帰ってきた幽霊令嬢 04

 退屈かつ苦痛で仕方なかったメルの真夜中は、宮殿の片隅に住み着いた猫を発見した時に、少しだけ過ごしやすくなった。


 厩舎をねぐらにしており淡いクリーム色の体毛に琥珀色の瞳を持つメス猫だ。鼠を退治してくれるから、厩務員からは『フラウ』と名付けられて可愛がられていて、そのお陰かとても毛艶がいい。


 彼女は、日中は眠っている事が多いが、夜になるとむくりと起き出して活発に行動を始める。

 そんなフラウを追い掛けるのが最近のメルの時間潰しだった。


 彼女の被毛は闇の中でも比較的目立つ。

 また、この幽霊の体は便利だ。障害物などお構い無しに、茂みの中や細い溝の中を移動する猫を追いかけられた。


 優秀なハンターであるフラウに密着していると、たまに残酷な場面に出くわす事がある。

 しかし、夜中は彼女を追跡し、日中はこれまで関わり無かったであろう階級の人々の生活を観察するのがメルの日課になりつつあった。




 ギルバートに話し相手になってもらうのは基本的に夜だ。

 一日の公務やら食事やらを終え、後は眠るだけという状態になると、彼の部屋の窓際には青のモザイクガラスで作られたオイルランプが設置される。


 そこに明かりが灯ったら、訪問をしてもいいという合図だ。

 このルールは、うっかりギルバートの執務室に侵入してしまった後に、メルから申し出て作ったものだった。


 ギルバートは、メルが意思疎通できる唯一の人物である。

 本当はもっと構って欲しいしお喋りしたい。だけど、一定の距離を保ち、彼の私生活になるべく踏み込まないように心掛けるのは、嫌われたくないからだ。


 たった一人メルが認識できる人に嫌がられて、口を利いてもらえなくなったら――。

 想像するだけでも怖かった。




 ミストシティ大聖堂の鐘が夜の九時を告げるとメルは宮殿へと移動する。

 そしてギルバートの部屋に青い光が点っているのを確認すると、ふわりと舞い上がった。


 窓の前にたどり着くと、気合いを入れてラップ音を二回鳴らす。これはノック代わりだ。

 少し待っていると、カーテンと窓が開け放たれ、ギルバートが顔を出した。


「今日も来たのか」

「はい。来ちゃいました。こんばんは、ギル様」


 この呼び方を許してもらったのは、何度目の訪問の時だっただろうか。


 ギルバートは嫌々ながら、という態度を取りつつも、毎日メルを迎え入れてくれるのだから優しい。


 ちょっとメルが目を潤ませるだけでたじろいで、不承不承ながらも受け入れてくれたのだからお人好しだ。そこにつけ込んでいる事に少しだけ胸が痛む。


(ごめんなさい、ギル様)


 心の中で謝罪しつつ、あと少しだけだから、とメルは自分に言い訳し、ギルバートの部屋へとするりと入り込んだ。


 庭園だけでなく、宮殿内も至る所に白熱灯が取り付けられている。だから彼の部屋は昼間のように明るく照らし出されていた。


 おぼろげな記憶の中にある自分の家は、一箇所にしか電灯がなく、夜は家族全員が一室に集ってすごしていたような気がするので、彼は別世界の人間なのだなと実感する。


 直前までギルバートは絵を描いていたようだ。


 初めて出会った時にもスケッチブックを抱えていた彼は、絵を描くのを趣味にしている。


 書き物用の机の上には、彼がここ数日取り組んでいる、四阿ガゼボとその周辺に咲く奇蹟の青薔薇ローザ・ミスティカが描かれた風景画が置かれており、その周辺にはパステルや鉛筆などの画材が散乱していた。

 ちなみに彼の描く絵は写実的でかなり上手い。


「また絵をお描きになっていたんですか?」

「ああ。メルが来ると強制的にやめられるから助かる」


 言いながらギルバートは机に移動し、描きかけの絵を片付け始める。

 彼によると、興が乗ると睡眠時間を削ってしまうので、メルの訪問はその防止効果があるらしい。


(きっと気遣って下さってるのよね……)


 物言いこそ尊大だがギルバートは紳士だ。メルを一人の女性として丁重に扱ってくれる。

 彼のそんな言動や行動に接する度に胸がドクンと高鳴った。


(幽霊なのに、変なの)


 この半透明の体には、血なんて通っていないはずなのに。


 メルは小さく息をつくと、気持ちを切り替えるために軽く頭を振った。

 それから室内に置かれたソファに移動し、腰を掛ける姿勢を取る。


「今日は何をしていたんだ?」


 片付けを終えたギルバートはこちらに移動し、メルの向かい側に腰を下ろしながら声を掛けてくる。


「いつもと同じですよ。今日は新聞社を見てきました。植字工の人達は凄いですね。物凄い速度で活字を拾っていくんです! 輪転機も凄かったなぁ……」


 最初は美術館や画廊など、芸術作品に向いていたメルの興味は、今は市民の生活に移っている。これまでに関りがなかったと思われる階層の人々が働く様子を観察するのは結構面白い。


(次はその向かい側の銀行に行ってみよう)


 メルは心の中で明日の計画を立てた。

 一応彼の言いつけを守り、メルは首都を出ないようにしていた。悪魔や悪霊に襲われるのは怖かったからだ。


「殿下は今日は何を?」


「昼間はポロの大会を見てきた」


「殿下がご覧になる時は王族の観覧席を使われるんですよね? 特等席じゃないですか」


「そんなに良いものではない。目立つからどんなに試合が停滞していても真面目くさった顔で座ってなきゃいけないからな」


 ギルバートの発言にメルは目を丸くした。


「うっかり欠伸でもしようものなら、匿名の投書が宮殿に送り付けられてくる。人前では笑顔か真面目な顔をするのが王族の仕事とはいえ、辛い時は結構ある」


「それは……確かにそうですね。いつも人の目を気にするのは大変そうです」


「そうだろう。もっと労るといい」


 ギルバートは冗談めかしてふんぞり返った。


「ええっと……お疲れ様です。こうしてお話をお伺いすると、ギル様を始めとした王族の方々のお仕事って大変なんだなと実感します。常に人の目に晒されて……それだけではなくて、様々な祭祀にも関わっていらっしゃいますよね?」


「国土や国民を神気で守るのは王族の義務だからな」


「はい、本当に大変なお勤めをなさっていると思います」


「……面と向かって労られるのも何だか恥ずかしいな」


 頬が赤く染まっているのが何だか可愛らしくて、メルは思わず笑みを浮かべた。




   ◆ ◆ ◆




 メルはあまりギルバートの部屋に長居しない事にしている。滞在時間は二、三十分程度に収まるように心掛けていた。


「そろそろお暇しますね。今日もありがとうございます」

「ああ。また明日」


 ギルバートも特に引き止めない。ただ、翌日の約束をしてくれるのは純粋に嬉しい。

 ひらひらと手を振ると、メルは壁を抜けて外へと出た。


 名残惜しいけれど長居しないのは、自分の訪問が負担になるのが怖いからだ。


 建物の外に出ると、夜空にはミストシティの風物詩である霧がかかっていて白く濁っていた。

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