第一話 女子医官、村里にゆく⑥


 それから三日後の昼下がり。翠珠は陶警吏の家を訪ねた。

 中級官吏である彼の家は、外城の目抜き通りからいくらか離れた住宅地にあった。

 固く閉ざした門扉にむかって訪問を告げると、少ししてむこうでがちゃがちゃと物音がした。かんぬきを外しているようだ。昼の日中にもきっちりとかけているのだとしたら、ずいぶんと用心深いことである。陶夫妻が子供達の死因に、枯花教の関与を疑っているのならしかたないが──。

 扉を開けたのは、地味なおうくんをつけた中年女だった。この家の仕女だろう。彼女は上目遣いで翠珠を見ると、驚きと警戒をまじえた顔で中に招き入れた。

「お若いんですね」

「二年目なんですよ」

「……女の方だとは思いませんでした」

 そういうことかと、警戒と驚きの方向に二重で合点がいった。

 若い医者などそれだけで警戒される。そこに女という要素が加わったら、なおさらである。家に尽くすべきという婦人の教えに真っ向から逆らっている女医は、なにかと世間から非難の目をむけられる存在だった。もはや慣れているし、腹も立たない。怜玉の診察は女児という事情もあり陶夫妻が女医の診察を望んだのだが、そんなことを説明する必要もあるまい。

 そのまま奥の正房に案内された。陶家は周囲を土塀で囲った三合院の家で、東西のしようぼうと奥の正房が院子にわを囲むようにして建っている。

 小さな前庁から隣の部屋に入ると、そこでは陶夫人と怜玉が待っていた。窓際の長椅子に腰を下ろし、卓上には焼き菓子が置いてある。

「すみません。空腹だというので、おやつを食べさせるところでした」

 夫人が申し訳なさそうに言う。茶杯には色の濃い茶が半分ほど残っている。たっぷりあんの入った甘いげつぺいはまだ手付かずだったが、茶は飲んでいたのだろう。

「食欲はあるのですね」

「はい。せの大食らいで」

「肥満でないのだから、食べすぎということではないのでしょう」

 そう答えたあと、先程の仕女が翠珠のために新しい茶を持って入ってきた。茶を卓上に置いてから椅子を持ってきたので、翠珠はそこに腰を下ろす。そのあとは仕女は母親に言われて退出していった。いくら使用人でも、娘の診察現場など見せたくはないだろう。

「怜玉さん、こんにちは」

 あらためて翠珠があいさつをすると、怜玉は「こんにちは」と返した。診療室で会ったときよりは活気がある。やはりあそこでは緊張していたのかと思い、できるだけ親し気に話しかける。

「ごめんね。せっかくのお菓子だけど、診察の間だけ我慢していてね」

「はい」

 少しはにかんだように怜玉は答えた。母親から大食らいと言われて、恥ずかしがっているのかもしれない。九つとはそういうことを気にしはじめる年頃か? このあたりも自分の当時はよく思いだせない。

 のちほど舌を診るため先に怜玉に口をゆすがせた。濃い色の茶を飲んでいたので念のためだ。舌の色味も診断には重要な要素なのだ。

 脈診のために手首を握る。普段が大人相手なので、子供の骨の細さにちょっと驚く。

(力がある。それに少し滑脈気味?)

 表情には出さぬようにして、翠珠は自身に問いかける。医師は患者の前で不安な顔を見せてはならない。基本中の基本である。ちなみに脈にかんしては、強弱や数遅(この場合の数は脈が速いことを示す)のどちらがよいのではなく、理想はあくまでも中間でそこからどれだけ外れているかを診断する。ゆえに異常か否かの判断は、経験に基づくところが大きくなってくる。それでなくとも子供はさくみやくだし、年を取れば健康でも遅脈となってくる。

 脈診も舌診もそうだが、正常な範囲と病的状態の区別が、はっきりと数値化されていないので微妙な状態の場合の診断が難しい。そもそも研修医の立場の翠珠がその診断をつけることはできない。さいな異変でも気づいたことはきっちりと記し、上の医官達に報告することが自分の役割である。

「ありがとう、脈はもういいわ」

 怜玉の手首から指を離し、脈診の結果を記す。次は舌診である。書付から顔を上げた翠珠の前で、怜玉が茶杯を傾けていた。しかし杯を満たすものは口をゆすぐための水のはずだ。

