第33話 自分じゃない不安
今日もミルズに手綱を握ってもらって、平行に歩いていた。
たまには気晴らしに湖の方へ行ってみましょう、と誘ってくれた。
夏の光を浴びた湖の畔は小さな花々で埋め尽くされ、その後ろにはしっかりした樹木が影を落としていた。
「今日はシェフに頼んでピクニックにしてもらいましたよ」
ピクニック! それほど魅惑的な言葉はない!
アントワーヌは夏の日差しを少し多めに浴びただけでダウンしてしまう。ミルズはそれを知ってか、森の方に敷物をしいてくれた。
涼しい湖面を撫でる風。
まるで神様がその大きな手で輝く湖の面を撫でたようだ。
神様のことを思い出す。
怖いことをたくさん言った気がする。
アンの魂がアントワーヌの身体に縛りつけられたこと、アントワーヌの魂が消滅したこと、わたしたちはいつか対価を払わなければならないこと――。
対価って、なんのことだろう?
おいおいわかると思って放っておいたけど⋯⋯。
「いかがですか、奥様。直射日光に当たってはいけませんよ」
「わかってるわ。わたしだっていきなり倒れて、この素敵な時間を台無しにしたくないもの」
「⋯⋯申し訳ありません。私のような無粋なものがお相手で」
「なに言ってるの? ミルズだからこそ、思いついたんでしょ?」
「そんなお言葉をいただけるとはお恥ずかしい⋯⋯」
ミルズの美しいブロンドが風になびいた。
ミルズはそのうなじに照れたように手をやった。
「その、私のような下賎な者がお尋ねするのも失礼だと思うのですが」
「なぁに? わたしは城の者はみな家族だと思ってるけど」
ハハッと弱々しくミルズは笑った。わたしの言ったことはまったく的外れだったのかもしれない、と知って赤くなる。
「奥様が赤面することではないです」
「そぉ?」
「そうです。我々みんな、ここで安定した生活を送れることに感謝しています」
「それはラカムに言ってよ」
わたしは苦い思いで笑った。なにも役に立ってないわたしが礼を言われるなんて。
「いえ、奥様がいて、ご主人様がいらっしゃるのです」
湖面から吹く風はかわいらしい花たちを揺らしながら、わたしたちを冷やした。少し、涼しい。あまり長くいられないかもしれない。
アンだった頃のように、膝の上に頭を乗せる。
「悩み事がおありなら、なんなりと」
「⋯⋯ミルズから見たアントワーヌはどう? 思ってた通りだった?」
ミルズは言われたことがわからないという顔をした。わたしだってなにを問いたいのかわからない。
「アントワーヌ様、とお呼びする失礼をお許しください。私はここへ来る前は王宮の護衛騎士でした。王女殿下にお会いする機会は、ほかの者よりずっと多かったと思います」
「⋯⋯それで?」
「いつも生気のない王女殿下を心配しておりました。しかしどういうわけでしょう? ご主人様と結婚が決まってからぐんぐん丈夫になられ、瞳の輝きさえ違って見えます」
「おかしいかしら?」
「いいえ、世の中にはそういう夫婦もいると思います。なにもおかしくはないでしょう。そもそも王女殿下は桁外れな神聖力をお持ちだと聞いています。それが、ご主人様と出会って、上手く回るようになったのではないでしょうか?」
わたしは足を三角に折って抱えた。その頂点に顎を乗せて物思いに耽る。
「⋯⋯ラカムは、アンという女性が今も好きなのではないのかしら?」
は?
自分の発言に驚く。
昨日まではアンとして愛されたかったのに、今日はアントワーヌとして愛を乞うということ?
それはちょっと⋯⋯アントワーヌだって、不安なんだ。魂が消滅してさえ。
「失礼ながら奥様、死んでしまった人間と比べることはできません。しかしながら奥様のように美しく、聡明で、謙虚、人の目を惹かずにいられない方に誰が惹かれずにいられるでしょう?」
「⋯⋯本当に?」
「ええ、騎士の誓いを立てましょう」
「なら、ミルズ、わたしを抱きしめて⋯⋯怖いの」
えええええー!?
それはまずいでしょう? なんでアントワーヌ、そうなるの? 世間知らずだから?
下手したらミルズの首が飛ぶのに!
ミルズの青い瞳が湖面のように揺れる。
ミルズはもう、アントワーヌしか見えていない。
「お許しください、奥様。私のような者にとって、奥様の髪の先に触れることさえ罪なのです」
「⋯⋯そう、残念だわ。わたしって女としての魅力に欠けるのね⋯⋯」
ぽふっ。
アントワーヌはミルズの胸に頭を任せた。
ちょっと待って、落ち着いて。この身体はわたしの身体なんだから、どうにでもできるはず。
ほら、手を伸ばしてミルズを軽く突き飛ばして「冗談よ」って上手くやれば――。やれば。
なぜか身体が上手く言うことを聞かない。こんなこと初めてだ。気持ちと身体が分離してる。
「『好き』じゃなくていいの。『愛してる』って言って」
アントワーヌは本当に世間知らずで天然だ。そんなことを言われて落ちない男はいない。まして、相手は国一番の美女なのに!
ミルズは震える手でアントワーヌの小さい頭を抱いた。騎士のものとひと目で見ればわかる無骨な手で抱えた、彼女――わたしの頭に小さくキスをした。
わたしの胸の中にまで甘い想いがせり上ってくる。
「ずっとお慕いしております。アントワーヌ様」
⋯⋯終わった。
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