第5話

「で、ライブはどーだったの?」

 休みを挟んだ翌日。控え室での待機時間に、創が話を始めた。

「めっちゃくちゃ良かった!! セトリも最高だったし、衣装も多くて————」

 楽しげに感想を語り始めた翔音に、二人は相槌を打つ。

「それで、ライブが終わった後は澄睦さんと一緒に公園で感想を話して…」

 ふと、翔音は口を噤んだ。そして、柔らかな声で続ける。

「…リバーブのことも、聞いたんだ。色々大変だったみたいだけど、でも、聞けて良かった」

 それから、帰りは澄睦の車でドライブして帰ったことを話す。一通り話し終えると、創がにこにこしながら口を開いた。

「えー、ちょー楽しそうじゃん」

「うん、すっごく楽しかった!」

 よかったねぇ、と言いながら、創は手を伸ばして翔音の頭を撫でる。もう、と言いながらも翔音も振り払ったりはせずされるがままになっていた。

 そんないつも通りな二人を、湊は一人神妙な面持ちで見ていて。

「…」

「湊?」

 それに気付いた翔音が、呼び掛けた。

 湊ははっとした顔をして、すぐに取り繕うように笑う。

「ああ、うん。楽しそうで良かった」

 ————どうしたんだろう?

 何か考え事でもしてたのだろうか。創を見てみるが、あまり気にしていなさそうだったので、翔音もまぁいいかと気に留めるのをやめた。

 コンコン、と不意にドアがノックされる。どうぞ、といつものように湊が応えた。

「すみません、翔くん少しいいですか」

 顔を出したのは澄睦だった。翔音は「はい!」と返事をして椅子から立ち上がる。

「ちょっと行ってくるね」

「いってら〜」

 ひらひらと手を振る創に対して、やはり湊は何とも言えない表情をしていた。

 ————何か言いたそうな…戻ったら聞いてみようかな。

 とりあえず澄睦に呼ばれたので、気になりつつも翔音は控え室を後にした。



 翔音が去り、控え室に残される二人。

 しばらく、静寂が二人を包んだ。翔音が出て行ったドアを見つめたまま、湊の唇から囁くような声が漏れる。

「ねぇ、翔音って…」

 しかし、言葉はすぐに途切れた。再び沈黙が落ちる。

 創は湊をちらりと横目で見て言った。

「いーじゃん、幸せになれそうだし」

 湊はすぐさま創を振り返り、眉を顰める。

「幸せになれそう? 相手はマネージャーで同性だよ」

「え、別にそこは問題じゃなくない?」

 信じられないものを見るような顔で、湊は創を見返す。創はその視線を受け止めながらも、変わらない調子で言った。

「でもまだカノンは十八ってのがなー。ま、けどそこは時間が経てば解決するからいっか」

 湊はあからさまに顔をしかめた。

「…俺は、そうは思えない」

 そして厳しい声で言った。

「マネージャーがアイドルに手を出すなんて、許されないよ」

「なんで?」

 創は即座に問い返す。

「両思いならよくない?」

「駄目だろ。マネージャーはアイドルを支えて守るべき存在なんだから————」

「それ、恋人も同じじゃん。両立できるくない?」

 創は躊躇いなく湊の言葉を遮った。

「それ、は…でも」

 勢いを失くした湊に、創はさらに畳み掛けた。

「双方同意があって、ちゃんと思いが通じ合ってんなら、マネージャーが恋人になったっていいと思うけどな」

 肩書きが増えるだけじゃん、と創は平然として言った。湊は未だ納得がいかないように、渋い顔をしたまま問い掛ける。

「…マネージャーだっていうのは、止める理由にならないって言いたいの」

「そ。同性うんぬんも。別に好きならいーじゃん。色々大変なことはあるかもだけど、まぁそれも本人たちがそうするって決めたんなら別に外野がどうこう言う話でもなくない?」

 創のあっけらかんとした言い草に、湊の瞳が揺らぐ。創は穏やかに笑った。

「誰かが誰かを幸せにしたいって気持ちを持つのに、肩書きを理由に咎める必要なんてないよ」

 澄み切った瞳で言う創から、湊は視線を逸らした。

 何も言わず、しばらく湊は沈黙する。そんな湊を見て、創はそっと囁きを溢した。

「オレも、同じだけど。それは、否定しないでしょ」

 湊はぱっと顔を上げる。

「同じ、って…」

 視線が交錯した。創は湊の揺らぐ瞳を掴まえる。

「オレも、湊が幸せに生きてるのをずっと隣で見てたいって思ってるよ」

「っ…」

 湊の唇から、掠れた吐息が溢れた。時が止まったような一瞬が、過ぎ去って。

「…はぁ、お前って、ほんとに」

 大きなため息と共に、湊は全身の力を抜いた。そして、椅子に寄り掛かりながら、創を睨み付ける。

「ほんとにムカつく」

「あ、久々に聞いたそれ」

 創はけらけらと笑う。湊は不機嫌そうな顔をしたまま、ふいっとそっぽを向いた。



 一度自覚してしまえば、あまりに明白な感情だった。

 翔音を思う気持ちに嘘は無いが、そこには明らかにただマネージャーとして、あるいはファンとして彼を愛おしく思う以上の感情があって、それに気付かされる度に絶望した。

 翔音から疑いのない真っ直ぐな信頼を向けられる度、無邪気に微笑まれる度、自分は本当に翔音に恋をしているのだと、そう何度も自覚させられた。そして、その愛情が胸の中を温かく照らすのと同時に、息苦しくなるほどの後悔と自己嫌悪に苛まれた。

 マネージャーを変えたいという話は、すぐ上に相談した。不自然にならないよう、現状は特に問題は起きていないというところは正しく伝えつつ、翔音にとってやはり男性のマネージャーというのは精神衛生上良くないということと、長期的に見るとストレスなく活動を行うのにマネージャーの変更は必須だと考えているといった内容を、丁寧に説明した。

 想定していた通り、簡単には了承されなかった。女性の候補が現状居ないのだから当然ではある。これを実現化させるためには、すでに誰かを担当している女性マネージャーと交代する形で入ってもらうしかなかった。

 それこそ、創のマネージャーである日山をあてることは可能かもしれないと言われたが、目的は翔音から離れることにあるので、グループ内でマネージャーを交代するのでは意味が無い。どうにか他のグループで変えられる女性は居ないかと尋ねたものの、女性アイドルを担当している人がほとんどのため、今度は澄睦側の条件に引っかかってしまった。

 この際、自分が女性アイドルのマネージャーをやるのも辞さない覚悟だと伝えるか迷った。相手が女性だったら必ずしも同じ問題が起きるかというとそうではないし、距離感に気を付けて接することや、事前に過去の件を踏まえて事情を説明するなどで対策も打てる。

