アトラクトノート
ゆるり
第1話
照明が落ちる。色とりどりのペンライトが激しく揺れて、歓声が上がる。
静かなイントロが流れ出した。歓声はさらに大きくなるが、スモークで白く霞んだステージにはまだ何も見えない。
息を呑むほどの緊張と、胸が張り裂けそうなほどの期待感。
————始まる。
そしてついに、スモークの向こう、ステージの奥から、まばゆいスポットライトが彼らを照らして。
そのシルエットを見た瞬間、膨らんだ緊張と期待が、胸の中で鮮やかに弾けた。
まるで風船が弾けるように、クラッカーの紐を引いた瞬間のように。
ついに花開いた興奮が、全身を駆け巡る。
目が離せない。息をするのも忘れてしまう。思考の全てが、目の前の輝きに奪われる。
————すごい、すごい。
マイクを通して響き渡る歌声が、身体中に響く。ステージの上に居る彼らの、繊細で大胆な動きに魅せられる。手を振って、ポーズをして、眩しいほどの笑顔を振り撒く姿を見たら、自然と涙が出てきて。
————いつか、俺も、こんなふうに。
夢を胸に刻む。
いつまでも、色褪せることなく————。
薄暗い部屋に目覚ましの音が鳴り響く。
ゆっくりと瞼が開かれ、空色の瞳が覗いた。彼は見慣れた自室の天井を見上げて、ぽつりと溢す。
「……夢…」
寝転がったまま、単調な音を鳴らし続けるスマートフォンへ手を伸ばしてアラームを止める。癖のある黒髪をぐしゃぐしゃと混ぜながら、今し方見ていた夢を振り返った。
————初めてライブに行った時のこと…を、色々と脚色した夢、だったな。
再び目を閉じると、瞼の裏に正しい思い出が蘇ってくる。
幼い頃、六つ上の姉に連れられて行ったアイドルのライブ。姉がよく家で彼らの曲を流していたので、辛うじて数曲は知っていた。逆に言えば、その程度しか知らないアイドルだった。
だから、始まる前に期待感なんて無かった。ただ、異様に会場全体が熱を持っていて、初めての空気感に戸惑ったことだけはよく覚えていた。
————これから何が始まるんだろうって、あの時はちょっと怖かったんだよな。
それから幕が上がって、彼らの姿を見て————そこで初めて、感動を覚えた。
その瞬間のことは、今でも色鮮やかに思い出せる。歌い踊る彼らの姿を思い浮かべるだけで、心がふわりと舞うような心地がした。
それが、アイドルを好きになった瞬間だった。
純粋で真っ直ぐな思いが蘇る。憧れが強く心を揺さぶった。
身体の真ん中に火が灯るような感覚。目を瞑って、胸に手を当てて、その思いを言葉にする。
————やっぱり、俺はアイドルがやりたい。
きっとこの先もこの思いだけは揺らがない。そんなことは、わざわざ確認するまでもないことではあった。
けれど、歩みを再開するには、もう一度強くその気持ちを奮い立たせる必要があって。
「…よし」
布団を跳ね除けるようにして、彼はベッドから勢いよく起き上がった。
着替えを済ませて階段を降り、そのまま洗面所に向かう。
前髪をクリップで留め、顔を洗う。タオルで優しく水気を拭って顔を上げたところで、鏡越しに映る彼女と目が合った。
びくりと肩を振るわせたのと、彼女が後ろから抱きついて来たのは同時だった。
「かーのんっ!」
「うわっ…ちょっ、姉ちゃんやめて…!」
翔る音と書いて、翔音。音楽家の両親が彼に名付けたそれは、翔音自身も気に入っている名前ではあった。
「俺のことまだ小学生だと思ってない?!」
わしゃわしゃと頭を撫でられ、翔音は煩わしげに声を上げる。しかし、嫌がる素振りを見せつつも彼女を振り払ったりはせず、されるがままになっていた。
「こーんなおっきくて小学生なわけないじゃーん。ほんとおっきくなったよね〜」
数年前に姉を追い越し、今や十五センチ以上差があった。背伸びをしながら自分に戯れてくる姉をうんざりした顔であしらいつつ、翔音はリビングへ向かう。
姉もその後についてきて、二人はキッチンに並んでそれぞれ朝食の準備をした。姉がトースターでパンを焼く隣で、翔音は冷凍してあったご飯をレンジに入れ、冷蔵庫から牛乳を取り出す。
「相変わらず変な食べ合わせ〜」
「いいでしょ別に…」
「身長まだ伸ばしたいの?」
「高くて損することないからね」
すでに平均よりは高いはずだったが、周りの人達と比べると低い。コンプレックスというほどではないが、もう少し伸ばしたいという気持ちはあり、牛乳は毎日欠かさず飲むようにしていた。
「父さんと母さんは?」
「お母さんはもう仕事行ったよ〜。お父さんは今日はお休みだから買い物行った!」
電気ポットに水を入れてスイッチを入れる。ティーバッグの入った缶を開け、今日は何にしようかと選びつつ問いかけた。
「姉ちゃんは? 仕事?」
「うん、在宅で仕事。翔音は? 今日は学校?」
にこにこと尋ねる姉に対し、翔音は首を振って答える。
「ううん。もう受験終わるまで通常授業はないから…今日は、ジム行こうかな」
高校三年生の一月。多くの学生にとっては、大学受験を目前に控える大切な時期だった。
「そっか。がんばってね」
何も聞かないのは、姉の優しさだと分かっていた。
————でもきっと、すごく心配かけてる。
ぎゅっと手を握る。決意を胸に、翔音は静かに口を開いた。
「…俺、戻ろうと思う」
「!」
彼女は小さく息を飲んで、それから「そっか」と柔らかく翔音に笑いかけた。
「応援してる」
「うん…ありがと」
チン、とトースターが軽快な音を鳴らした。
* * *
新年を祝う街中の空気。商店街の店は、玄関先に門松やしめ飾りを飾っていた。
見慣れたその道を歩きながら、翔音は自身が吐き出した白い吐息を見て呟く。
「…さむ……」
マフラーに顔を埋めるようにして、早足に目的地へと足を進めた。商店街を抜けてたどり着いた駅前は、たくさんの人で賑わっていた。
駅ビルが建ち並ぶ、車通りの多い大通り。そこに貼り出された大きなポスターに、翔音は小さく息を呑んで立ち止まった。
「…すごいな」
今をときめくアイドル「デライト・メアリー」の新曲リリースの広告だった。
ピンクのクラシカルなスーツに身を包んだ、対照的な雰囲気の二人が微笑んでいる。
一人は、柔らかな目元にふんわりとしたチョコレートブラウンの髪。もう一人は、吊り目にウルフカットのブロンドヘア。穏やかな表情の彼と挑戦的に笑う彼は、纏う雰囲気こそ全く異なるものの、ビジュアルとしてはよくまとまっていた。
翔音は、「7thシングルリリース」の文字をじっと見つめた。
————そっか…そろそろ発売って、言ってたもんな。
寒空の下、翔音はしばらくぼうっとポスターの前に立ち尽くした。
歌ったことのない曲名。着たことのない衣装。唯一、二人の顔だけはよく知ったものであるはずなのに、まるで知らない誰かのように感じてしまう。
