リラの子守り

 クライヴはアリエス伯爵の馬車に乗り、リラのいる牧羊地へと向かった。


 クライヴは、どうしようもなくリラに逢ってみたくなったのだった。

 皇子である自分に逢おうともしない令嬢とは一体どんな女性なのだろうか。


 今までの令嬢はクライヴが訪れると言えば、雨が降ろうが槍が降ろうが頼んでもいないのに挨拶をしにきていた。

 更に何かとクライヴの気を惹こうと、胸を寄せ、上目遣いをして色気を振りまこうとしていた。


 それなのに、クライヴが謁見を要請しても領民の子守りが忙しいから断りを入れるとは前代未聞であった。


(どんな女性なのだろう…。)


 クライヴはその口元を少しばかり緩ませた。


 クライヴは今までその美貌やその地位に魅了された人々に囲まれた世界で生ききた。

 やっとただの自分と対話できる人間に出逢えるかもしれないと期待していたのだろう。


 クライヴはそう思いながら橙色に染まる空を腕を組みながら眺めていた。


 そんなクライヴの気持ちを知らず、チャールズは冷や汗が止まらなかった。

 隣国の皇子がわざわざ田舎の伯爵令嬢に逢いに牧羊地まで足を伸ばすなど考えもしなかったのだった。


 チャールズは、今朝の出来事を思い返した。


★ ★ ★


 今朝方。

 チャールズはハンナの家を訪ねた。


 当初、リラも会合には初日から参加する予定だった。

 けれど、四日前にいつものようにリラがハンナの元を訪ねると、驚いたことに羊小屋でひとり倒れていたのだった。


 リラは慌てて医者を呼び、ハンナの夫が不在の間は付き添うことを決意したのだった。


 リラは数年前に母を病で亡くしていた。

 そんな経験から病気で床に伏せるハンナを放っておくことなど考えられなかったのだろう。


 その上、ハンナにはまだ幼いエドガーに乳飲子のマルクもいた。

 それなのに、看病を放り出して会合にいくことなどリラには考えられなかった。


「リラ、今日は会合に出席してもらえないだろうか。」


「会合なら週明けの参加で問題ないとおっしゃっていたではありませんか。それに資料は目を通しております。昨日上がった確認事項に付随する書類も準備しておきましたよ。」


 リラは朝食の片付けを行いながら、そう答えた。


「状況が変わったのだ。隣国の皇子がお前に逢いたいとおっしゃっているのだ。」


「そんなことおっしゃられましても、ハンナさんは今もとても体調が悪くてとてもひとりにすることなどできませんわ。」


 チャールズは渋々といった表情を浮かべるもリラは聞く耳を持たなかった。


「それに、エドガーとマルクは誰か面倒を見るというのですか。あてもないのに勝手なこと言わないでください。」


 チャールズはリラが頑固なのを知っていた。

 亡き母に似て、とても面倒見がよく正義感が強い子だった。


 とても喜ばしいことなのだが、隣国の皇子が娘に逢いたいと言っているのだ。

 連れて行かない選択肢などあるだろうか。

 チャールズは冷や汗をかいた。


「しかし、皇子が直々に申していて…。」


「皇子様がただの田舎の娘にどんな用があると言うのですか。」


 この言葉にはチャールズも参った。

 確かに何故娘に興味が出たのか皆目検討がつかなかったのだった。


「とにかく今日は会合に参加しませんからね!」


 リラはきっぱり断ると家を出て羊小屋へと向かっていった。


☆ ☆ ☆


 チャールズは思い返すのが損だったかのように顔が蒼くなっていった。

 クライヴはその様子を見て口を開いた。


「アリエス伯爵、リラ嬢の件を咎める気はないので安心してほしい。」


 チャールズはその言葉に安堵するも、気がつくと言い訳が口から出ていた。


「アクイラ国皇子、本当に申し訳ないです…。再三、参加を促したのですが、皇子にご足労いただく形になり申し訳ございません。言い訳になりますが、実を言うと、ハンナという牧場の女主人が四日前くらいに熱を出して倒れたそうなのです。そのハンナという女にはまだ幼い子供がふたりおり、更にハンナの夫は皇都に出かけているという状況で…。その人手が足りず、娘は心配して手伝いをかってでておりまして…。」