のどが渇いちゃって。水ならいいかなって……」

 気まずげに答えた怜玉に、母親が「緊張しているみたいです」と言った。気持ちは分かるが、身体によろしくないのではと懸念する。

「生水はおなかを壊すかもしれませんよ」

「湯冷ましですから」

 母親は答えた。まあ、言われてみればとうぜんだ。この国の喫茶の習慣は、しつ(主に下痢性の疾患)の発症率を劇的に下げたと言われている。茶をれるには煮沸した水を使うからだ。最初は茶の薬効と唱えられていたらしいが、煮沸に毒消しの効果があると分かるまで時間はかからなかった。

「それなら大丈夫ですね」

 舌診を済ませ、症状を書き付ける。こちらもぜつたいの存在が気にはなったが、分量的にはさほどでもない。あきらかに病的な場合、舌の状態が見えないほど苔が肥厚している。その点も記録して、あとは陳中士の判断にゆだねる。

 筆を置いてから翠珠は顔を上げた。

「お疲れさま、今日はもう──」

 言い終わらないうちに、ぎょっとする。それまで翠珠にむけられていた怜玉の視線がふわりと動き、そのまま彼女は机に突っ伏した。

 母親が小さな悲鳴を上げて、娘の身体を揺らそうとする。あわててそれを制し、顔が見えるように横を向かせてから脈を診る。先程よりもずっと速くなっている。子供だと考えても明らかに異常な数脈である。翠珠はもう一度、怜玉の状態を観察した。こめかみやくびすじのあたりに生汗が浮かんでいる。

 ──これって?

 芙蓉殿の栄嬪が倒れたときに似ている。彼女は妊娠をきっかけに水滞の状態となり、そこから血水の調節障害による脳虚血発作を起こして一時的に意識を失った。不足した血液を脳に送りこむため脈が速くなるのは、とうぜんの生体反応だった。

 であれば寝かせたほうがよいのだが──翠珠は用心深くようすを見守る。やがて怜玉がゆっくりと目を開いた。

「怜玉」

 胸をでおろす母親にむかって、ぽつりと娘は言った。

「おなかすいた」

 翠珠も母親もぽかんとなる。怜玉は視界の端に月餅を見つけると、ぐいっと手を伸ばす。しかしまだふらついているのか、さっとつかめない。母親が代わりに手に取って二つに割り、さらにそれを二つに割ったものを与える。

 怜玉はそれをしやくし「もっと」と言った。母親が四分の一にした菓子を与える。それもぺろりとたいらげる。そこで母親がお茶を飲ませた。そのときには普通に身体を起こしていた。脈も戻り、生汗も引いている。

 ──これって?

 こういう症状を診たわけではないが、文献で読んだ気がする。しかもわりと頻繁に。それなのに思いだせない。なんだったろうかと懸命に記憶をさかのぼる。

「こういうことは、よくあるの?」

 翠珠の問いに、怜玉は「ふわっとすることはたまにあります」と言った。それは杏花舎での診察時も言っていた。陳中士は子供に多い自家中毒を疑っていたのだが、確定診断はつけられなかった。となれば二年目の翠珠にできるはずがない。いまの症状も忘れないうちにしっかりと書き留める。

 少し間をおいて、怜玉は遠慮がちに訴えた。

「でも、今日が一番強かった気がします」

 翠珠はあらためて怜玉を見た。大人しいがきちんと受け答えができる、しっかりした子供だった。にもかかわらず生気に乏しく映るのは、見る側が三人の兄姉の不審死を知っているから、なにかしらの先入観があるのだろうか。

 陳中士から聞いた話だが、怜玉自身は兄姉の死を自身に重ねて気に病むという気配はなさそうということだった。というのも上二人の死は物心がつかぬ頃のことで、怜玉が覚えているのはいちばん歳の近い三兄だけだったからだ。それも数年前のことで怜玉はたいそう幼かったので、あまり深刻に受け止められなかったというのが実態らしい。

 むしろそれを気にしているのは、地方に出向しているという二十歳の長男のほうではあるまいかと陳中士は言っていた。指摘されてみれば、確かにそうかもしれない。彼の年であれば弟妹の死ははっきりと記憶している。ならば現状はなにもない自身の健康に、彼がなんらかの疑念や不安を抱いても不思議ではない。十九歳の自分とも歳が近いだけに、長兄の気持ちのほうが翠珠には想像しやすい。

 逆に言えば九つの怜玉が、その幼さゆえに得体の知れない不安にさいなまれていないことは幸いだった。

「分かったわ。このことは担当医に報告しておきます。また同じようなことがあれば、次に来た時に教えてちょうだいね」

 そう翠珠が言うと、怜玉は素直にうなずいた。


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