街中で二人の顔を見ることも増えた。テレビや雑誌、広告などにも多数起用されている。今や日本にデライト・メアリーを知らない人は居ない。
遠い世界に行ってしまったように思えて、胸がぎゅっと締め付けられる感覚に襲われた。
————本当なら、俺も、ここに。
「デラメアだ〜! 写真撮りたい!!」
「っ!」
すぐそばから聞こえた声に、翔音は思わずびくりと肩を震わせた。
「え、ほんとだ!ねーみんなどっち派?」
五人の女子高校生達が、翔音のすぐ隣で看板を見ながら話を始める。一瞬迷って、しかし結局その場に留まった。
「あたしは断然、湊くん!!」
「そーくん一択でしょ!」
「ん〜選べない〜! どちらかと言えば湊かなぁ。でも創もめっちゃ好き!」
わかるよ、二人ともかっこいいもんね、と翔音は一人心の中で彼女の言葉に同意する。二人が誉められているのを聞くのは、とても誇らしかった。
しかし、マスクの下で翔音が柔らかな微笑みを浮かべた、その時。
「私は…翔くんが一番好きだったな…」
二人しか写っていないポスターを見上げながら、女の子がその名前をぽつりとこぼした。
「っ」
翔と書いて、カケルと読む。翔音の、芸名だった。
「あー…」
一人の女の子が苦笑いを浮かべる。
「やっぱ、もう戻って来ないのかな」
「どうだろね…もう一年以上経つし…」
「あんな可愛い子なかなかいないよ〜結構好きだったんだけどな〜!!」
思い思いに言葉を吐く彼女たち。
「…」
翔音は静かにその場を後にした。
ブー、とスマートフォンが震える。送信者を確認して、翔音は目を見開いた。
送信者は、南湊。まるで図ったようなタイミングに驚きながらメッセージを開く。
『最近どう? 今度、ご飯でも行かない?』
続いて、スタンプが送られてくる。高宮創からだった。犬がひっくり返って喜んでいるスタンプを見て、翔音は小さく微笑む。
「…かわいい」
すぐにメッセージを打ち込んだ。
————二人に、話そう。
日付は合わせるから早めに会いたいと送れば、すぐに返事が返され、すんなりと会う日が決まった。
* * *
先に店に入って二人を待つ。
よく使う完全個室の店だった。店員とも顔見知りで、翔音を見るなり席に通してくれた。
————二人に会うのは、十一月ぶりか。
十二月はクリスマスライブの準備で忙しくて会えていなかった。連絡はこまめにとっているが、直接話をするのは少し久しかった。
二人を待つ間、SNSでグループのことを調べる。
デライト・メアリー。通称デラメア。かつては翔音を含む、湊と創の三人で活動していたアイドルグループ。
SNS上では、リリースしたばかりの新曲についてのコメントが多く目についた。湊のダンスがどうだ、創の歌い方がどうだと、ファンがミュージックビデオの感想を言い合っている。
動画サイトに切り替えて、そのビデオを流した。
————デラメアっぽい曲だな…。
弦楽器の音が光るジャジーなポックソングに、翔音はそっと目を閉じて聞き入る。
デライト・メアリーは、クラシカルをコンセプトにしたグループだった。音楽家の両親を持つ翔音にとって、クラシックやジャズは耳馴染みの良いもので、コンセプトを聞いた時にとても嬉しい気持ちになったのをよく覚えている。新曲は、そのコンセプトをより強く感じられる曲だった。
————この曲を、いつか、俺も…。
突然、ガラガラと勢いよく個室のドアが開いた。
「カノン〜!!」
翔音はぱっと顔を上げる。イヤホンを外し、その声の主を見て顔を綻ばせた。
「そうちゃん!」
創も、八重歯を覗かせてにぱっと笑う。そして、両手を大きく広げると、そのまま翔音に抱きついた。
「元気してたか〜!?」
「わっ、そうちゃん危ない…!」
その勢いにガタンと椅子が揺れ、翔音は慌ててテーブルを掴む。彼のブロンドヘアが頬をくすぐった。
「久しぶり、翔音」
続いて、穏やかな声が掛けられる。ひらひらと手を振る彼に、翔音も手を振り返した。
「湊も! 久しぶり!」
湊はそんな二人のやりとりを微笑ましそうに見ながら、向かいの席に座った。チョコレート色の髪を耳にかけて、そのまま頬杖をつく。
「変わりなさそうで良かった。学校はどう?」
「学校はもう無いんだ。受験直前だから」
「じゃあ最近はずっと家?」
「ランニングしたり、ジム行ったり…あとは形だけ、ちょっと勉強も」
そっか、と湊は微笑んだ。
その間、ずっと翔音を抱きしめている創に、ついに翔音も呆れ声を漏らす。
「そうちゃん、そろそろいい?」
「ん〜もうちょっと!」
「落ち着いて話出来ないから、もうおしまい!」
「え〜久しぶりなのに」
可愛い可愛いと撫で回す創をどうにかあしらい、隣の席に座らせる。
————ほんとに、ずっと変わんないなぁ…。
翔音よりも三つ年上の湊と創は、中学生の時から一緒に活動している翔音にとって頼れる仲間であり、兄のような存在だった。
「新曲、リリースおめでとう」
翔音の言葉に、二人はありがとうと返す。
「MVもかっこよかったし、すごく好きな曲だった」
デビューシングルを思わせる新曲のメロディーが、翔音の頭の中に蘇る。
「やっぱり!」
創と湊は、顔を見合わせて笑った。
「ふふ、翔音の好きそうな曲だねって、創とも話していたんだ」
二人が嬉しそうに笑うのを見て、一瞬、胸が詰まった。
「…うん、好きだった」
————湊も、そうちゃんも…大好きだ。
優しい二人の視線は、翔音に答えを急かさない。自分から話してくれるその時を待っていると、そう暗に言ってくれているような、温かな視線だった。
「注文、しよっか」
湊がメニューに手を伸ばす。
また自分が逃げるのを許す空気になろうとしているのを感じて。
「あ…待って」
咄嗟に、声を上げた。
————今日は、ちゃんと話をするって決めたんだ。
翔音は机の下でぎゅっと拳を握る。そして二人の目を、順番に見つめて言った。
「ごめん、先に話をしていいかな」
息を呑む音がした。
二人はわずかに目を見開いたものの、すぐにいつものように優しく頷く。
「いーよ」
「もちろん」
それでも、空気は張り詰める。翔音が口を開く瞬間を、二人も緊張をあらわにして見守っていた。
息を、深く吸って。
翔音は、決意を告げた。
「デラメアに、戻りたい」
「…!」
二人は、今度こそ目を瞬いた。
そして数秒の沈黙の後、湊が口を開く。
「俺たちとしては、もちろん嬉しいけれど…無理、してない?」
翔音のその心の内を覗こうとするように、湊は翔音の目をじっと見つめて柔らかく問うた。
その視線を受け止めて、翔音ははっきりと答える。
「してない。この一年間…毎日、毎日、後悔してたんだ」
どうして辞めてしまったんだろう。
どうしてあれくらいのことで、耐えられなくなってしまったんだろう。
本当にこの夢を諦めるほど辛いことだった? 苦しいことだった? あれくらい、誰だって経験することなんじゃないか?
