クライヴは平然

 クライヴはニヤリと微笑い、リラの手を取り優しく口付けをした。


「リラ、来てくれてありがとう。まだ挨拶してなかったね。」


 間近で見る、クライヴの甘く蕩けるような情熱的な紅い瞳に、リラはゾクリとした。

 何度もこのような光景はあっただろうが、リラが自分の気持ちに気づいてしまった今、この口付けをより身体が意識してしまう。


 昨夜の不安もあり、今までになく、今日はこの雰囲気を待ち望んでいた自分がいた気もした。

 リラは嬉しいような照れ臭いような気持ちだった。


 リラは口をもごもごさせるが、言葉が出てこなかった。

 恋愛経験のないリラには、このような甘い雰囲気のときにどのようなことを言っていいのか気の利いた言葉が何一つ思いつかなかった。


 今更ではあるが、何か不適切な言葉を発して自分に嫌気がさしてしまわないか。

 この場の空気を壊してしまわないか。

 そんな不安が過り、言葉を選んでは躊躇いを繰り返していた。


 クライヴが、相変わらず余裕の笑みを浮かべていた。

 リラは何か物言いたげな表情を浮かべているも、クライヴは一向に構うことなくリラの頬に手をあて、そのまま親指でリラの唇をゆっくりとなぞった。


 リラは、一瞬ビクッとしたものの、顔は更に上気し瞳は次第に蕩けていった。

 クライヴは、その表情を確認すると自身の顔をゆっくりとリラに近づけるも、あと小指の先ほどの距離でピタリと止まった。


「何も言わないなら、このまま口付けてしまうよ。」


 クライヴの甘い吐息がリラの顔にかかった。

 まるで媚薬を盛られたように、リラの身も心もをこれでもかと蕩していき、鼓動は一層に早まった。


 クライヴにとっては最後の確認なのだろうか。


 このほぼ了承したかに思える状態でも、リラはぼんやりした意識の中で悩んでいた。


 このまま口付けてしまいたい、そう心の奥深くでは望んでいるのだろう。

 けれど、まだ婚約の承諾をしていないどころか決心すらついていなかった。


 それなのに、クライヴとこのまま口付けしまうことは、失礼なのではないか。

 その迷いを示すように、リラはクライヴを見つめたまま何も答えられずにいた。




 トントンッ。


「失礼します。」


 するとノックと共に扉が開き、デイビッドが戻ってきたのだった。

 リラは一瞬にして我に返り、慌てて立ち上がろうとするも、クライヴが瞬時にリラの腹部をガッツリ押さえ込むため今度はクライヴに背を向けるようにして膝に腰掛けた。


「デイビッド、早かったな。」


「すいません。お取り込み中でしたか。」


 クライヴは何事もなかったようにデイビッドに話しかけ、デイビッドも顔色ひとつ変えることなく詫びるだけだった。

 毎度思うが、この側近は主人のこの振る舞いに関して免疫がつきすぎていないだろうか。


 そんな顔色一つ変えないふたりに挟まれて、リラだけが羞恥のあまり耳まで真っ赤になり、デイビッドから顔を背けていた。


「問題ない。資料は隅に置いておいてくれ。」


 クライヴにそう言われ、資料を執務机の隅に置くとデイビッドはにっこり笑って、そそくさと出て行った。


「ごゆっくり。」


 デイビッドは何も言葉を発していなかったと思うが、リラにはそんな言葉が聞こえたように感じた。


 デイビッドの退室すると、リラは一気に血の気が引き冷や汗をかいた。

 こんな真っ昼間から自分は何をしているんだ。


 幾度となく口説かれ求婚されているが、曲がりなりにも取引先に仕事の手伝いにしにきているのだ。

 それでなくても、淑女としてあるまじき振る舞いだったと猛省した。


 しかし、やはりというべきかクライヴはそんなことお構いなしだ。


「では、さっきの続きをしようか。」


 クライヴはリラを後ろから一層に強く抱き寄せると、そのままリラの髪に顔を埋めた。


「え、いや、えっと。ここには、お仕事の手伝いをしに来たんですよね。」


 先ほど、デイビッドに痴態を見られて猛省したばかりで、一瞬にして気持ちが切り替わることなどできなかった。


(仕事を盾になんとかこの場を切り抜けなければ…。)


 リラは必死に掴まれたクライヴの手を退けようとした。


「はは。そうだけど…。それ以上にリラと親密になることの方が重要なんだが…。あ、痣がもう消えてるね。また付けてもいい?」


 クライヴはリラを抑える手と反対の手でリラの髪を掬い横に一まとまりにして流し、以前自分がつけたキスマークが残っているいないことに気づいた。


(こんなときに、キスマークの方が重要なのですか!?)


