展覧会にて 02

「っ、《聖域展開エクスパンド・ザ・サンクチュアリ》!」


 そんなギルバートの声が聞こえたかと思うと、メルの体を何か温かいものが包み込んだ。


(……?)


 恐る恐る目を開けると、至近距離に不機嫌そうなギルバートの姿があったのでギョッとする。


「メル、無事だな?」


 よく見ると、周囲はドーム型の金色の光で包み込まれていた。

 光の発生源は、ギルバートの足元を中心に描かれた円形の神術図形だった。


「この光は……?」

「簡易的な破邪の結界だ。瘴気を防ぐ効果がある。問題なくこの中に入れるあたり、わかってはいたがお前は変な亡者アンデッドだ」


 呆れたような表情で言いながら、ギルバートは懐から小瓶を取り出して中に入っていた液体を神術図形に満遍なくふりかけた。


「何をなさってるんですか?」

「結界の強化。神術を発動させた時に聖句を唱える余裕がなかったからな」

「その瓶の中身は何ですか?」

「大聖堂で聖別された聖水だ」


 ギルバートはメルに答えながら周囲を見回した。


「絵の中っぽいな。どうやら引きずり込まれたらしい」


 結界の外側には、どこぞの屋敷の一室のような光景が広がっていた。


(肖像画の背景にあった部屋かしら……)


 ちらりとしか見ていないが、言われてみれば似ている気がする。


 周囲には、ミストシティ名物の霧のように、黒いもやが一面に立ち込めており、まるでホラーハウスの中のように不気味だった。


「一体何が起こったんでしょうか……」


「たぶん悪魔の仕業だな。こんな非現実的な超常現象が起こせるのは連中だけだ」


 ギルバートは渋い表情で教えてくれた。

 周囲にはメルとギルバート以外の姿はない。


「護衛の方々は大丈夫でしょうか?」

「わからん。巻き込まれていなければいいんだが……。下手に探しに行くより本体を叩いた方が早いかもしれない」

「あら、勇ましいのね」


 突然第三者の声が響いた。かと思ったら、室内の靄が収束し、女の姿へと変化する。


 長い黒髪に切れ長の褐色の瞳、胸元の大きく開いた赤いドレスを身に着けた妖艶な女だ。

 その容姿には既視感があった。ここに引きずり込まれる前にちらりと見た肖像画の女性そっくりだ。


 彼女は手にした扇で口元を隠すと目を細めた。


「可愛い男の子だけを招待したつもりなのに、変な異物が混じってるわね。……まあいっか。割と美味しそうだから」

「お前が私達をここに引きずり込んだ悪魔か」

「そうよ」


 ギルバートの問いかけに対し、女はあっさりと認めた。そしてギルバートに視線を移動させる。


「まさか神術の使い手だったなんて。あなた、もしかして聖職者?」

「……この国では私の顔はそれなりに知られていると思ったんだがな」

「あら、有名人なの? ごめんなさいね。この国に来たのは初めてなのよ」


 複雑そうな顔をするギルバートに向かって、女は小首を傾げると謝罪した。


「聖職者は面倒だけど、食べたら能力が飛躍的に向上するのよね。せいぜい頑張って抵抗なさいな」


 目を弧の形にして微笑んだ女の体から、黒い糸状のものが噴き出し、結界に襲いかかった。

 糸が結界に衝突し、バチバチと火花が散る。メルは思わず身をすくませた。


 ギルバートは舌打ちすると、手の平から神気を放出し、神術図形の構築を始めた。


「メル、絶対にこの結界からは出るな。この程度の攻撃ならしばらくの間は防げるはずだ」

「っ、はい」


 メルは動揺しつつも頷いた。


そらましまたっとき主神ハイランディアよ 願わくば我がこえに応じ給え――」


 ギルバートは聖句を唱え始めた。



  我が賛美のこえに応じ 黒鉄くろがねつるぎを与え給え

  我は剣をもってしき者を打ち破り

  陶工すえつくり器物うつわもののように粉微塵に彼らを打砕うちくだかん



 メルに対して祓魔術を使った時とはまた別の聖句だ。

 詠唱が進むにつれ、神術図形の放つ光は強くなっていく。


「顕現せよ、《破魔の聖剣ソード・オブ・エクソシズム》!」


 ギルバートが宣言すると、神術図形が眩く輝き、黄金に輝くサーベルへと姿を変えた。


 美しいサーベルだった。全体が清浄な気配を放つ金色の光を纏っているたけでなく、柄にも、護拳と呼ばれるサーベル特有のつばの部分にも、精緻で壮麗な装飾が施されている。


 ギルバートは剣の柄を掴んで構えると、結界の外に向かって駆け出した。


 結界には、間髪入れず女悪魔の操る糸の攻撃が加えられている。そんな所に飛び出して大丈夫なのだろうか。メルは青ざめた。


 しかし、それは余計な心配だったようで、結界の外に出たギルバートの体は金色の光に包み込まれていた。その光は、彼の服の右ポケットの辺りから発生している。確かそこには、外出時には必ず身に着けているという、聖別された女神の聖印ロザリウムが入っているはずだ。