何度自問したか分からない。
絶対に味方で居てくれる二人が一緒で、自分を好いて応援してくれるたくさんのファンが居て。
自分は、これ以上ないほどに恵まれていたと、過去の自分の居場所を振り返る度にそう思った。
「…俺が、特別弱かったんだろうなって」
翔音の言葉に、湊は険しい顔をして首を振る。
「それは違う」
そして、翔音に語りかけるように言葉を続けた。
「翔音は何も悪くない。これは翔音の味方だから言ってるんじゃないよ。こういった問題において、被害者側が負うべき非なんて一つも無いんだ」
「そう…かもしれないけれど」
翔音は顔を曇らせる。
事実としてそうであることは納得出来る。これがもし、自分に起きたことでなく、それこそ湊や創に起きたことだったら、と考えてみれば、絶対に二人に非なんてないと言い切れた。
しかし、やはり自分のこととなると、自分の心の弱さにも問題があったのではないかと思ってしまう。
ジレンマを抱いて俯いてしまった翔音を、湊は優しい声で呼んだ。
「…翔音」
顔を上げれば、湊の甘い色の瞳が、優しく翔音を見つめていた。
「ハラスメントは、どうあったって、加害者側が一方的に悪い。それしかないんだよ」
その直接的な言葉に、胸がきゅっと締め付けられた。翔音は唇を引き結ぶ。
グループを離れてから、この話を二人とするのは初めてだった。
————ハラスメント…そう呼んでいいのかも、正直躊躇うほどのことだったけれど。
翔音がアイドル活動を辞めるに至ったのは、前任のマネージャーが原因だった。
初めは、本当に良い人だと思っていた。親身に寄り添ってくれて、たくさん助けてくれて————まだ社会に出るには随分と幼かった齢十四の翔音にとって、彼は一番身近な、頼れる大人だった。
しかし、その信頼が仇となった。
彼の言動や行動に違和感や嫌悪感を抱くようになっても、それをなかなか悪と認められなかった。
プライベートな予定に誘われる度、何気なく身体に触れられる度、嫌だと思う気持ちに蓋をして、ただひたすらに耐えた。
限界を迎えたのは、デビュー三年目のクリスマスライブの日。
ライブ後に二人でご飯に行こうと言われ、もう断るための都合も労力も使い果たして、了承してしまった。
しかし、ライブ本番中も、その後のことを思うと胸が苦しくなって。呼吸が乱れないように必死になりながら、ライブをやり抜こうとした。
しかし、途中で翔音の異変に気付いた湊と創によって、一時袖に引かれてステージを降りた。
『翔音、顔色が悪いよ。次の曲は二人でやるから、一度ここで休んで』
創が一人ステージに残って間を繋ぐ横で、湊はそう言ってスタッフを呼ぼうとした。
どうしたんだと集まってくるスタッフの中に、そのマネージャーが居るのを見た翔音は、湊に縋り付いた。
青白い顔をしながら、大丈夫だから一緒にやらせてほしい、と必死に頼み込む翔音の異様さに、湊は躊躇いながらもその意思を飲んだ。
そしてどうにか最後までライブをやり通し、控え室に戻った瞬間。
翔音は、その場に崩れ落ちた。
スタッフを呼ぼうと立ち上がった創を湊は反射的に止めて、翔音にスタッフを呼んでいいかと問いかけた。案の定、ぶんぶんと首を振るので、過呼吸になりそうな翔音の背中を撫でてどうにか落ち着かせ————そして、そこでようやく翔音の抱えていた問題が明らかになった。
マネージャーからの執拗な誘いや接触がずっと不快だったこと、でもそんなことを思う自分の方がおかしいんじゃないかと思っていたこと、泣きながら翔音の口から吐き出された思いに、湊も創も愕然とした。
二人にとっては、どの話も全くの初耳だった。まさかそんなことが起きているなど露知らず、混乱する頭で懸命に翔音の話に耳を傾けた。
大切な仲間がこんなになるまで一人で抱え込んでいたという事実に少なからずショックを受けながらも、この後に約束を取り付けられているのだと聞き、とりあえずその場には湊が残って、創が翔音を連れ出した。
後日、湊と創の告発によりマネージャーは即刻解雇になったものの、翔音は男性恐怖症を患ってしまった。そして、アイドル活動を続けられる精神状態でなくなってしまったため、無期限活動休止となったのだった。
「…」
————今思い出すと…過剰に反応しすぎだったのかもって、思ってしまう。
触られたと言っても、背中や腰、肩を撫でられただけ。誘われたのだって、ただの食事だったし、断って逆上されたり、嫌がらせを受けたりしたわけでもない。
もしかしたら、彼に悪意なんてなかったんじゃないか。ただ自分が過剰に意識してしまっただけで、問題にするようなことではなかったんじゃないか————どうしても、そう思ってしまう。
「もうあいつは事務所には居ないし、絶対に同じことは起こらないように、俺たちもやれることはやる。だから、翔音が決めたのなら、尊重したいと思う。…でも」
湊の声は優しく、少しだけ震えていた。
「無理だけは、して欲しくないんだ」
「…」
————もう何も気にしていないって言ったら、嘘になる。
今でも彼のことを思い出すと寒気がした。特定の男性以外、たとえ知っている人であっても反射的に恐怖心を抱いてしまうことがあった。そう簡単に拭い去ることは出来ない記憶として刻まれてしまっているのだと、嫌でも自覚せざるを得ない状況にずっとあった。
————それでも…やっぱり、アイドルがやりたい。
「…ね、カノン」
黙って聞いていた創が口を開いた。
そして、いつもと同じ調子で尋ねる。
「カノンが笑えなくなるくらいなら辞めなって言ったの、覚えてる?」
うん、と翔音は静かに頷いた。
「忘れないよ。そうちゃんのあの言葉に、本当に救われたから」
————そうちゃんがああ言ってくれたから、俺はアイドルを辞める決断が出来た。
恐怖に身動きが取れなくなっても、どうにかしてアイドルを続けなければと追い詰められていた翔音の心に、創のその言葉は強く響いた。
あの時無理して続けていたら、本当に心が壊れていたかもしれない。あそこで辞める決断を促してくれた創には感謝してもしきれない気持ちだった。
その心を覗くように、創は空色の瞳をじっと見つめる。
「じゃあ…今のカノンは、アイドルやって、笑えそ?」