「(〜もう!)仕事の話を先にお願いします!」


「じゃあ。後で、ね。」


(いや。後でも何も…。〜〜〜。)


 そう言われても、リラははっきり嫌だとは言えなかった。

 正直に絶対に嫌だというわけでもなかった。


 少なからずクライヴに好意はあることに気づいた今はこのような行為を恥じらいながらも愉しんでいる自分もいた。


 ただ今日は仕事で来ているのだ。

 分別を弁えられないものにはなりたくなかった。


 それに、またいつデイビッドが戻ってくるかもしれない。

 いや、あの妙に気の利いた側近ならよっぽどのことがない限り戻ってこないだろう。


 だがしかし、呑気に昼間からいちゃいちゃしているなど、端な過ぎる。

 リラはなんとか離れようと踠き続けたが、やはりクライヴはがっしり抑えつけてどうにも放してもらえなかった。


「はは。仕方ないな。」


 クライヴはそういうと先ほどデイビッドが持ってきた資料に手を伸ばして目の前に広げ、リラの頬と自分の頬をピッタリと合わせると説明を始めた。


「今回お願いしたことを端的に言うと、先日送られてきた見積書なのだが、昨年よりも少し割増されているような気がしているんだ。」


 クライヴは続けて数値や他の資料の説明を続けたが、リラは背後から伝わるクライヴの熱に、甘い薔薇の香りに、頬から伝わるクライヴの振動が気になって仕方がなかった。


 確かにリラの希望通りに仕事の話はしているが、これでは一斉内容が頭に入ってこなかった。


「それで、リラはどう思うだろうか。」


 一通り説明が終わったのだろう、クライヴはリラに意見を求め、リラの方に向き直った。

 耳を擽ぐる甘い吐息に耐えられなくなり、リラは顔を背けた。


「すいません。ちょっと理解が追いつかず、一旦放していただき、再度、説明いただけますか。」


 クライヴはクスリッと笑い、再びリラの肩に顎を乗せて、もう一度説明を始めた。


「いえ、えっと、まず放してください!」


 リラは腹部を押さえているクライヴの腕を剥がそう抵抗した。


「そんなに俺から離れたいの?」


 クライヴは憂いのある表情を浮かべつつも甘えたように囁いた。

 リラはその言葉にゾクリッとした。


(そんな甘えた声で強請られては、何でも許してしまいそうになりますわ。)


「このままでは、お答えできかねます!」


 リラは頬を真っ紅にし涙を浮かべ、眉間に皺を寄せながらクライヴ訴えた。

 リラの想いがクライヴにやっと届いたのか、クライヴはリラの顳顬に口付けするとやっと手を放したのだった。


 クライヴが手を放すとリラは逃げるように執務机の正面に回り込み、クライヴに再度説明をお願いした。


 三度目の説明が終わると、リラはクライヴから資料を受け取り、先ほどのソファとローテブルで持参した資料と見比べながら隅々まで確認を始めた。


 確かに金額に違和感があった。

 クライヴに頼んで過去の資料を見せてもらえるか尋ねると、デイビッドが事業を初めた頃からの資料を用意した。

 リラはそれと用意した資料と比較すると二、三年前から少しずつ水増しされている形跡があった。


「クライヴ様、デイビッド様、少しよろしいでしょうか。」


 リラが見つけた疑惑の証拠を説明すると、ふたりは納得したような表情を浮かべた。


「僭越ながら、アリエス家で利用している業者をご紹介しましょうか…。」


「是非、お願いしたい。デイビッド、取りまとめを頼む。」


 リラがクライヴに提案するとクライヴは笑顔で了承した。

 このような場面のときに時折、女がでしゃばるなと言われることはあったが、やはりクライヴは自分の実力を十二分に買っていた。


 それは、リラにとって素直に嬉しかった。

 いつか伴侶を持つなら、このように寛容な人がいいと望んでいた。


 リラは持ってきた資料をローテーブルに広げ、お勧めの業者をいくつか列挙すると共にメリットとデメリットも併せて伝えた。

 デイビッドもひどく感心した様子で、リラは自身を少し誇らしく感じた。


「ありがとうございます、リラ嬢。すごい分かり易くて助かりました!」


「いえいえ、お役に立ててよかったです。」


 デイビッドの感謝の言葉に、リラは照れながら微笑んだ。


「ありがとう、リラ。それで、まだ君に相談したいことがあるから、隣に来てくれるかな。」


 クライヴは、ふたりの話が終わるのを見計らって執務机からリラを呼んだ。


「はい、わかりました。」


 リラは、当たり前のようにクライヴの正面に立ち説明を求めるのだった。

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