 しかし、事務所としては、ここでそのリスクを選択する理由は無いのも分かっていた。現時点で翔音に問題は無いのに、新たな問題の種を増やす方に倒すことは無いだろうと。

 選択肢はそれほどなかった。結局、交代が可能な状態の女性マネージャーを自ら見つけ出し、その手筈を整えるという形で了承を得ることに成功した。

 これまで通り多忙な翔音のマネージャーをしながら、さらに他グループの状況の把握や、女性マネージャーに直接事情を話して直談判をしなければならない。タスクはかなり圧迫した状態になってしまった。

「…はぁ」

 ふとした時に、疲れからかため息が漏れた。良くないなと思いながら、澄睦はメールのチェックを進めて————そのタイトルで、手が止まった。

「バレンタイン販促のイメージキャラクター…」

 チョコレートの製菓会社からのものだった。バレンタインをテーマにしたものなので、おそらくコンセプトは可愛らしいものになるのだろう。

 ————これまでの翔音くんは断ってきた類の案件だけれど…。

 勝手に判断するわけにもいかないので、この後の打ち合わせの時に一応聞こうと決めて、送られてきた詳細を読み込んだ。


「————以上になります。各自、スケジュールの把握のほど、よろしくお願いいたします」

 はい、と三名から返事が返される。

「最後に、翔くんに確認したいのですが」

「なんでしょう?」

 その目を見ず、淡々と告げる。

「バレンタイン販促の案件が、カラメル社から来ました」

 翔音はぱちりと瞬きをして、それから「バレンタイン…」と小さく繰り返した。

 ————やっぱり気乗りはしない、かな。

 少しだけ残念に思いながら、持ってきた資料を画面に表示させる。

「内容としては、ビジュアルの撮影、そしてそれを用いたSNSでの投稿キャンペーン、あとはコラボ配信ですね」

 企画内容の説明をしながら、イメージ画像を映した画面を翔音達の方へ向けた。

 イメージ画像は、赤とピンクを基調としたものだった。明らかに可愛らしさを強く押し出したいのだと分かるそれを、翔音はしばらくじっと見つめる。

 ————いつか、こういう仕事もやって欲しいと思ってはいるけれど。

 可愛らしさを武器に出来るその日が来ることを、心から願っていた。

 翔音がそういった要素を排除したいと思っていたのなら、そんなことは思わなかっただろう。しかし、可愛いことを誇りに思っていると知って、それならば、その強みを存分に活かしてもらいたいと強く思った。

「どうでしょう。それほど大きな企画ではないですし、忙しい時期ではあるので、無理する必要は無いかと」

 断りやすいように言葉を添えつつ、答えを催促する。

 画面をじっと見つめていた翔音は、顔を上げ、引き結んでいた唇を開いた。

「…やってみたいです」

「えっマジ!?」

 即座に声を上げたのは創だった。湊も驚いた顔をして尋ねる。

「本当にやりたいの?」

 翔音は湊の方を向いて言った。

「うん。やってみたい」

 澄睦は、力強く話す翔音を呆然と見つめる。

「企業の人が選んでくれたってことは、俺がやったらいいものが出来るって、そう思ってくれてるってことでしょ」

 翔音は柔らかな笑みを浮かべた。

「こういうの、避けてたけど…でも、今なら、ちゃんと出来る気がするんだ」

 そっか、と湊は表情を和らげた。創もにこにこしながら頷いている。

 翔音は澄睦の方へと向き直り、迷いない視線を向けた。

「是非やりたいです。よろしくお願いします!」

 ————本当に、眩しいくらい真っ直ぐだ。

 澄睦は目を細める。

「分かりました。では受ける形で話を進めますね」

 この決断が、翔音にとってどれだけ勇気のいることか、その口から直接話を聞いて、よく分かっているつもりだった。

 ————努力家だな…本当に。

 だからこそ、成長スピードも著しい。速度を緩めることなく、夢に向かって突き進むその姿勢は、見ているだけで胸が熱くなるものだった。

 純粋にその姿を応援出来たのなら、どれだけ————そんなことを思って、心の中でため息を吐く。

 もう離れると決めたのだ。翔音の未来を守ることが、今自分が翔音にしてやれる最大のことだと言い聞かせる。

「ちょー楽しみー!」

 絶対チョコ買うから!、とはしゃぐ創に、頑張ってね、と声を掛ける湊。二人からの激励に嬉しそうな声で答える翔音を見ながら、澄睦は一つ息を吐いた。


     * * *


 その日の朝は、いつも以上に目覚めが良かった。

 ————頑張るぞ…!

 翔音は気合を入れるようにぱちんと自分の両頬を叩く。

 速やかに支度を済ませ、玄関で澄睦の車が来るのを待った。今日は例のバレンタインの案件のビジュアル撮影日だ。

 ————可愛さについてもたくさん研究した…ちゃんとそれを表現出来れば、きっといいものになるはず!

 この撮影までの間、時間を見つけては「可愛い」ということについて自分なりに解釈を深め、どういうふうに撮るのがいいか具体的なイメージを作った。そこには、この仕事を絶対に成功させたいという強い思いがあった。

 五分もせず、澄睦の車が到着する。いつものように乗り込み「お願いします」と頭を下げた。

「緊張してますか?」

「少しだけ…でも楽しみです。今日の撮影に向けて、ちゃんと準備もしてきたので!」

 それは良かったです、と返す澄睦。

「澄睦さん、チョコレートお好きでしたよね」

「そうですね」

「今日の撮影できっとチョコレート頂けると思うので、あとで一緒に食べませんか?」

「…ええ、ぜひ」

 会話が終わる。

 ————なんだろう…。最近、澄睦さんが素っ気ない…ような気がする。

 これまで通り話はするし、話し掛けてもくれる。しかし、毎度長く会話が続かず、以前のように話が広がらない。

 冷たいわけではないものの、あまり会話に乗って来ないことが多かった。また、気がそぞろなこともたまにあり、それはそれで心配だった。

 ————最近、なんとなく疲れているようにも見えるしな…。

 ふとした時に、あくびをしたり、ため息を吐いたり、疲労を感じる仕草が目についた。

「澄睦さんは、大丈夫ですか?」

「え?」

 翔音は言葉に迷いながらも、結局感じていることを率直に伝えた。

「その…ちょっと、疲れてらっしゃるような気がして…」

 ————疲れてる理由なんて仕事しかないだろうけど…しかも、それってつまり原因は俺ってことだし…。

 当然ながら、翔音が仕事を受けた分だけ、マネージャーである澄睦も忙しくなる。さらには、ほぼ全ての現場に同行させている状況なのだ。

 そういえば、澄睦側の負担について話したことは一度もなかったなと思い、翔音は一人心の中で反省した。澄睦の性格や仕事のスタンスを思えば、自分のタスクが圧迫されているから受ける仕事を減らそうなどと言うはずは無い。こちらから気遣うべきだったと後悔しながら、翔音は落ち込んだ声で続ける。