「え…」
アイドルをやって、笑えるか————翔音はそっと目を閉じて、自分の胸に問いかけた。
ステージに立つ瞬間を思い浮かべる。歌って、踊って、会いに来てくれた人に手を振って。
周りには、一緒にデライト・メアリーを作り上げてくれる大人たちがいる。スタッフの中には、当然男性もたくさんいる。
でも、ステージに一緒に立ってくれているのは湊と創だ。いつだって味方で居てくれる大切な二人が、笑いかけてくれるなら。
————俺はきっと、大丈夫だ。
目を開けた。
翔音の答えを待つ二人の顔を交互に見て、決意を口にする。
「怖くなることは、どうしたってあると思う。そのせいで、また二人にも迷惑をかけちゃうかもしれない」
湊は反射的に口を挟もうとして、しかし結局何も言わずに言葉を飲み込んだ。翔音はそんな湊に小さく微笑んでから、続きを話す。
「でも、頑張りたい。またアイドルをやりたい。もう一人じゃ絶対に無理だけど、でも」
胸に夢を描いて、笑顔を浮かべた。
「湊とそうちゃんと一緒なら、きっとたくさん笑える」
その答えに、創はにこりと笑った。
「よし! んじゃ、また一緒にやろ!!」
うん、と湊も優しく頷く。
「おかえり、翔音」
心は晴れやかで、喜びに溢れていた。翔音は二人に向かって手を差し出す。
「うん! またよろしく!」
その手をすぐさま創が取り、繋がれた二人の手を包み込むように湊が両手を重ねた。
三人は目を合わせて笑い合う。
————また頑張ろう。二人と一緒に。
優しい手の温もりを感じながら、希望と不安が混ざり合った夢へ、再び踏み出す覚悟を決めた。
* * *
再出発を決めたその日に事務所へ連絡をした。
事務所の都合もあるだろうし、そう簡単に復帰は出来ないのではと考えていたが、すぐに本格的に活動復帰に向けて事は動き出した。意外だった、と湊と創に話すと、二人は顔を見合わせて肩をすくめ、実はことあるごとに翔音の復帰は望めないのかと事務所から尋ねられていたことを明かした。
自分を待っていてくれた人たちが事務所にもたくさんいる、というのは翔音にとってとても大きかった。気持ちは復帰に向けてさらに前向きになり、一人でも出来ることを始めようと、スタジオをひとりで借りて発声練習やダンス練習などを行なった。
そして一ヶ月もせず、具体的な話が決まったと事務所から連絡が来た。
まずは新しいマネージャーとの顔合わせから、と書かれたメールを見た瞬間は不安に駆られたが、すぐにその思いを振り払って気を強く持つ。
————もう同じことは起こらない、大丈夫。
復帰の連絡をした際に、事務所としても再発防止策はしっかり練っているし、今回の復帰についてはより厳重な体制を敷いていると説明をされた。翔音の一件は社内でも大きな問題として取り上げられているらしいことは確かで、それに少し申し訳なさを覚えながらも、同時に安堵もしていた。
そして一週間後、顔合わせの日を迎えた。
事務所に行くとすでに湊と創が待っていて、翔音はほっとしながら二人に駆け寄った。
「おはよう!」
「おはよう、翔音」
「はよ〜。ちゃんと寝れた?」
創の問いに、うん、と翔音は頷く。
いよいよ活動復帰するんだということへの緊張感はあったが、恐れる心はなかった。それどこか、いざまたアイドル活動が出来るんだと思ったら楽しみの方が大きくて、そのせいで少し眠るのが遅くなってしまったほどだった。
「あ、お集まりですね!」
声が掛かり、三人同時にその方を向く。
「古海さん、おはようございます」
湊のマネージャーだった。
「おはようございます。…大路君、お久しぶりです」
お元気そうで良かった、と微笑む彼に、翔音は頭を下げる。
「ご心配をお掛けしてすみませんでした」
「いえいえ、そんな、頭を下げないでください。本当に…戻ってきてくださり、ありがとうございます」
深く頭を下げた古海を前に、翔音は恐縮する。そんな翔音の背中を、創がぽんと叩いた。
古海に案内され、会議室に通される。そして、少し待っていてくれと、三人で残された。
「…そうだ。ひとつだけ、いいかな」
静かな会議室で、湊が口を開いた。
「これからは、小さなことでも相談して欲しいんだ。マネージャーのことだけじゃなくて…何かあったら、何でも。お互い、不安なく活動を長く続けていくために必要だと思うから」
ね、と湊は翔音を見て微笑む。
それから創の方を向いて言った。
「創も。なんかあったらちゃんと言えよ」
「はいはい。湊もだけどね」
二人の軽い応酬を聞きながら、翔音はしっかりと頷く。
「うん、分かった」
————もう、絶対にこのグループを壊さない。
三人でずっとやっていくんだという強い気持ちを胸に抱く。
守られるばかりは嫌だという気持ちもあったが、グループ存続よりも大事なことなどないと自分に言い聞かせる。守られなければ前に進めないのなら、弱い自分を認めて、守ってもらうことも甘んじて受け入れなければならない。それが、グループのために自分が出来ることだと言い聞かせた。
コンコン、とノックされる。失礼します、と入ってきたのは古海だった。
「これからの話をする前に、まず大路君の新しいマネージャーを紹介させていただこうと思います」
「はい、お願いします」
頷いた翔音に、しかし古海は申し訳なさげに切り出した。
「ただ一点…その、ご了承いただけるか確認したい点がありまして…」
不穏な空気を感じ取り、翔音は唾を飲み込んだ。
「社内で再三調整を行なったのですが、どうしても都合がつかず…一時的に、男性のマネージャーを当てさせていただけないでしょうか」
「なっ…」
声を上げたのは湊だった。すかさず鋭く口を挟む。
「それは話が違います」
古海は困ったように眉を下げる。
「本当に、申し訳ないです。二月から、このスケジュールで動ける人となると、どうしてもその人しかおらず…六月からは、必ず女性マネージャーに引き継ぎを行います」
「…」
————男の人が、マネージャー…。
不安に心が曇る。
けれど、ここで怯んでしまったら前に進めない。いずれにせよ男性恐怖症とは向き合っていかなければ活動も出来ないと、腹を括った。
「…大丈夫です」