「そうか。ずいぶん心優しい娘だと感心している。」


 チャールズの予想に反しクライヴは口元綻ばせていた。

 チャールズは、その言葉に、やっと肩を撫で下ろしたのだった。


「寛容なお心ありがとうございます。亡くなった妻に似て、とても世話好きで…領民からは慕われて嬉しい反面、とにかく頑固で…。」


 クライヴは感心するようにその話を聞いていた。




 しばらくすると、馬車は大きな一本の木がある牧羊地の前で止まった。


「あ。あそこで子供と本を読んでいるのが、娘のリラです。」


 チャールズが指差す方向に、夕焼けで染まる草木の中、木陰に腰を下ろし、慣れ手付きで揺籠を揺らしながら、四、五歳の男の子に絵本を読んでいるひとりの少女がいた。


 その少女は、一見町娘のような薄汚れた服装をしているが、その仕草や姿勢はとても上品で荘厳な雰囲気が感じられた。

 何より、少年に向ける彼女の優しい笑顔がクライヴにとって天使か女神のように映り、目が離せなくなった。


「リラー、鬼ごっこしよ!」


 男の子は絵本に飽きたのか、リラの腕を掴んだ。


「いいよ!マルクを抱っこするからちょっと待ってね!」


 そうすると揺籠からマルクと呼ばれた赤子と布を取り出し、慣れた手つきで体に巻きつけたのだった。


「よし!行くよ!」


「きゃーーーー!」


 リラの準備ができると男の子は嬉しそうに声を上げながら駆けていった。


 そうしてしばらく遊んでいると、頭を抱えた女性がやってきた。


「おかあさーん!」


 男の子は、嬉しそうに駆け寄り、女性に抱きついた。


「リラちゃん、ごめんね。だいぶ良くなったよ。」


「ハンナさん!良かった!だいぶ顔色が良くなっていますね!一昨日は顔が真っ蒼だったから、本当に心配しましたよ。そうだ!エドガーと今朝サンドイッチ作ったんですよ。食べられますか?」


「本当に?悪いねー。いつもありがとう。」


「僕も食べたよ!リラのサンドイッチ!」


「こら!リラじゃなくてリラお姉ちゃんよ!」


 そんなことを言われても何ひとつ気にした様子もなく優しく笑うリラにクライヴはただただ見惚れ言葉などでなかった。


 その愛らしい姿。

 ふわりと笑う優しい笑顔。

 まるで女神のような心の温かさ。


 クライヴはリラのすべてに惹かれていた。


「アクイラ国皇子、お呼びしましょうか…。」


 クライヴがリラをあまりにもまじまじと見ているので、チャールズは思わずそう告げた。


「是非…。」


「殿下。そろそろお時間です。」


 クライヴがその言葉を遮るようにデイビッドはそう告げた。




 会合三日目のこの日は、ネロベルク伯爵邸で懇親会が開かれる予定だった。

 その会に遅れることを危惧したデイビッドによって制止されたのだった。


 チャールズは馬車を出すように御者に告げ、一同はネロベルク伯爵邸へと向かった。


 約束に遅れることがよろしくないのは重々承知していた。

 けれど、どうせ懇親会と称しての夜会だろう。


 おそらくこの懇親会の目的は、会合に参加できなかった建設関係者の貴族の令嬢の御機嫌取りだろう。

 隙あらばクライヴを紹介してほしい令嬢たちであっても、用もないのに会合に参加することは憚られる。

 そこで懇親会を開くことを余儀なくされたもだろう。


(これから、いつものように令嬢たちに取り囲まれて、掴み合いの喧嘩を眺めなければならないのか。)


 クライヴは嫌気がした。

 懇親会の欠席も考えたが、やはりいつものように最低限参加し早々に退場することにした。


 もし、今回の懇親会にリラが参加する予定なのであれば出席する価値があるだろうが、あの調子だと欠席かそもそも招待すらされていないかだろう。




 その後、懇親会には、やはりリラの姿はなかった。

 クライヴは一度会場に現れると、すぐさま令嬢たちが取り囲んで挨拶の順番を巡って、いつも通り卑しい喧嘩が始まったのだった。

 クライヴはその仲裁をデイビッドに任せると最低限の挨拶を終え護衛と共に退場した。


 その翌日。

 クライヴは後ろ髪引かれながら皇城に帰還した。

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