「送り迎えもそうですし、同行もお願いしてしまっていますし…俺の我が儘で、色々と無理させてしまっていると思うんです」

 握手会以降、恐怖症はかなり緩和していた。不意打ちでなく、心構えが出来ている状態であれば近くに来られても怖いとは思わなくなった。現場でもびくつくことは少なくなったし、以前感じていたほどストレスも無い。

 ————同行、もうしなくて大丈夫って、言おうかな…。

 気持ちに余裕が出来た分、おそらくもう澄睦が居なくとも、仕事に影響が出るような事態にはならないだろうと思った。

 しかし、やはり居てもらえるのならば居て欲しいと思ってしまう。言い出せずに悶々としていると、静かな声が返された。

「…翔音くんが気にすることはありませんよ」

「え…でも」

「最近、ちょっと寝不足で…でもそれは、翔音くんの仕事のせいではないので、本当に気にしないでください」

 仕事でないなら何なのか————聞きたい気持ちはあったが、何となく澄睦が尋ねられることを望んでいないように感じられて口を閉ざした。

 ————壁を、感じる。

 寂しさに、翔音はきゅっと唇を結んだ。

 触れられたくないプライベートで、何かがあったのか。澄睦から話されないことには知りようもない。

「…分かりました」

 ————何も知らない俺に、出来ることは。

 力になりたい。それを望まれていなくとも————エゴでしかないことは分かっていたが、澄睦が何かを抱えていると知っていて、何もせずに居るなんてことは出来なかった。

 翔音は意を決して、それを口にする。

「あの、これからは必ず現場同行してくださらなくても、大丈夫です」

「…!」

 澄睦が小さく息を飲む声が聞こえた。

「澄睦さんのおかげで、最近は症状も和らいで来たので…一人でも、頑張れると思います」

 少なくとも、見えるところにずっと居なくとも平気だと伝える。それだけでも使える時間は増えるだろうと思っていた。

 ————仕事には関係ないって言ってたけど、でも仕事の時間が減れば、それだけプライベートに割ける時間は増えるはずだ。

 結果的に、澄睦を助けることになるのではないかと、思っていたのだが。

「…そうですか」

 返されたのは、感情の読めない端的な返事だった。

「それはよかったです。ではこれからは、スケジュールと相談する形にさせていただきますね」

 事務的に並べられた言葉に、翔音は戸惑う。

「…お願い、します」

 ————なんか、まずいこと言っちゃったかな…。

 どことなく気まずい空気が流れる。

 翔音は脳内で会話を振り返った。言い方が悪かっただろうか、これまで自分のためにたくさん時間を作ってくれていたのに失礼だっただろうか————しかし、あまりしっくり来ない。少なくとも自分の知る澄睦は、そんなことを気にするとは思えなかった。

 何となくこのまま現場入りするのは嫌だなと思っていると、小さな声で「すみません」と澄睦が小さく謝罪を口にした。

「症状、緩和して良かったです。翔音くんが、逃げずにちゃんと向き合ったからこそだと思います」

 さっきとは異なり、いつもの柔らかな声だった。

 ほっと息を吐く。翔音は胸を撫で下ろしながら、素直な思いを吐露する。

「向き合えたのは、澄睦さんのおかげです」

 本当にそう思っていた。自分一人では不可能だったのはもちろんだが、湊や創が一緒に居てくれるだけでも、きっとこうはなれなかった。

 今自分がこうして強い気持ちで居られるのは、確実に澄睦のおかげだと思っていたのに。

「澄睦さんが、俺を支えてくださったから————」

「それは違います」

 静かに、しかし有無を言わせない調子で遮られた。

「私はただ、正しい大人としてあなたの側に居ただけです。この役目は、他のどの正しい大人でも変わらなかった」

 突き放すような言葉に、胸がつきりと痛んだ。

「翔音くんに必要だったのは、マネージャーとして正しく居てくれる大人です。私が特別なわけではありません」

 言いたいことは理解出来る。例のマネージャーによって植え付けられた恐怖心を取り除くのに必要だったのは、正しい形で自分を支えてくれるマネージャーだと言いたいのだろう。

 ————でも、俺は澄睦さんに救われた…その事実は、変わらない。

「そう、かもしれないですが…でも、澄睦さんのおかげで俺は克服しようって頑張れたんです」

「そうですね、一番は翔音くんの努力だと思います」

 論点の逸らされた回答だった。

 わざとだと分かったが、なぜここまで澄睦が自分は特別ではないとしたいのかは分からなかった。謙遜と呼ぶにはあまりに頑なな態度に困惑する。

「克服できそうで、本当に良かったです」

 それが心からの言葉だというのは感じられた。しかし心は晴れ切らない。

 ————澄睦さんが抱えている何かが落ち着いたら、聞いてみよう。

 今のやりとりも含め、最近どこか様子がおかしいのは確かだった。一旦はそれが解決するのを待とうと、翔音はぐっと言葉を飲み込んだ。


 スタジオに着き、澄睦と別れて控え室に入る。

 ————切り替えて頑張るぞ。

「おはようございます、今日はよろしくお願いします!」

 スタッフに頭を下げると、よろしくお願いします、と朗らかに挨拶が返された。

 着替えを済ませ、メイクをしてもらう。髪も軽くセットされ、早々に支度が整った。

 鏡の中の自分をじっと見つめて、翔音は一つ息を吐く。

 ————概ね予想通り…やっぱり、こういう方向性なんだ。

 作って来たイメージとしっかり重なっていて安堵する。

 これならやれる、準備して来たものを出し切ることが出来れば、見せたいものを見せられるはずだ————そう、自分に言い聞かせるように心の中で唱えた。よし、と小さく呟いて、スタジオへ向かった。

 そこには、可愛らしいセットが立ち並んでいた。チョコレートを渡され、バストアップから撮影が始まった。

 最初は、ミルクから。今回の中では一番甘いチョコレートだ。

 ————これは全力で愛らしさに振る。

 この後に撮るスイートやビターとしっかり差をつけるため、ここでは癖のない、直接的な可愛らしさを表現しようと決めていた。

 カメラに向かい、翔音は描いてきたイメージで表情を作って。

「————っ」

 誰かが、息を呑む音がした。

 撮影は滞りなく進む。カメラマンの指示に応えながら様々なポーズをとり、表情を変える翔音に、スタッフは皆見入っていた。

 全ショット撮り終えるとオーケーが出て、ほっと胸を撫で下ろす。衣装を変えるため控え室に戻ろうとしたところで、スタッフの一人に、とても良かったと声を掛けられた。すると他のスタッフたちも口々に褒め称え始め、翔音は照れくさそうに笑いながら礼を返した。

 控え室に戻り、一人拳を握る。

 ————よし、ちゃんと出来てる…!