湊と創が見守る中、翔音ははっきりと言った。
「これ以上復帰を遅らせたくないので、よろしくお願いします」
翔音はそれぞれに目配せをして、自分は大丈夫だと伝えた。しかし、創は小さく微笑んだものの、湊は険しい表情のままだった。
「新マネージャーにも、事情は説明しています。しっかりと弁えている方なので…と言っても、安心は出来ないと思いますが、我々も全力でサポートさせていただきますので」
「はい、大丈夫です」
————俺には、湊とそうちゃんがいる。
もし本当に無理だと思ったら、すぐに二人に伝えればいい、そう思うと少し気が楽になった。
「では、呼んできますので少々お待ちください」
古海は会議室を後にした。
「…本当に大丈夫?」
扉が閉まるなり、すぐさま湊が尋ねる。
「うん。とりあえず、一緒に頑張ってみる。無理そうだったら、ちゃんと言うよ」
翔音が躊躇いなく答えたことに安堵したのか、湊もようやく表情を和らげた。心配そうな色はそのままだったが、それ以上口を挟むことはなかった。
間もなくして、再び扉がノックされる。
緊張が走った。どくどくと鳴る鼓動を感じながら、翔音は生唾を飲む。
「失礼します」
古海のものではない、落ち着いた声。
扉が開く。
そして、古海と共にそこに現れた人物を見て。
————あれ、この人…どこかで…?
古い記憶が掘り起こされる感覚。
柔らかなミルクティー色の髪を後ろで一つに縛った彼のその姿を、翔音は呆然と見つめる。
彼は会議室に足を踏み入れると、翔音の前で立ち止まって名刺を取り出す。
「初めまして。大路翔くんのマネージャーをさせていただきます————」
そして、その名を口にした。
「御崎澄睦と申します」
みさき、すみちか————その音を、脳内で繰り返して。
「す、澄睦?!」
翔音は大声を上げた。
「えっ?」
「はっ?」
両隣の二人が素っ頓狂な声を上げて、そこではっとする。
「あっ…」
翔音の頬がかっと染まる。そんな翔音に、湊が上擦った声で問いかけた。
「し、知り合い…?」
「ごっ、ごめんなさい! 違います!」
真っ赤になりながら翔音は早口に謝罪し、それから名刺を差し出した彼に恐る恐る尋ねる。
「あの…リバーブの、方…ですよね…?」
幼い頃、姉に連れられて行ったライブ。彼は、そのグループの一人だった。さらに姉が推していたまさにその人だったため、当時は澄睦という名前をよく家で耳にしていたのだった。
切れ長な瞳が、僅かに見開かれる。
「…よく、ご存知ですね」
それから、にこりと微笑んだ。
「確かに、リバーブのメンバーでした。もうずっと前のことなので、驚いてしまいました」
リバーブはデビュー当時爆発的に流行ったものの、二年足らずで解散となったアイドルグループだった。姉が大騒ぎしていたので、澄睦が辞めた時のことも翔音の記憶には深く残っている。
「姉がその、澄睦さんが好きで…ライブにも、行ったことがあるんです」
気持ちはとても高揚していた。
————まさか、こんな思い出深い人に出会えるなんて…!
しかし、興奮でいっぱいになっている翔音に対して、澄睦は同じ笑みを浮かべたままただ一言返した。
「それは嬉しいです」
あれ、と少し肩透かしをくらったような気持ちになる。
どんな反応を期待していたのかと言われると具体的には出てこないものの、もう少し盛り上がってもいいのではないのかと思ってしまう。
「これから四ヶ月間、よろしくお願いいたします」
差し出された名刺を受け取る。
そこに書かれた「御崎澄睦」の文字を見ながら、翔音も挨拶を返した。
「…こちらこそ、よろしくお願いします」
それから、今後のスケジュールについて説明が行われた。
復帰タイミングは、次の五月に控えている四周年ライブのアンコール。完全サプライズでステージに立つというものだった。
練習スケジュールや、活動開始に向けての仕事についての話をして、今日のところは解散となった。
「…あ、ごめん、俺ちょっと古海さんに話があったんだった」
事務所を出て行こうとしたところで、湊が立ち止まる。
「おっけー。じゃ、カノン一緒に帰ろ」
「あ、うん」
二人を見送って、湊は速やかに事務所に戻る。
そして、その姿を探し、声をかけた。
「…御崎さん」
振り向く動きに合わせて、長い髪が揺れる。
「少し、お話いいですか」
湊を見て、澄睦は何かを察したようにすぐ快諾した。
「もちろんです」
二人で会議室に入る。席に着くなり、湊は話を切り出した。
「翔音————翔のことで、お伝えしたいことがあります」
澄睦は穏やかに頷く。
「はい、ぜひ伺えればと」
人の良さそうな笑顔に、湊は若干調子が狂わされるのを感じながらも、毅然とした態度を崩さず話を始める。
「翔に何があったかは、ご存知ですよね」
「はい。事務所側が知る限りの経緯は把握しています」
「なら聞いているとは思いますが…翔は、男性恐怖症です」
澄睦は何も言わずにただ相槌を打った。
「本人にあまり具体的なことは聞かないようにしているので、これは側から見ていて勝手に推測しているだけですが、おそらく俺たちと、家族以外の人はその対象になるのだと思います」
外で信号待ちをしている時に、知らない男が少し近くに立っただけで、その身体がぎこちなく強張るのを見た。
たまたま同じ事務所に所属している男性俳優と会って言葉を交わした時、手を伸ばせば触れられるほどの距離に近づかれた瞬間、顔を引き攣らせたのを見た。
知らない人は近くに来るだけで、知っている人でも、一定以上距離を詰められると恐怖を覚えるのだと知った。
相手が自分に危害を加えようとしている存在かどうかは関係なく、ただ男だというだけで恐怖心を煽られてしまう————それが恐怖症というものなのだと理解して、胸を痛めた。
「翔音の男性恐怖症を煽らないために、守って欲しいことがあるんです」
優しく素直な翔音は、きっとそういうことがある度に自分を責めてしまうのだろうと思った。
相手に悪意を向けられているわけでもないのに、勝手に恐怖を感じてしまうという状態自体が、彼の心を蝕み、疲弊させる。
翔音が少しでも安心して過ごせるようにと願いながら、湊は澄睦に話を始めた。
