📚第6冊 高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』
音楽の出てくる小説を紹介しようと思った。音符やコード(和音)の表記のあるものをと思って、確かあったよなあ〜と『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』の文庫本を探してみるが何故か見つからない。確認できない。『日本文学盛衰史』の文庫本はあってパラパラ確認してみたが、やっぱりこちらに音符やコードは無さそうである。いや、音楽(歌)もこの小説のテーマの一つにはなってはいるのだけれど……。
ということで、今回の趣旨を音楽作品の「ような」小説ということにしてしまって、それならせっかくなので『さようなら、ギャングたち』を取り上げることにしたい。
高橋源一郎さんは詩に造詣が深いし、音楽作品に近親性があるというなら、彼の小説はみんなそうじゃないか、と言えそうではある。
僕が持っているのは、古本として入手した雑誌「群像」昭和56年12月号である。この号に《第四回群像新人長篇小説賞発表〈優秀作〉高橋源一郎》として掲載されているのである。
小説中には《二十世紀のおわり頃》について《わたしたちはその時代を「三人の偉大な詩人の時代」と呼んでいる。》と書かれ、更にその《三人》とは《谷川俊太郎》《田村隆一》《そしてもう一人は「船を出すのなら九月」を書いた中島みゆきだ。》と書かれている。
日本では詩は読む人が少なくなったと言っていいと思う。俳句だって詩であると考えれば多くの人が親しんでいるが、それでは作家としての俳人を知っているかと言えば名前を挙げることのできる人はあまりいないのではないか(近代・現代詩の谷川俊太郎さんは有名だが)。短歌でも俵万智さんほどにまで有名になった人はいないと思う(《……尾崎豊の詞を書いてくる》の歌が僕は大好きである)。
「群像」にこの小説が掲載されたとき読者がどう感じとったかは分からないのだが、本当に《詩人》と言えば、一般の人にとっては或る意味で三人くらいということになってしまったのかも知れない。或る意味でというのは、一般の人に訊いてみて一人で挙げられる詩人の名前は三人くらいなのではないか? ということである。
さて、高橋源一郎さんの小説は詩のようである、とも言えるとは思う。しかし、僕が思うには詩にしては前進する感じというか駆動感(?)があるのである。高橋源一郎さんの資質によるものか、散文というものの特徴なのかは僕には分からない。わからないが、音楽作品のようである。
『さようなら、ギャングたち』は「講談社文芸文庫」に入っている(勿論、文芸文庫価格であるので覚悟(?)が必要?)。
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