 手応えは確かだった。恥を忍んで、鏡の前で特訓をした甲斐があったなと思いながら、次の衣装に着替えた。

 次の味の撮影が始まる。脳内に描いてきたイメージを、一つ一つ丁寧にアウトプットしていった。

 スイートはあざとく。

 ビターはイタズラっぽく。

 ホワイトはあどけなく。

 どれも好評で、撮影は滞りなく進んだ。

 ————可愛いと思ってもらえるように、なんて考えながら撮影するのは初めてだけど…やっぱり、結構楽しいな。

 上手く出来ているという自信を持てることが大きかった。人から可愛いと褒められた経験が活きている、そう感じられることもとても嬉しかった。

 そして同時に、やはりこれには澄睦の力も少なからずあると思ってしまうのだった。

 ————澄睦さんは、どう思ったかな…。

 撮影中に何度かスタジオに見に来ているのは確認していたが、直接声を掛けられることはないまま、最後の衣装での撮影が終わった。

 ありがとうございました、と頭を下げ、拍手の中スタジオを出る。控え室に戻って衣装から着替えたところでドアがノックされて。

「お疲れ様です」

 現れたのは、澄睦だった。

「お、お疲れ様です!!」

 翔音はすぐに駆け寄る。ドキドキと心臓が音を立てていた。どうだったか、聞いてもいいだろうか、と考えている翔音に、澄睦は突然話を始める。

「準備、と言っていたと思うのですが、具体的には何をしたのか教えていただけませんか」

「え?」

「今日の撮影に向けて準備をしたと、車の中で」

 澄睦の圧に若干押されながら、ああ、確かに言ったかもしれないなと頷く。

「あ、えっと…可愛いって何だろうっていうのを、ちゃんと自分の中で言語化出来た方がいいなと思って…」

 ————澄睦さん、すごく真剣な顔してる…。

 その表情を見て、ちゃんと答えようと翔音は頭の中で整理しながら改めて話を始めた。

「可愛いと一言で言っても、実際はものすごくたくさんの種類があると思うんです」

 例えば、犬や猫を見た時でも、単にその愛らしい外見に対して言う時と、何かお茶目なことをしている様子を見て言う時とでは、同じ「可愛い」でも感情としては異なったものになる。「可愛い」という表現に当てはまる魅力というのは、決して一種類ではなく、多岐に渡っていることを前提に準備を行なった。

「アイドルという視点でそれらをカテゴリに分けて、どういう表現がどういう『可愛い』に結びつくのか、整理したんです」

 そして、そこからさらに、自分に求められている可愛さとは何なのかを、ファンの反応などをSNSで検索することで分析を行なった。

 さらにその上で、今回の撮影コンセプトに合うように一つ一つイメージを膨らませて、表現を形にしていった。

「ミルクは衣装もレースが多くて、味自体も一番甘いので、分かりやすく可愛さを表現するのがいいかなと思って————」

 チョコレートの味や用意された衣装などから、描きたい雰囲気を明確にイメージし、表情やポーズに落とし込んだ、という話をつらつらと語る。

 澄睦は何も言わず、ただ真摯な眼差しで話を聞いていた。

「————という感じでしょうか。とにかく鏡と睨めっこして、形に出来るように頑張りました」

 時間の許す限り考え抜いた。

 可愛いことを、自信持って誇れるように。

 そしてそれは————澄睦がくれた夢のため。

 この仕事で、胸を張って良いものが出来たと言えれば、きっとアイドルとして大きく成長出来ると、そう確信していた。

 ————だって、「可愛い」って言ってもらえることは、俺の強みなんだから。

 翔音は、背中を押してくれた彼を見上げる。この自信をくれた澄睦からの言葉が、今は一番欲しかった。

 数秒の沈黙。

 そして、澄睦は、ほうっと一つ息を吐いて。

「…すごいです」

 囁くように溢して、それから柔らかく目を細めた。

「翔音くんは、本当にすごい」

 ————あ…。

 その瞳は、確かに翔音を見ていた。

 目が合うのが少し久しぶりなことに気付くとともに、ぶわりと身体が熱くなる。

「とても可愛かったです。きっとファンの方々も喜ぶと思います」

 ファンに喜んでもらいたい、その気持ちはもちろん一番にある。

 しかし、澄睦に可愛いと言ってもらえることは、やはり特別嬉しくて。

 ————頑張って、良かったな。

 どう良かったか話す澄睦を見上げながら、翔音はとくとくと高鳴る胸にそっと手を置いた。


     * * *


「始まりました〜! デラメアラジオ!」

「ちょっと久しぶりだね」

「そうだね。翔が帰ってきてすぐにやって、それ以来かな?」

 三人は顔を合わせながら、マイクに向かって話をする。

「色々トピックはあるけど、まずはあれかな。カラメルさんのバレンタインキャンペーンについて、翔に聞こうかな」

 湊からの振りに、創が前のめりに声を上げる。

「あのバズり散らかしてたやつ!! あれほんっとヤバかった!」

 翔音の写真は、予想を遥かに上回る宣伝効果をもたらしていた。

 普段から可愛いと称されるものの、これまではずっとこういった路線の仕事を避けていたため、ファンにとっても初めて見る雰囲気のビジュアルであったことが大きな要因だった。

 SNSでのインプレッション数は凄まじく、急遽キャンペーンの内容にも、より多くの人が楽しめる施策が追加されたほどだった。

「たくさん反応をいただけてとっても嬉しかったです! みんなありがとう」

「ふふ、あれは本当に良かったからね。みんなもああいう翔が見れて嬉しかったんじゃないかな」

 翔音は「えへへ」と嬉しそうに笑う。そんな翔音を見て微笑みながら、湊が問いかけた。

「翔は、可愛いって言われるのどうなの?」

「!」

 湊からのパスは、ファンのためのものだった。

 これまで翔音がそういう売り方をしていなかったことから、可愛いと言われることを翔音は望んでいないのではと懸念する声が一部で上がっていた。

 ————素直に喜べない時もあったけど、今は、もう。

「嬉しい! すごく!」

 はっきりとそう言えることが、幸せだった。心が軽くて、気持ちが前向きになる。これからも、こういう自分の強みを活かせる仕事がしたいと心から思えた。

「デラメアの可愛い担当取られちゃったね、湊」

「は? いや、元から俺ではないだろ」

「まぁまぁ、めげずにがんばろ!」

 コントのようなやり取りを始めた二人に、翔音は声を上げて笑った。



 バレンタイン企画の効果は仕事にも表れた。可愛さで売りたいビジネスからのオファーが絶えず、スケジュールの健全性を保つには受ける仕事を取捨選択せねばならないほどになっていた。