「まず…翔の体には、どんな形であれ絶対に触れないでください」
「はい」
「手が触れられる距離にも近づかないでください。あと、翔が気付いていない状態で話しかける時は、少し遠くから声を掛けてあげてください。それから————」
翔音が前回のマネージャーにされたことや、この一年間の翔音の様子を思い出しながら、湊は淡々と注意点を並べていく。
およそ五分ほど、その注意は続いた。
「————これらを、守っていただきたいです」
「はい、分かりました」
即答した澄睦に、湊は若干面食らう。
澄睦は、口も挟まず、終始真剣な顔で湊の話を聞いていた。事務所からも同じようなことを散々言われているだろうに、煩わしさの欠片も見せずに。
「南くんからお話が聞けて良かった。ありがとうございます」
挙句、人当たりの良い笑みを浮かべて柔らかに言った澄睦に、湊は御崎澄睦という人物について考えを巡らせた。
少なくとも、表立って悪いところはない人だった。古海も太鼓判を押していたこもあるし、事務所としてももう同じ過ちを犯すわけにはいかないだろうというところも踏まえると、慎重に検討した結果選ばれた人ではあるのだろう、と。
もし例の一件が世に出ていたら、事務所は世間に袋叩きにされていただろう。公表しないことを望んだのは翔音自身で、彼への負担を思うとその選択自体は正しかったとは思っているものの、事務所には重く事を受け止めてもらいたいと思っていた。
「…翔が活動に集中できるよう、ご協力をお願いします」
湊の言葉に、はい、と澄睦は目をしっかり見つめて頷いた。その真摯な瞳に、湊は僅かな希望を見出す。
この真面目な様子や、彼がリバーブのメンバーだったことから、彼を信頼してみてもいいかもしれないという考えが浮かんだ。リバーブというアイドルグループについて、湊はあまり詳しくなかったが、翔音がアイドルを目指したきっかけだという話は何度も聞いている。
これも、何かの縁かもしれない————そんな予感に導かれて、湊は静かに口を開いた。
「…色々、言いましたが」
ここから先は自分のエゴだと自覚しながら、湊は言葉を紡ぐ。
「翔と、距離を置いて接してほしいわけではないんです」
「…?」
これまでの話と相反する発言に、澄睦は少し首を傾げた。
「ただ、適切な距離を保ってほしいというだけで…変に壁は作らず、あの子を支える一人の大人として、親しみを持って接してもらえたらと、思ってます」
翔音を大切に思ってのことではあるが、これは湊自身の深い後悔ゆえの願いだった。
なぜ気付いてやれなかったのか。一人で全部抱えさせてしまったのか。
あんなにそばにいたのに。毎日顔を合わせて、一緒に笑っていたのに。
翔音が泣き崩れるその時まで、彼を二年以上も苦しめていた凶悪なものに全く気付いてあげられなかった。何度悔やんでも悔やみきれず、自分が翔音のためにしてやれることは何だろうと、この一年間ずっと考えてきたのだった。
「翔音が安心して信頼出来る大人を、増やしてあげたいんです」
本来頼れる存在であるはずの大人が脅威の対象になってしまった。素直で真っ直ぐな翔音の長所を逆手に取ったようなやり口には反吐が出る。まだ中学生だった翔音にとって、それがどれほどショックなことだったか————その心中を思うと激しい怒りとやるせなさを覚えた。
自分を思ってくれる大人に出会えたら、患ってしまった恐怖症も少しは和らぐかもしれない。そう思っての、お願いだった。
「…分かりました」
湊の言葉に、澄睦は静かに頷く。
「支えになれるよう、尽力します」
「…よろしく、お願いします」
今度こそ、翔音の笑顔を消さないように————深い懺悔とともに、決意を胸に刻む。
協力はお願いしたが、澄睦のことも手放しに信じるつもりはなかった。湊は淡く光る澄睦の凪いだ瞳を見つめた。
* * *
五月の周年ライブに向けての練習が始まり、翔音の生活は一気に目まぐるしいものへと様変わりした。
ステージで披露するのはアンコールの二曲のみだったが、居なかった一年の間に増えた曲や、既存の曲の練習も今のうちにしておこうということになり、みっちりとレッスンのスケジュールが組まれた。
休止していた間、知らない新曲がリリースされる度に、いつか戻る時のことを考えて一人で練習をしようとした。しかしその度に、こんな弱い自分が戻れる日なんて来るのかという虚無感に苛まれて、何も出来なくなるということを繰り返していた。
その時のことを思い出して、翔音はひとりため息を吐く。
————本当に、なんでこんなに弱いんだろうな…。
更衣室でレッスン着に着替えながら、顔を曇らせた。少しでもやっておいたらこんなに大変じゃなかっただろうに、と自分の至らなさに気を落とす。
支度を済ませて更衣室を出た。二人は別の仕事があるため、今日のレッスンは翔音ひとりだった。
「よろしくお願いします!」
「はい、よろしくね。まずは昨日の復習からしましょう」
レッスンが始まる。
振りは覚えられる。身体も動く。
————でも、これじゃただ動きが合ってるだけだ。
過去の感覚には程遠かった。鏡の中の自分が、とても鈍く映る。イメージする動きとは、全く異なって見えた。
歌もそうだった。歌詞は当然覚えているし、音程を外したりもしない。しかし歌いたいと思っている歌とは違う。
描く理想には全く届かない自分の実力に、焦りは積もるばかりだった。
そしてそれは、湊と創と一緒にやっているとさらに強く感じる。
————もっと、もっと練習しなきゃ。ただでさえ、二人よりも俺は未熟なんだから。
歌の上手い創と、ダンスの上手い湊。自分は、どちらも可もなく不可もなくで、特別優れてはいない。強みが無い以上、せめてプロとしてのクオリティは満たさなければと、三人で活動をしていた時からずっと思っていた。
そこからさらに、今は一年以上もブランクがある。二人と並んでステージに立つに相応しいパフォーマンスが出来るようになるには、並大抵の努力では足りないと、翔音は必死になって練習に取り組む。
「じゃあ、ちょうど時間なので今日はここまでにしましょうか」
先生の言葉に、ありがとうございました、と頭を下げる。また明日、とスタジオを出ていく先生を見送って、時計を見上げた。