 ギルバートが接近するのを見た悪魔は、結界に加えていた攻撃を、彼に集中させた。

 しかし糸は彼には届かず、光に触れるとジュウ、という音を立てて消滅する。


(すごい)


 ――と思った時には、ギルバートは悪魔の目の前に到達していた。


「何なのお前、どうして糸が届かな――」


 動揺する悪魔の声はそこで途切れた。

 ギルバートが手に携えた剣で首を刎ねたからだ。問答無用の一閃だった。


「うそ……私が、こん、な、ところ、で……」


 悪魔の体は切り離された部分から少しずつ黒い粒子へと変わって消えていく。


(やっつけたの……?)


 あまりに呆気ない幕切れに、メルは呆然とギルバートの背中を見つめた。

 と、同時に、周囲の景色がぐにゃりと曲がる。


 絵の具でマーブリングをした時のような光景に気持ち悪くなり、メルは目をギュッとつむった。


「……メル、もう終わった。目を開けていい」


 ややあってギルバートから声をかけられ、メルは恐る恐る目を開けた。

 すると、周囲は絵から靄が吹き出す前に見た応接室の光景に切り変わっていた。

 ソファがあり、ローテーブルがあり、その傍には、イーゼルに飾られた絵が置かれている。


 だが、絵の情景は変わっていた。女の姿が消え、単なるどこかの室内を描いた風景画になっている。


 イーゼルの後ろ側の床には画商が倒れており、ギルバートはその傍でしゃがみこんでいた。


 戻ってきたのだ。メルは安堵してギルバートに話しかける。


「その方は……?」

「脈も呼吸もあるから、恐らく気を失っているだけだと思う」


 ギルバートは立ち上がりながらメルの質問に答えた。


「たぶんそこの絵に棲みついていた悪魔に操られていたんだろうな。瘴気に晒されていただろうから、教団で治療が必要になると思う。精神をやられていなければいいんだが……」


 瘴気は人間にとって、毒の霧のようなものだ。

 精神や肉体を蝕むので、少しでも触れてしまったら神気による治療が必要になる。


 メルは風景画へと変化した絵を見つめた。

 クレオールの絵とは似ても似つかない絵画だ。画商の発言はギルバートを釣るための嘘だったのだろう。


 ギルバートは立ち上がるとウェストコートのポケットに手を突っ込み、中からロザリウムを取り出した。


「うわ、ひびが入ってる。結構ギリギリだったな……」


 メルはふわりと飛んでギルバートの近くに移動すると、彼の手元を覗き込んだ。

 すると、確かにロザリウムには細かな亀裂がいくつも入っていた。


「もしかして危なかったんですか?」


「ああ。内心こいつが持つかヒヤヒヤしていた」


「すごく余裕っぽかったというか……悪魔をちょっと馬鹿にした態度をとっていらしたような……」


「当たり前だ。悪魔と戦う時は弱気は禁物だ。恐怖や不安に繋がるからな。負の感情は連中の力の糧になる。はったりでも強い気持ちを持つのが大事なんだ」


 しれっと言うギルバートに、メルは目を丸くした。


「強い気持ちで、というのは亡者を相手にする時も同じだけどな。肉体を乗っ取ろうとする連中を跳ねのけるために一番有効なのは強い意志だ」


「……そう言えば、私を祓おうとした時の祓魔術とは違う神術をお使いになっていましたね」


「そうだな。あれは対悪魔用の神術だ」


 ギルバートの回答を聞いた時だった。

 バタバタと大きな足音が外から聞こえてきた。そして――。


「殿下! ご無事ですか!?」


 そんな声が聞こえ、祓魔師の僧服カソックを着た壮年の男性が開けっ放しだった応接室の入口から踏み込んできた。

 その背後には、ギルバート付きの近衛兵の姿もある。全員肩で息をしている所を見ると、慌てて駆けつけてきたらしい。


「ダニエル高司祭! お前達が連れてきてくれたのか?」

「大聖堂に行けとのご命令でしたから。ご無事で何よりです」


 答えたのは近衛兵だった。

 彼によると、部屋中が靄に包まれた後ギルバートだけが姿を消していたので、慌てて大聖堂に走ったそうだ。


「お久しぶりです、殿下。ご無事で何よりですが、悪魔は……」


 祓魔師――ダニエル高司祭が尋ねた。どうやらギルバートとは旧知の仲らしい。神の末裔たる王族は、教団と繋がりが深い。


「そこの絵に取り憑いていたようです。悪魔自体は倒したのでもう心配はないのではないかと思います」


 ギルバートは、側近やメルに対する時とは打って変わって丁寧な態度で祓魔師に礼を言うと、状況の説明を始めた。

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