 澄睦が全ての現場に同行しなくなっても、恐怖症が悪化したり、問題が起きたりすることもなかった。恐怖を覚えなくなったわけではないものの、今はそれを落ち着いて対処出来るだけの余裕がある。何とかすることが自力で出来ると分かっていることにより、心の安寧も保たれていた。

 全てが、順調ではあった。ただ、一点を除いて。

「…最近、澄睦さんが冷たい」

「え?」

 歌番組出演のため、三人でテレビ局の控え室に居る時だった。

 机に頭を乗せた翔音がぼやき、湊は驚いた顔をする。

「そんなふうには見えないけど…何かあったの?」

「なにもない」

 ぶすくれた顔をする翔音に、二人は顔を見合わせた。

 ————ほんとに何もなかったわけじゃないけど…。

 つい一ヶ月前まで四六時中一緒だったのに、今や、澄睦との時間はほとんどなかった。

 同行しなくても大丈夫だと言ったからだというのは分かっていた。さらに、湊の一件があってから決まった送迎のルールが先月でなくなったこともあり、移動を共にすることも無くなった。しかし、それにしても顔を合わす頻度が少ない。

 ————それに、目も合わない。

 あんなに目を見て話してくれる人だったのに————その変化は、勘違いではないと言い切れるものだった。

「なんで冷たいって思うの?」

 しかし、湊の問いに、答えを迷う。

 一緒に居ても目が合わない、と答えるのは、なんだか、マネージャーに対して求めることではないような気がして。

「…前みたいにお喋りすること、なくなっちゃって…」

 ああ、と湊は肩をすくめた。

「まぁ、確かに最近御崎さん忙しそうだよね」

 慰めるように言って、それから色々と質問を投げかけつつ、落ち込む翔音を励ました。

 こんな話を親身になって聞いてくれることに申し訳なさを感じ始めた時、不意に湊は時計を見上げて席を立った。

「ちょっと、飲み物買ってくるね」

「あ、オレも!」

 出ていく二人に、翔音は力なく手を振る。

 一人になった部屋で、はぁ、と大きなため息を吐いた。

 ————一緒にライブに行ったの、楽しかったな…。

 あの日のことは、いつ思い出しても胸が高鳴った。こてんと机に頭を置いて、目を閉じ記憶を辿る。澄睦の表情や言葉が、鮮明に脳裏に蘇ってきて。

「…あれ」

 はたと、その可能性に気付く。

 ————もしかして…澄睦さんの様子が変わったのって、あの日から…?

 突然全てが変わってしまったわけではなかったので確証は無いが、時期的にはちょうどその頃から違和感を覚えるようなことが増えた気がする。

 背筋が、すっと冷たくなった。まさか、本当にあの日が原因なんだろうか。もし本当にそうなら————。

 コンコン、と思考を遮るようにドアがノックされた。翔音は飛び起きて姿勢を正し、「どうぞ」と返事をする。

「お疲れサマでーす」

「!」

 現れたのは、事務所同期のアイドルユニットのメンバーだった。

 ————う…苦手な人たち来た…。

 オリオン・レッド————翔音たちとほぼ同時にデビューした三人組男性グループだった。良きライバルとして事務所は考えていたようだったが、あまりメンバーと馬が合わず、不仲の状態が長らく続いていた。

「…お疲れ様」

 翔音は立ち上がって挨拶を返す。三人が控え室に入りその後ろでドアが閉まると、少し緊張が走った。

「あれ、大路だけ?」

 南と高宮は?、と尋ねられ、翔音は飲み物を買いに出かけたことを伝える。

「ふーん…」

 リーダーである神谷の、少し含みのある様子に翔音は胸がざわめくのを感じた。

 彼はけろりと笑う。

「久しぶりじゃん。元気してた?」

 ————なんか、嫌な感じ…。

 人を見定めるようなこの目が苦手だったな、と思い出す。最後に会ったのがいつだったか詳細には覚えていないものの、休止前なのは確かなので、もう一年以上振りだった。

「うん。戻ってきてからは順調に過ごせてるよ」

 当たり障りのない会話だけで済ませたかった。あまり得意ではない男三人と密室に居るという状況がすでにストレスで、少し申し訳ないと思いつつも早く出て行って欲しいというのが本音だった。

「あーね。超順調だよねぇ」

 神谷はわざとらしいトーンで言った。

「見たよ、バレンタインの」

 ね、と他のメンバーと目配せをする。そして、薄く笑った。

「ああいうのやんだね、大路も」

「…アイドルなんだから、別に普通だろ」

 ————やっぱり、あんまり良い雰囲気じゃないな。

 取り合う必要は無いと判断し、翔音は目を逸らしてそっけなく返した。

「それにしても、女の子かと思うほど可愛かったわ」

 可愛いという言葉に、ぞわりと粟立つ。隠しきれない嫌悪感に翔音が顔を歪めると、神谷はにやりと笑った。

「ねーちょっとさ、確かめさせてよ」

「…なにを」

 不穏な空気を感じ取って、警戒を強くした次の瞬間だった。

「っ?!」

 メンバーの一人が、翔音の背後に回る。振り返ろうとした翔音を、無理やり羽交い締めにした。

「————ッ」

 息が、喉に詰まった。

 触れられていることへの不快感と、拘束されたことへの恐怖に、頭が真っ白になる。

 ————怖い。

 身体が、恐怖で動かなくなる。

 三人に囲まれ、ヒュッと声にならない悲鳴が上がる。

「へーマジでダメなんだ」

 何を言われているのかも、もう分からなかった。恐怖で身体は強張り、まともに抵抗も出来ない。

 ————たすけて、だれか。

 手が伸ばされる。首元のボタンを、外された。

 声の一つも出せず、ただ翔音は服が脱がされていくのを、されるがまま見ていた。恐怖に埋め尽くされた心ではもう何も考えることも出来ず、ただ地獄が終わるのを待つことしか出来ない。