————次の予定まで、一時間半…移動を考えても、あと一時間は空いてる。
昼休憩の時間として空けられた一時間であることは分かっていた。しかしスタジオを使える時間を無駄にしたくないという気持ちが勝り、水を一気に煽ると鏡の前に戻った。
習ったことを身体に叩き込むように繰り返し踊る。
集中しているとあっという間に一時間が経ち、慌ててスタジオを出た。早足で駅へ向かい、ホームで電車を待つ間、リュックからゼリー飲料を取り出してそれを飲み込んだ。
昼間の電車は空いていてほっとする。端の席に座って、二人のダンス動画を見ながら自分に足りないものを探った。魅せたいイメージを膨らませて、そのためにどう動くべきかを考える。
目的の駅に着いた時には、すでに集合時間の五分前だった。事務所まで小走りで向かい、伝えられていた会議室に飛び込んだ。
「っ、遅れてすみません!」
待っていたのは、澄睦一人だった。
「大丈夫ですよ。レッスンお疲れ様です」
穏やかに言われてさらに申し訳なさが募る。
「すみません、気付いたら時間過ぎていて…」
咄嗟に言ってしまったものの、言い訳みたいだなと直後に後悔した。謝るだけでよかったのに、と思いながら、澄睦の前に座ろうとして。
「…?」
澄睦から、返事が無い。
不自然な沈黙に、翔音は顔を上げて。
「…大路くん、お昼ご飯は?」
「え?」
鋭い目をした澄睦と目が合った。
「ちゃんと食べましたか?」
思わずごくりと唾を飲む。翔音は上擦った声で返した。
「た、食べました」
「何を?」
「栄養ゼリー、を…」
澄睦は厳しい顔をしたまま、叱るような口調で言った。
「お昼ご飯はちゃんと食べましょう。休憩も、取らないとダメですよ」
「…はい」
分かってはいた。無理をして身体を壊したりしたら元も子もないことも。
だから、体調管理には十分に気を付けているつもりだった。睡眠時間は削らないようにしているし、昼はゼリーで済ませてしまったが、朝と夜は栄養バランスを考えてしっかり食べている。
————だから、使える時間は全部練習に注ぎたい。
納得がいっていないことをその表情から読み取った澄睦は、小さく微笑んだ。
「大路くんは、大丈夫」
翔音の目を見て、語りかけるように囁いた。
「そんなに焦らなくても、ちゃんとやれてますよ」
「…」
————そんなこと、ない。
しかし、澄睦の慰めは全く心に響かなかった。二人と比べて、自分の実力が足りてないのは事実だと、翔音は拳を握る。
限られた時間で、もっともっと完成度を上げないければならない。このままでは一緒にステージに立てないと、本気でそう思っていた。
「…練習時間を増やしたい?」
「はい」
三月に入ろうという頃。
焦りが、限界にまで達していた。
もうレッスンを再開して一ヶ月以上経つのに、全く上達していない。そろそろ通し練習も始まってしまう。しかも、最近は復帰後に世に出る仕事の予定も入り始め、自主練の時間がほとんど取れなくなっていた。
————最近眠りも浅い…このままじゃ、全部ダメになる。
自分の精神が不安定になり始めているのを感じていた。経験上、こんな状態のまま今と同じレッスンを続けていても、状況は悪化するだけだと分かっていた。
何でも話すと決めたため、二人にも正直に今の心境について話をしていた。自分の技術が思うように上がらない、それが悔しくてたまらないのだと。
『翔音は自分に厳しすぎるよ』
湊はそう言って翔音の頭を撫でた。
『やーめっちゃすごいと思うけどなー。何がそんな気になんのかオレには全然分からん』
創は本当に不思議そうな顔でそう言って首を傾げた。
二人は自分に気を遣っているわけではなく、本心で思っていることを言ってくれていると、分かっていた。
しかし、だからと言って満足出来るかというと、それは全く別の話で。
————結局、この不安を取り除くには、自分が納得出来るまでやるしかないんだ。
求めているのは、他者からの評価ではなく、自信。誰に言われても、自分の思い描く姿になれていない以上、胸を張ってステージには上がれない。
二人も翔音が納得していないことは理解していたので、これ以上練習をするのなら自分でやらずに必ずマネージャーに相談して了承を得るよう伝えたのだった。
「やれること、全部やりたいんです。お願いします」
澄睦の目を見つめる。その視線を真っ直ぐに受け止めて、澄睦も口を開いた。
「無理は良くないと思っています。もうすでにかなりハードなスケジュールなので、これ以上はやるべきではないかと」
きっぱりと反対され、翔音は顔を歪めた。
————でも、ダメなんだ…このままじゃ。
「…デラメアが、大切なんです」
考えるより先に、言葉が溢れていた。
「本当に、大切で…大好きなんです。ファンのことも、湊とそうちゃんのことも」
一度そこから逃げ出したくせに何を言っているんだと、自虐的な気持ちにもなる。でもだからこそ、もう絶対に壊したくないという思いも強かった。
「だから、お願いします」
頭を下げる。
こんなお願いは我儘でしかない。自分の監督責任がある澄睦にとっては、迷惑な話だろうと分かっていた。
しばらく、沈黙が二人を包む。
頭を下げたまま動かない翔音に、静かな声が掛かる。
「…分かりました」
「!」
勢いよく顔を上げると、澄睦は淡々と言った。
「では、夜に自主練の時間を追加しましょう」
「…! ありがとうございます!!」
しかし、光明が指した直後。
「ただし、条件があります」
その厳しい声に、自然と翔音の背筋が伸びた。
澄睦は平坦な声で告げる。
「私もその時間は一緒に居させてください。そして、帰りは家まで送ります」
「えっ」
翔音はぱちりと目を瞬く。そして、何を言われたのか理解して————急に萎縮したように小声で返した。
「それは…申し訳ないので…」
「大路くんは未成年で、一応まだ高校生です。深夜に一人で帰らせることは出来ません。飲めないのであれば、この提案は無しです」
どうしますか、と澄睦は翔音に決断を迫る。
————迷惑かけるのは、正直気が引ける…けど。
これ以外に方法は無いと、頷いた。
「…お願いします」
分かりました、と澄睦は変わらない調子で言った。
