キャリーケースの女 第2話(最終話)

 結局、あまり眠ることはできず、次の日は完全に寝不足だった。

 そんなこともあって、僕はその日からランニングのルートを変えた。山道の方がトレーニングにはなるが、集中できないのだったら意味がないと思って平地を走るようになった。信号待ちを気にしなくていいように通る人がほとんどいない田舎道を走った。何も気にすることなく走れたのは久しぶりに感じていた。

 それから1週間が過ぎた2月13日。平地だとやはり少し物足りなく、またあの山へ登ってしまった。何も起きないだろうそう思って。

 あの女性がいる場所は把握していたから、その手前で一度止まって、女性がいるかいないか確認して、いなかったらそのまま山を登る。いたらそこで引き返して、もう一度初めからそこまで登る。そうしようと決めていた。

 あの女性の位置を視認できる場所で一旦止まって確認して見ると、流石に女性の姿はそこにはなかった。

 流石に1週間もずっと同じ場所にいる人はいないよな。そうほっとして、そのまま山を登って行くと、女性が突っ立っていたところで僕は背後から誰かに左腕を掴まれた。それも、僕では離れられないほどの力の強さだった。咄嗟に振り向くと、僕の腕を掴んでいたのは、あのキャリーケースを落としたと言っていたあの女性だった。

 僕は久しぶりに叫んだ。

 何年振り? そう言われてみるとわからないな。ざっと小学生以来かな。ジェットコースターでも叫ばないのに全力で叫んだ。

 

「やめろ! 離れろ! 放せ! やめてくれ! 放してくれ!」

 

 僕の言葉は何1つこの相手には通じなかった。と言うか、話を聞く気がないようだった。

 

「あの、すみません。実はキャリーケースを落としてしまって、どうにか取ることはできないですか?」

 

「知りません! 自分で頑張ってください!」

 

「そうですよね……」

 

「もういいだろ! 放してくれ! 俺はこの先に用があるんだ!」

 

「そうなのですね。ありがとうございます。一度行ってみます」

 

 この一連の流れをすれば放してもらえるものだと思っていたが、それは僕の考えが甘かった。

 

「あの、すみません。実はキャリーケースを落としてしまって、どうにか取ることはできないですか?」

 

 腕は掴んだまま、またその言葉から始まったのだった。どんなに力を入れても放してくれず、走って逃げようとも敵わず、逆に崖付近まで引っ張られていた。

 

「放せ! 放せ! やめろ!」

 

 このままでは崖から突き落とされるのではと、そんな恐怖に僕は苛まれていた。

 

「そうですよね……」

 

「放せ! 放せ! やめろ! 放せ!」

 

「そうなのですね。ありがとうございます。一度行ってみます」

 

「放せ! やめてくれ! もういいだろ!」

 

 そう言った瞬間、女性の動きは止まった。僅かだが、力も弱まっている気がして力を振り絞って腕を振り払うと、ようやくこの女性から掴まれていた腕が解放された。それからはただひたすらに、山道を走った。今まで経験したことないくらい早いペースで。吐いてもいい。限界を超えてでも遠くに行かなければ、それしか頭にはなかった。

 しばらく走っていると、管理事務所の建物が見えた。一時的にそこに避難しようと、行ってみると運悪く今日は人がいない日だった。だが、花の水やりでたまたま来ていた、管理事務所の初老の男性が、息を切らして疲れ切った顔の僕を見て、鍵を開けて事務所の中に入れてくれた。等々力と名乗ったその初老の男性に、到底信じられる話ではないけど、僕はあったことを全て話した。女性に話しかけたことも、崖下にキャリーケースが落ちていることも、女性に腕を掴まれたことも。腕を掴まれたことに関しては、僕の腕に握られたような痣が残っていたからそれが証拠になり、等々力さんはどこで遭ったのか、どこにキャリーケースが落ちているのか詳しく聞いてくれた。全て話し終えると、等々力さんが僕の実家近くまで車を走らせてくれて、僕は無事に帰宅した。

 それから、僕はその山へは一切近づくことはしなかった。怖い……そんな簡単な言葉で片付けていいほど易しいものではなかった。体が、本能が、あの場所へは近づいては行けないと言っている気がした。

 後日談。

 あの経験からさらに2週間が経った2月27日。朝、何気にテレビをつけてニュースを見ていると、そこに見覚えのある顔写真が映された。有名人や芸能人の話ではない。地元の特集番組でもなく全国区のニュース番組だ。映された写真はとある女性の顔写真だった。そう、あの山の中で僕が話しかけた、キャリーケースを崖下に落としたと言う女性だった。目を疑った。その女性が巷の有名人なら何も問題はなかったのだが、どうやらただの一般人だったようだ。その女性は、あの崖下に落ちていたキャリーケースの中から縛られた状態の遺体で見つかった。腐敗が激しく、死後1ヶ月以上は経っているそうだ。僕が女性に会ったのは2月4日で1ヶ月も経っていない。僕が見たあの女性は一体何だったのか。今となっては知りたくないものになっていた。

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