 涙が滲んで、よく見えなくなる。視界を遮断するように目を閉じると、涙が頬を伝った。真っ暗な世界で、もういっそこのまま気を失ってしまいたいと、そう思った時だった。

 ドアがノックされ、そのままガチャン、と開いて。

「あ」

 翔音を除く三人が、開いたドアの方を見て固まった。

「————控え室にお戻り下さい」

 静かな、低い声が響いた。

 ————この、声は。

「はーい。…じゃ、またあとで」

 身体を締め付けていた不快な熱が離れていく。

 翔音は、は、とようやく息を吐き出した。

 ————寒い。

 ぎゅっと自分の身体を抱き締めるが、寒さは和らがない。

 苦しくて、気持ちが悪かった。身体に力が入らなくなり、その場に蹲りそうになった時だった。

「翔音くん」

 心地の良い柔らかな声に、名前を呼ばれる。

 顔を上げた。その瞳と、目が合って。

 ————あ…

 助けて欲しい、と思った。

 声も出せないほどに怖くて、心細くて、苦しくて。救いを求めて、よろりと一歩足を踏み出す。

 ふわりと、温もりに包まれた。

「大丈夫…もう、大丈夫ですよ」

 優しい声色に、凍りついていた思考が温かさを取り戻す。

 ————澄睦さんだ

 安堵が、胸に広がった。

 ゆっくり息をするよう言われ、その言葉にただ従う。

 目を閉じ、包み込んでくれる温もりだけに意識を集中させて、深く息を吐いた。


     * * *


 ドアを開けてその光景を目にした時、一瞬目の前で何が起きているのか分からなかった。

 後ろから羽交締めにされている翔音の、胸元に伸ばされた手。衝撃に頭を殴られたような心地がして————次に襲って来たのは激しい怒りだった。

 怒鳴り声を上げそうになったのを、どうにか堪え、ただ彼らを静かに咎めた。

 おそらく、彼らは翔音の男性恐怖症を知っていて、故意に翔音に手を出したのだと、その表情を見た瞬間に分かってしまった。そして本当にそうだった場合、ここでマネージャーである自分が感情的になると翔音の弱点をより強調してしまう。翔音を守るためだと自分に言い聞かせることでどうにか冷静さを取り戻し、ただ淡々と声を掛けた。

 彼らはすぐに翔音を解放したものの、まるで悪びれず、控え室を出て行った。

 この件については後で必ずマネージャー宛に報告をしなければと思いながら、立ち尽くす翔音に駆け寄って。

「…っ」

 怯えを露わにして浅く呼吸を繰り返すその姿に、背筋が凍った。涙の跡もある。どれほど怖い思いをしたのかが伺えて、目の前が赤く染まるほどの怒りを覚えた。

 安心させたい一心で、咄嗟に手を伸ばして————しかし、触れる直前でぴたりと動きを止めた。

 ————触れても、いいのだろうか。

 さらに恐怖を与えてしまうかもしれない。それだけは、何としても避けたかった。「…翔音くん」

 そっと名前を呼ぶ。ぴくりと翔音が反応を示し、恐る恐る顔を上げて。

 目が合う。

 その瞬間、翔音の顔が、泣きそうに歪んだ。

「っ…」

 その顔を見た瞬間、たまらずその震える身体を抱き寄せる。

 すると、擦り寄るように、翔音も身を寄せた。

 怖がられなかったことにほっとして、その身体をしっかりと抱き締めた。

「大丈夫…もう、大丈夫ですよ」

 努めて優しく声を掛ける。

 その心が一刻も早く安寧を取り戻せるようにと願いながら、大丈夫、と耳元で繰り返した。

 呼吸が浅くなっている翔音にゆっくり息をするよう囁けば、素直にそれに従う。懸命に息を整えようとする翔音の頭を撫でながら、声かけを続けた。

「一旦、座りましょうか」

 翔音は小さく頭を縦に振る。冷たい汗に濡れた手を取って、肩に手を添えたまま椅子の方へ導いた。

 翔音をゆっくり椅子に座らせ、自分も隣に座る。呼吸はだいぶ落ち着いてきたものの、未だその身体は少し震えており、胸が痛んだ。

「…」

 澄睦は、何も言わずにひたすら翔音の背中を撫で続けた。顔を胸元に埋めているため、その表情は見えなくて不安になる。

 ————相当、辛かったんだろうな。

 最近は症状がかなり落ち着いていたのにと、悔しさに歯を食い縛る。くだらない悪意でこれまでの翔音の努力を踏み躙った彼らのことが、心底許せなかった。

 怒りを吐き出すように、細く長く息を吐いた。

 しばらくそうしていると、ガチャリとドアが開いた。

「!」

 澄睦はぱっとその方を向く。

「え…」

 そして、そこに立っていた湊と創と、目が合った。二人は数秒呆然とした後、湊の方が眉を吊り上げて口を開き。

「っ、何して————」

「湊、待って」

 しかし、すぐに創に止められる。

 そして改めて翔音の様子を見て、息を呑んだ。

「翔音…?」

 何が、と震えた声を漏らした湊に、澄睦は言葉に迷いながら伝える。

「オリオン・レッドの方々が…翔音くんの事情を、知っていたようで」

 翔音の耳には入れたくなく、具体的なことは話せなかった。しかし、言葉足らずな説明でも何があったのかを大枠察したらしく、二人は愕然と目を見開いた。

「…悪趣味すぎる」

 苦虫を噛み潰したような顔で、湊が呻くように溢す。

「翔音くん」

 湊と創の方が落ち着けるだろうと、そっとその肩に手を掛け、優しく名前を呼んだのだが。

「…」

 翔音は動こうとしない。そして、そこで初めて、ぎゅっとシャツを握るその手に気付いた。

「…!」

 翔音は、まるで縋るように澄睦のシャツを握り締めていた。それを解くのは気が引けて、どうするべきかと悩んでいると、湊が静かに口を開いた。

「…落ち着いたら、連絡下さい」

 どうするかも含めて、と言われ、はっとして時計を確認する。

 ————本番まで、あと二十分。

 あと十分以内で復活できなければ、番組に出るのは諦めなければならない状態だった。

 じゃあ、と再び出て行こうとする二人に、あ、と澄睦は声を掛ける。

「接触はダメですよ」

「もちろん。分かってますよ」

 澄睦からの注意に、湊はさらりと返して部屋から出て行った。

 ————要らない心配だったかな。

 これまでのコミュニケーションの中で、意外と感情的なところがあると知ったので伝えたのだが、杞憂だったと思い直す。感情的と言っても、基本は思慮深い人たちだ。翔音のことを思うという意味でも、これ以上問題を大きくしたりするような真似を、二人がするはずはなかった。

