第2話 凪

 風音が学校へ行っている間のほとんどを、私はパソコンと向き合って過ごす。この島には仕事という仕事がほぼ無い。役所関係は本土に集約されているし、フェリーの発着場の人たちも本土からの職員だ。小さな商店はあるが、人を雇う必要はないし余裕もない。長いこと島に暮らしている老人たちは漁に出て、自分たちが暮らしていけるだけのお金を稼いでいる。しかし、私はそういう訳にはいかない。風音の学費だってあるし、これから先の人生のために蓄えておく必要もある。家の維持費だってかかる。海神神社の管理費は島の自治体から負担されているが、本土の方でいつ打ち切られるかも分からない。

 島から出なくてもできる仕事……パソコンとインターネットがあれば仕事ができる時代で本当に良かった。私の仕事はこの島の歴史や海神に関する伝承や文献を研究し、本土の研究機関へ提供すること。海神神社には過去から伝わる様々な文献や神事の道具類がたくさん残され保管されている。ここまで綺麗に整理し保管、保存してくれていた両親には感謝しかない。

 倉庫から取り出した文献とパソコンディスプレイを行ったり来たりしながら、資料を作り上げていく。出来高制ではなく、月給制で支払ってくれることが嬉しいし助かっている。

 数年前には、この島に常駐して共に資料を作成してくれる人がいた。聞こえてくる波の音に、彼の声が重なる。

 優しくて穏やかな人だった。線が細く色白で、綺麗な人だった。優しく語りかけてくれ、私の話には静かに耳を傾けてくれた。星が煌めく月明かりの浜辺を、手を繋いで歩いた。大好きな人だった。

 何の前触れもなく、彼は東京に帰って行った。華奢なスーツ姿、担いだボストンバッグ、海風に揺れる柔らかな黒髪、眩しそうに朝日に翳した綺麗な手、フェリーに乗る前に私を振り返った穏やかな笑顔。黒縁メガネの奥で、優しく細められる目。薄い唇の口角が緩やかに上がる。最後に見せてくれた笑顔。

 私の心はいつかの海のように荒れた。泣いても泣いても……どれだけ泣いたら涙が止まるんだろうと不安になるくらい……涙が止まらなかった。あてもなく島を彷徨い、夜の浜辺を1人で歩いた。諦められるような理由を置いていって欲しかった。もしくは、未来に希望が持てる何かを。彼は何も残さなかった。

 数年の時を経て、ようやく心の海に凪の時が訪れた。もう終わったんだ。過去の人なんだ。彼もまた、二度と戻って来れない場所へ帰っただけ。

わたるさん……』

 心の中で呼んだ名前に反応するように、心の海に小波が寄せる。この画面の向こうに、彼はまだいるのだろうか。

 彼とのことで風音には何度も心配をかけた。島中を走り回り、私を探してくれた。航さんが戻ってくるまで家には帰らないと泣き叫ぶ私を、引っ張って家まで連れ帰ってくれた。何をする気力も湧かない私の代わりにご飯の支度をし、洗濯や掃除もやってくれた。そのせいで、何度か学校を休ませてしまった。申し訳ないことをした。

 だから、風音は航さんのことを嫌っている。姉を傷つけ悲しませた悪い奴。そう思っている。立ち直った私が、何度もそんな人じゃないよと伝えても、風音はそれを受け入れられない。仕方のないことだと思う。それに……私も風音も、この先で航さんに会う事はもう無いのだろう。綺麗な思い出は綺麗なまま、嫌いな人は嫌いなまま、それでいいんだと思う。

 お昼過ぎまで作業を続け、肩の凝りに限界を感じて大きく伸びをした。朝ご飯の残りで簡単に昼食を済ませ、さっと日焼け止めを塗り直しただけで外に出た。朝とは風向きが変わった海風が、ポニーテールにした私の長い黒髪を強く揺らして通り過ぎた。紺地に白のドット柄のロングワンピースの裾も揺れる。太陽は高く、雲は風に乗り遠く流れていく。お昼の便のフェリーが海を行く。静かな海に白い道ができる。フェリーの次の便は、風音が乗ってくる夕方便になる。本土と海崎島を結ぶ往復フェリーは1日4便だけ。朝7時発、昼13時着、夕方18時半着、夜21時半着の4便。天気が良く海が穏やかな日で、片道約45分の船旅。

 家がある場所からさらに坂を登り、島で一番高い場所へ向かう。そこに海神神社が鎮座している。海中鳥居と同じ、白い鳥居をくぐり参道を行く。夏の太陽に向かって枝葉を広げた広葉樹たちの葉が、サワサワと涼しげな音を立てる。龍の首を模った蛇口から零れる手水の音が重なり心地よい。境内に置かれたベンチに腰掛けると、眼前には広がる空と海。照りつける陽射しが眩しくて、目の上に手を翳した。

 また……最後の朝の航さんの姿が浮かぶ。どうして今日はこんなに思い出すんだろう。凪いでいた心の海に立った小波が、連なり重なり、どんどん高くなっていく。寄せて引く波のように、この島で重ねた航さんとの日々が押し寄せてくる。忘れたい人なのに……忘れなきゃいけない人なのに、私の心から航さんは消えてくれない。それもそのはず、私は今でも航さんと撮った写真を大切に持っている。スマートフォンの中にも残っている。風音に見つからないよう、こっそりと。月に一度、私は航さんの写真を見る。誰にも邪魔されないこの場所で。

 海神神社の境内で2人で撮った写真。私の肩に回された航さんの細い腕。優しい眼差し。近い未来、航さんが去ってしまうことなど知らずに微笑む私。

 あぁ、今月は駄目だ。どうしようもない程に航さんが恋しくて会いたくて、いつもなら写真を見るだけで満足だったのに……

「なんで泣いてるんだろう」

 もう涙なんて枯れたと思っていた。航さんのことで泣くことはもう無いと思っていた。やっと凪いだ心の海がうねる。高波が何度も何度も防波堤にぶつかり砕ける。

「航さん……会いたいよ」

 呟いた言葉は風に飛ばされ海を渡る。そのまま、彼に届けばいいのに。

 

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