第35話 恋の魔術

 アントワーヌはまるで初恋に恋する乙女だった。

 ミルズは真摯に彼女を愛する騎士だった。


 そんなふたりの仲を裂こうとしても、恋の魔術はなによりも強い。死の魔術に匹敵する。

 わたしは無力だった。


 アントワーヌはミルズの唇を奪い、ミルズはそれに応えた。

 アントワーヌは彼の首に手を回し、彼は彼女の背中に手を回した。

 熱く、激しい口づけをしながら、彼は彼女のドレスの細いリボンを解き、アントワーヌの雪のように白い肌が露になる。

 少し、寒い。

 ぽつりぽつりと雨が降ってきたからだ。

「アントワーヌ、戻りましょう」

「嫌よ、きっともうこんな機会ないわ!」

「そう仰らずに。貴女が望むなら砦の向こうまで馬に乗せて逃げましょう。しかし、雨はいけません。お身体によろしくない」

「嫌よ、嫌よ! どうして神様はわたしに対していつも不公平なの!? 一度くらいいいじゃない! 好きな男に抱かれてみても――」


 雨音はシャラシャラと葉音を鳴らし、アントワーヌのそぼろ泣く声だけが響いた。

 わたしはなにも言えなかった。

 アントワーヌはそもそもミルズが好きだったんだ。王宮にいる時から――。

 陛下の傍に侍っていたミルズはいつもアントワーヌの目を引いた。そしてミルズも当然のように⋯⋯。

 ふたりの視線が交わることはなくても。


「一度くらいなら、良くってよ」

 わたしの唇は勝手に動いた。ふたりの恋に行き場はない。

 もし今日、なにかが起こっても、明日からはいつも通りの日々だ。でなければわたしにだって不貞の処罰が下るだろう。

 アントワーヌが見知らぬ男に抱かれたように、わたしだって一度くらいなら見て見ぬふりができるはずだわ!


 ◇


「アン!」

 その時、まさに助けが来たと腰が抜ける思いだった。わたしもミルズも驚いて、声の方を向いた。

「あなたなにしてるんですか? 死人に操られるなんて、いくら神聖力を取り上げられたとしてもですよ」

「どうしてここがわかったの?」

「さっき印を組んで呪を切ったでしょう?」

 ああ、やっぱりヒューに頼んで正解だった。王都から早く来るのは誰にでもできるけど、わたしの魔法の痕跡を見つけるのはかなり難しい。高度な魔術を使うからだ。

「まったく魔術マニアじゃなかったら、絞首刑か斬首でしたよ」

「自分はそれでも構いませんから、どうかアントワーヌだけは!」

「若さというのは勢いですねぇ。まったく、いつあの鼻のいいラカムに見つかるか」

 あ、と思って肌けたドレスを元に戻す。恥ずかしい。冒険中にも肌が見えたことはあったかもしれないけど、それよりずっと恥ずかしい。――一度ならいいとか言っちゃって!!!


「ではふたりそれぞれにサークルを描きましょう。ひとりずつ入って」

 ヒューは古びた肩掛けカバンから茶色い革表紙の本を取り出すと、祈祷を始めた。

 その祈祷を聞くと、心が洗い浄められたような気になって、最近の雑念がすっと消えた。

 わたしは元のアンに戻り、ラカムを想っても惑うことはなかった。


「そこまでだ」

 二頭の馬が早駆けでやって来た。一頭にはハイディン、一頭にはラカム――。

「ミルズ、わかっているな」

 ハイディンは残念そうに頭を背けた。ラカムはこの国一と言われる剣技を披露しようと、腰から剣を抜いた。

「はい、ラカム様。夫人にはなんの落ち度もございません。私が強引にしつこく迫っただけです。罪はすべて私めに」

「よく言った」

 キラリ、と刃が雨の雫に光る。わたしは咄嗟に目を瞑った!


「ラカム、わかっているのに芝居がすぎるでしょう。アンを見なさい。操られていたから真っ青だ」

「アン! 間に合ってよかった!」

「ラカム、ラカム! 怖かった! すごく怖かったの⋯⋯。でもお願い、ミルズは許してあげて」

 ラカムはヒューを見た。

 ヒューはわたしにさっきの本を見せた。そこには『淫魔を追い払う呪文』とあった⋯⋯。まさか。

「あなたのお師匠さんもずいぶん粘着質ですね。消えたと思ったけれど、消滅したわけではなかったようだ」

「師匠⋯⋯」

 すとん、とわたしはその場に座り込んだ。

「名前を呼ぶな! 魔を呼ぶぞ」

 ラカムはひらりとわたしを馬上に乗せた。スカートの裾がふわっと舞う。

「魔術じゃなかったらどうするつもりだったんだ? 第一、魔術か神聖力の問題だと思ってヒューを呼んだんだろう? バレないようにって言ってもな、城までは主に一本道だからすれ違ったんだよ、この馬鹿!」

「ごめんなさい」

 涙は雨粒のようだった。


 ◇


 ラカムは実はミルズがアントワーヌを特別に想っていることを知って、騎士として傍に置いた。気持ちがあるなら大切にするだろうし、なにより誠実そうな男だから身分を越えるようなことはするまいと。

 しかし、ラカムは残念ながら鈍感だった。

 自分以外の人間の恋心、というものに。

「うーん、どうしたものか。本当なら斬首、温情で国境の砦送りというところだが、今回のことは公にはしたくないんだよなぁ」

「悪魔の手が入ってますからねぇ、言ってしまえばアンは悪魔憑きですよね」

「⋯⋯そんな言い方ひどい」

 確かに悪魔憑きだ。師匠がまだ存在するなんて、思ってもみなかったけど。


 ミルズには簡単に悪魔がいたことを話した。

 自分は処罰されるべきだとそれでも主張したので、ラカムは考えに考えた結果、自分の護衛騎士に加えることにした。

 わたしのところにはハイディンと、新顔のニールがやって来た。ニールは人懐こい顔をして、まだ少年のようだった。過去のわたしのように赤毛で茶色い瞳をしていた。まだ十八で護衛騎士とは大抜擢らしい。

「よろしくお願いしますッ」と前のめりに挨拶をして、わたしを笑わせた。

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