「…」

 ————さて…タイムリミットまでに、話が出来るといいけれど。

 無理にステージに立たせる必要は無いと思っていた。時間に関わらず、自然と落ち着くのを待とうと決めて、腕の中に居る翔音をただ黙って抱き締め、その身体を撫で続ける。

 そして、数分が経って。

 ずっと動かなかった翔音が、もぞ、と動いた。

「…大丈夫ですか」

 優しく問いかけつつ、抱擁を解く。

 翔音はゆっくりと身体を起こすと、澄睦の方を見ないまま頭を下げた。

「すみません、でした」

 掠れた声。ショックからは抜け出したが、今はまた別の感情が翔音の心を蝕んでいるのが見て取れた。

「翔音くんが謝ることは何も無いですよ」

 あれは完全にあちらが悪い、そう伝えたものの、翔音は首を縦には振らなかった。

「…自分が弱くて、嫌になります」

 俯く表情は暗い。

「確かに、悪いのはあっちかもしれません。でも、何も出来なかった俺にも、問題はある…」

 所詮はただの悪ふざけでしかなかった。暴力を振られたわけでもなし、もしあそこで自分が冷静に振り払えれば、それで終わる話だった————そう、淡々と語る。

 しかし、そう対処出来なかったのも、決して翔音の弱さが原因なわけではない。全ては、翔音に恐怖を植え付けた前任者のせいなのだ。

 ————いつもいつも、この子ばかり、傷つけられ、苦しめられる。

 澄睦は翔音から見えない位置で、強く拳を握った。

「…もっと、強くなりたい」

 翔音の声が、感情的に震える。

「翔音くんは、もう十分過ぎるほどに強いと思いますよ」

 あんなことがあっても、この世界に戻って来た。恐怖心を封じて、どんな現場でも完璧にやり通した。コンプレックスと本気で向き合って、世間に認められるものを作り上げた。

 これらの結果は、間違いなく翔音の強さがもたらしたものだと、心から思っていた。

 しかし、翔音は澄睦の言葉を慰めとしか受け取らず、俯いたまま続ける。

「湊やそうちゃん、澄睦さんにも…いつもいつも、俺は誰かに守られてばかりで、そうしないと、活動すらまともに出来なくて」

 そんなことはないと、否定したい気持ちでいっぱいだった。しかし、どう伝えれば翔音の胸にちゃんと響くのか分からず、言葉を探す。

 ————二人も、翔音くんに救われたことはたくさんあるはず。

 僕にとってもそうだったように、と心の中で呟いて、話をする。

「翔音くんが居ることで上手く行ったことや、元気になったこと、心が楽になったこと…たくさんあると思います」

 周りから見ても、翔音の存在が二人にとってどれだけ大きいかは明らかだった。しかし、未だ翔音が晴れない顔をしているので、澄睦は穏やかな声で続けた。

「実際————この間、高宮くんを守ったじゃないですか」

「え?」

 翔音は顔を上げて、ぱちりと瞬きをする。

 ようやく目が合ったことにほっとしながら、澄睦は柔らかく微笑んだ。

「南くんの事件の時、高宮くんを守ったのは翔音くんでしょう」

「あれは…でも」

「誰に聞いたって、あれは翔音くんが守ったと言うと思いますよ」

 強く繰り返すと、翔音は困った顔をして押し黙った。

 それに、あの時、誰も怪我無く済んだことは、湊の心も守ったと言える————そこまで伝えて、ようやく翔音は飲み込んだように頷いた。

「それに…誰かに守られるということ自体も、そんなに悪いことではないと、僕は思っています」

 水面のように揺らぐ空色の瞳を、じっと見つめる。

「誰かを守るというのは、そうした方にとっても、決して悪いものではないですし」

「?」

 少し回りくどい言い方をしたせいか、翔音はこてんと首を傾げた。

「さっき…守られてばかりだ、と言った時、僕の名前も上げてくれましたよね」

 はい、と翔音は頷く。いつもの素直な様子に戻り、ほっと胸を撫で下ろした。

「翔音くんを守ることが出来ていたのなら、それは僕にとってとても嬉しいことなんです」

 誰かを守ることは、存在意義や誇りになる。守った方にだって得は十分にあるのだと伝えたかった。

「…澄睦さんには、たくさん、本当にたくさん守ってもらいました」

 翔音はそっと目を伏せる。

「俺の面倒な症状にも寄り添ってくれて、そばでずっと支えてくれて」

 それがマネージャーの仕事なのだから、当然だと思っていた。ただ、前任者のせいで、翔音はそれを知らなかったというだけで。

 ————だから、僕は特別なんかじゃない。

 そう言い聞かせなければ、押し殺したものが溢れそうだった。

「さっきも…もう何も考えられなくなって、目の前が真っ暗になった時に、澄睦さんが助けに来てくれて」

 翔音は胸に手を当てる。そして、伏せていた視線を上げた。

「いつも、本当にありがとうございます」

 ————邪な感情さえなければ、このお礼も喜んで受け取れたんだろうな。

 澄睦が自分にとって危険な存在かもしれないなどとは、微塵も思っていない純真な瞳。それを受け止めることさえも罪深く感じながら、澄睦は静かに言葉を返した。

「…こちらこそ。たくさんの夢を叶えてくださり、本当にありがとうございます」

 まるで別れの挨拶でもしているような気持ちになる。まぁ、タイミング的にもあながち間違ってもいないか、と心の中で溜め息を吐いた時だった。

「あ…! まずい!!」

 どうしたのだろうと、その視線の先を追えば、そこには掛け時計があって。

 ————え…。

 もしかして、と思いつつ、俄には信じられない気持ちで急に慌て出した翔音を見守る。

「ちょっと急がないと…! 本番まであと十分しかないですね!」

「っ…!」

 ————本番に、出るつもりなのか。

 当たってしまった予想に驚き固まる澄睦をよそに、翔音は鏡の前に立つと、はだけさせられた胸元を、しっかりとした手つきで淡々と直して行った。

「…」

 あんなことがあって、あんな状態にまでなってしまったのに、迷わずステージに上がることを選ぶ————これを強さと言わず、なんと言うのか。

 一人の人間として、その強さや、プロとしての姿勢は惚れ惚れするものだった。澄睦は熱を吐き出すように、ほうっと息を吐く。

「そういえば、二人はどこまで行っちゃったんだろう」

 そんな澄睦には全く気付いていない翔音が、何気なく呟く。

「どこ…かは分かりませんが、連絡を入れますね」

 スマートフォンを取り出して湊宛にメッセージを打っていると、鏡を覗き込んだまま翔音が小さくぼやいた。

「飲み物買いに行ったの、だいぶ前な気がするけど…」

「飲み物?」

「はい、飲み物欲しいって出て行ったんです。その、あの人たちが来る前に」

 ————もしや、二人が来たのに気付いていなかった…?

