩わしそうに右ひじを片手で押さえつつ、呟いた。
「…俺、夜にバイトしてっから。…帰り、遅くなる。」
──初耳だった。同時に、恭平は目をまん丸にさせる。高校一年生で、バイト。しかも夜。随分、自分の学生時代とは乖離しているよう思えた。動揺はすかさず、聞き返してしまった。
「…バイト? 何時ごろから何時まで?」
「……五時から十時。」
高校生にしては、遅い出歩きじゃないか? だが──バイトの許可を出したのは、かつて彼と同居していた愛翔しかいない。確かに、あいつは職業柄、夜の街への抵抗は一切なかったけれど。何を思って、容認したのか。恭平には全く理解が及ばなかった。
僅かに訝しんだ恭平の表情を盗み見ていたのか。幸喜は声のトーンを落として吐き捨てる。
「…文句でもあんの。」
「……い、いや。愛翔が、認めてたんでしょ? なら僕は物申す権利なんてないよ。」
そう、戸惑いは幸喜へではなく、愛翔に向けられるべきなはずだ。彼の前で不信な顔を見せるべきではないと、表情を和やかに引き締めた。
八の字の眉を見て、幸喜は音のないため息を零した。緩慢な動きで、彼の頭は持ち上がる。その視線に、恭平の目も絡み取られた。
「……あのさ、」
「…うん。」
「……あんたの生活には、俺、必要以上に関わらないから。だからあんたも──俺にいらない干渉しないでくれない?」
困るんだよ、余計な口出しされんの。
幸喜は目尻の下がった目で、恭平をまっすぐに睨んでいた。逸らされ続けていた視線は、今だけ──自分の主張を通すために、揺るがず恭平へと突き刺さる。
冷たい瞳が自分を拒絶している。
けれど、怒りの情動は一切湧き上がらなかった。何故なら、これが単なる反抗でも嫌悪でもないとわかったから。
これは、どうにもならない現状への、捨て鉢のようなきもちなのだ。彼だって、こんな生活をするなど予想だにしていなかったろう。今まで通り愛翔と暮らして、自分の生き方を阻むものはなかったのかもしれない。
だが、兄の死は日常をまるきり変えてしまった。十六歳が不自由なく生きていくためには、ほかの大人の力を借りざるを得なかった。愛翔は、恭平にその役目を託してくれたけれど。きっと、幸喜にとっては誰だって同じなのだろう。
でも実際、恭平にとっても、そうなのだ。
愛翔以外の人間など、皆同じだと思っていた自分だ。訃報を受け止めたのち、真っ先に頭に出てきたのは、人生を投げ棄てる選択だった。
──僕たちは、同じものを亡くした。
──けれど、悲しみも抱える想いも、同じじゃない、この気持ちは、共有なんてできない。彼と自分の向かい合うはざまには、見えない壁があった。大切な人の喪失という壁だ。
「…わかった。」
これは合意だ。お互いの共同生活の境界線を守る決まりへの。
「僕も、過干渉にはならないようにって思ってたから…それがいいね。」
もとより、彼の生活や人生にどうこう言う権利など自分にはない。たとえ、彼の親権を担ったとしても。ならば、彼の意思ときもちを重んじたかった。
ただ。
恭平には、ひとつだけ譲れないものがある。
愛翔から託された、たった一つの責任だ。
声にしっかり輪郭をつけて、恭平は幸喜へと告げた。咽喉は、躊躇いを踏み越えて音を作り出す。
「…でも、もし困ったことや大きなお金が必要になったときは、いつでも僕に教えてね。」
「……」
返答はない。実際、彼が自分に心を許して、頼ってくれるとも思えない。
それでも大切なことは、言葉で伝えたかった。
「幸喜くんが大人になるまで、僕が保護者としての責任を持つから。」
愛翔との最期の約束を果たすために。
橋口恭平は、春日幸喜と向き合い続ける覚悟を、とうに決めていた。
前編 了
後編へ続く
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