 気が動転していたから記憶が曖昧なのだろうか。不思議に思いながら告げる。

「さっき、ここには戻ってきましたよ」

「えっ、さっき?」

 翔音がぱっと振り返る。「はい、十分前くらいに」と言うと、ぽかんとした顔で固まった。

 ————本当に気付いてなかったのか…。

 いやしかし反応はあったような、と思いながらその時のことを話してみる。

「二人が来た時、離れるのを拒んだので…てっきり、二人には見られたくなかったのかなと思ったのですが」

 翔音は数秒考え、それからその時のことを思い出したようで、上擦った声を出した。

「あ、あれは…」

 ほんのりと顔を赤らめ、若干気まずそうに視線を逸らす。

「その…ただ、引き剥がされるのが嫌で…澄睦さんから離れたくなくて…」

 ドクン、と心臓が大きく鳴った。

 可愛らしい言葉に、愛おしさで胸がいっぱいになる。いっそ苦しいほどの思いに澄睦は唇を引き結んだ。

「だから、二人には気付いてなくて…」

 はは、と照れくさそうに笑いながら言った翔音に、澄睦は深くため息を吐いた。

 ————本当に…人たらしというか、なんというか…。

 とりあえず湊にメッセージを送信する。翔音の状態は安定したことと、予定通り番組には出ると送ると、すぐに了承の返事が返された。


「じゃあ、行ってきます!」

 すっかり元通りになった翔音は、元気よく手を振った。

「行ってらっしゃい」

 翔音に危害を加えた彼らと同じステージに向かわせるのは不安もある。しかし、彼らが決めたことは応援したかった。

 ————南くんと高宮くんと…何より、翔音くんを信じよう。

 収録が始まる。生放送の歌番組のため、絶対に問題は起こせない。手に汗を握りながら、ただ本番を見守った。

 デライト・メアリーの順番を待つ。一度CMを挟んで、その後が出番だった。

 司会からのインタビューに、いつも通りにこやかに答える三人。翔音の様子も普段と変わりない。

 スタンバイお願いします、と言われて、三人は席を立ちステージに向かう。

 きっと大丈夫だと、そう、信じて。

 準備が整い、スタッフから完了の合図が出される。

 ————始まる。

 スポットライトが三人を照らす。聞き慣れたイントロが流れ出して、マイクを手に息を大きく吸って。

「…————っ」

 踊り歌う翔音の姿に、澄睦は息を呑んだ。

 あまりに完璧なパフォーマンスだった。不調など微塵も感じさせないその様子に、胸が燃えるように熱くなって。

 この輝きを、守りたいと思った。

 そのために、自分が出来ることは。

「…」

 ————あの子の手を、離すことだ。



 話があると、翔音を会議室に呼び出した。

 ここまでおよそ一ヶ月、ようやく全ての手筈が揃った。翔音のマネージャーとしての業務をしながら移行の準備を整えるのは本当に骨が折れた。

 しかし、これでようやく全てに終止符が打てる————そう思うとほっとするところはあったが、やはり終わってしまうということ自体は胸が張り裂けそうなほどに寂しく、気を抜くとすぐに表情が曇ってしまう。色んな感情が、胸の中で複雑に絡み合っていた。

「お疲れ様です!」

 時間通りに部屋にやってきた翔音は、当然何の話かも知らないので、いつも通り元気が良く、朗らかで。

「…お疲れ様です」

 これからの話で、その表情がどう変わるかと思うと気分が沈んだ。

 ————少なからず、ショックは受けるだろうな…。

 信頼を裏切る行為だと取られても仕方ないと思っていた。おそらく簡単に飲み込んでももらえない。しかし、どんな反応をされようと、この決断を押し切る覚悟だけは決めていた。

「今日は、マネージャーの件でお話しがありまして」

「はい?」

 きょとんとした顔をする翔音。つきりと痛む胸を抱えて、澄睦は努めて冷静にそれを口にした。

「来月から、別の方に引き継ぎを行います」

「…え?」

 翔音の表情がぴしりと固まる。

「え、と、誰の、マネージャーですか」

 上擦った声には動揺が表れていた。

 澄睦は意を決して、しっかりと翔音の目を見て言った。

「あなたのです」

 翔音の目が、大きく見開かれる。は、とその唇から一つ息が溢れた。

「どうして、そんな急に…」

「急な通達になってしまったのは申し訳ないです。調整の都合で、今日になってしまって」

 事務的に、感情は出さず、淡々と。澄睦は翔音の揺らぎを物ともせず、強引に話を進める。

「引き継ぎ先は、女性アイドルグループ『リリー・トラック』に所属するメンバーの一人を担当してらっしゃる女性マネージャーです。日山さんの同僚で私よりも業界歴も長いですし、安心してお任せ出来ると思っているので————」

「ちょ、ちょっと待ってください、どうしてそんな話になったんですか」

 翔音は澄睦の言葉を遮ると、きゅっと眉を寄せ、懇願するように言った。

「俺は、澄睦さんがいいです」

「…」

 ————そう思ってもらえただけでも、身に余る幸せだな。

 表情は崩さず、心の中だけでその幸福を噛み締める。真実を伝えられない以上、突き放す以外に選択肢は無かった。

「これは、最初から予定されていたことなので」

 分からないフリをして、澄睦はただ言葉を押し付ける。

「引き継ぎ先の方、本当に良い方なので心配することは無いかと」

「そう、じゃなくて…」

 翔音の声が震える。

「こんなこと、誰が決めたんですか」

 ————薄情者に、ならなければ。

 想定内の質問に、正直に答える。

「私から提案して、決定に至りました」

「…っ!」

 翔音の顔が悲しげに歪む。ナイフで貫かれたような痛みが走り、見ていられずに目を伏せた。

「…来週から、引き継ぎ期間とさせていただきます。顔合わせの日程は調整中なので、決まり次第ご連絡します」

 ボロを出さないように、荷物をまとめてその場を去る準備をする。

 愕然としたまま動かない翔音に、最後に声を掛けた。

「突然のことで驚かれているとは思いますが…決して悪いことではないと思っています」

 お先に失礼します、と言って、翔音が何も言えないうちに、逃げるように部屋から出て行く。

 ————きっと、傷つけてしまったな。

 こうなってしまうことは避けようがないと分かっていた。しかし、いざ目の前で翔音の傷ついた顔を見ると、胸が苦しくて堪らない。

 しかしこれでようやく、彼を守れたと言える。それだけが唯一、確かに誇れることだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る