少し冷たくさえ感じられるその返事に若干怯みながらも、翔音はしっかりと礼を述べる。
「ありがとうございます」
————澄睦さんの時間も使わせてしまうんだから、出来ること全部やろう。
そうすればきっと、自信を持って二人と一緒にステージに立てると信じていた。
その翌日。
いつもレッスンに使っているスタジオへ澄睦と二人で来ていた。
「十時までです。私はここで作業をしているので、終わったら声を掛けてください」
「はい! ありがとうございます!!」
翔音は澄睦に頭を下げて、スタジオに入る。
————二時間、集中してやろう。
振りを一つ一つ確認していく。描いたイメージ通りの動きになるように、見せたいものを見せられるように。自分の動きの問題点を、丁寧に洗い出して徹底的に直していく。
「ここはやっぱり、こうして————わっ」
ピピピピ、とスピーカーを通して大音量でアラームが鳴り出し、びくりと身体を跳ねさせる。
「びっくりした…もう、あと五分か…」
スピーカーに繋げたスマートフォンに手を伸ばし、アラームを止めた。
最後に自分のダンスを録画し、急いでモップ掛けをしてスタジオを出る。
「今から着替えてきます!」
「はい。お疲れ様です」
翔音はぺこりと頭を下げて、小走りで更衣室へ向かう。
————澄睦さんって、本当に淡々とした人だな…。
人当たりは良く、醸し出す雰囲気も穏やかなため、冷たい人というイメージは無い。しかしいつもテンションが一定で感情的な部分が見えないため、静かな人という印象ではあった。
マネージャーになってから、早二ヶ月が経とうとしている。しかし、仕事に必要な話しかしていないからか、あまり彼の人となりを理解することが出来ずにいた。
出会った瞬間のことを思い出す。
————あの時は、運命かなとか、思ったんだけどな。
人生で一番最初に出会ったアイドルがまさか自分のマネージャーになるなんて。そんな偶然があり得るのかと、驚き半分、興奮半分で、帰宅するなり姉にもすぐその話をした。
澄睦のファンだった姉は、翔音以上の興奮を見せた。懐かしさに二人で大いに盛り上がり、そのまま一緒に家にあったリバーブのライブ映像を久しぶりに見返した。
その思い出深い映像には、今よりもあどけない顔立ちをした澄睦が、笑顔を振りまきながら歌って踊る姿が確かに映っていたのだが。
————なんか、印象が違うんだよな…。アイドル辞めちゃった理由も、よく分からないし…。
澄睦の脱退理由は、どのサイトにも「学業に専念するため」としか書かれていなかった。
翔音自身の無期限活動休止も、世間には学業専念のためと公表していた。つまり、その理由が本当に正しいものとは限らない。
自分と同じように、何か世間に公表したくない理由があるのかもしれないと思うと同時に、彼の中でアイドル活動をしていた過去はあまり良いものではないのかもしれないと思ってしまったのだった。
————初めて会った時の反応も、あんまり良くなかったし…何かあったのかな…。
普通、過去の自分のグループの話が出たら嬉しくなるものなんじゃないか。少なくとも、もう少しその話で盛り上がってもいいんじゃないか————そんなふうに、色々と勘繰ってしまう。かつて憧れたアイドルだという背景もあり、翔音は彼自身に対しても興味を抱いていた。
せっかく出会えたのだから、もう少し彼のことが知りたい。そんなことを思いながら着替えを済ませ、荷物をまとめて更衣室を出る。
ロビーに戻ると、すでに澄睦も帰り支度を済ませ、鞄を手に翔音のことを待っていた。
「すみません、お待たせしました!」
「いえ。では帰りましょうか」
二人でエレベーターに乗り込む。
「…」
「…」
沈黙が流れる。
若干居心地の悪さを感じながら、横目でちらりと澄睦を見上げた。
————身長高いな…湊とそうちゃんより高そう…?
「…あの」
「は、はい!」
急に話しかけられ、思わず大きな声で返事をしてしまう。
「車で送って行こうと思っていたんですが、タクシーの方がいいですか」
「え?」
どういう質問だろうと首を傾げた翔音に、澄睦は丁寧に問いかけた。
「タクシーに一緒に乗って帰るか、私の車でよければ、それで送ります。自宅の方向は同じなので、そこは気にしないでいただきたいのですが…大路くんは、どうするのがいいですか」
質問の意図を理解する。
————あ…そういう、ことか。
それは、翔音の事情に配慮した問いだった。
「…お気遣いいただきありがとうございます」
その優しさに、胸が温かくなる。
実際、タクシーの運転手は高確率で男性のため、例の件があってからは一人では乗らなくなっていた。
タクシーで、知らない人と澄睦と三人か。もしくは、澄睦の車で二人きりか。
————澄睦さんなら大丈夫…な気がする。
この厄介な後遺症は、自分に危害を加える相手ではないと頭では分かっていても、反射的に恐怖を感じてしまうものだった。そのため、大丈夫だと確証を持って事前に意思決定することは難しい。
頭の中で、澄睦の車に乗る図を描いてみる。小さな箱の中で、二人きり。そんな時間が、二十分ほど続く。
「…」
イメージの中では胸が騒つかないことを確認して、澄睦を見上げた。
「澄睦さんの車で、送ってもらえないでしょうか」
翔音の言葉に、澄睦は「はい、分かりました」といつもと同じ調子で頷いた。
二人で地下の駐車場に向かう。
澄睦は後部座席のドアを開けると、どうぞ、と翔音に声をかけて車の後ろを通って運転席の方へ回った。
「…?」
その少し不自然な動きに違和感を抱いて、はっとする。
————そういえば、澄睦さんっていつも距離を空けてくれてる気がする。
なぜかなんて、考えるまでもない。
これまでもずっと、彼は自分に配慮して接してくれていたのではと気付いて固まった。
「大路くん?」
動きを止めた翔音を見て、澄睦はすぐさま問いかける。
「やっぱりタクシーにしますか?」
「あっ、いえ、大丈夫です!」
ぶんぶんと首を振った翔音を車越しに見ながら、澄睦は柔らかな声で言った。
「本当に? どちらでも大丈夫なので、気にせず選んでください」
————優しい人だな。
ここに車があるということは、もし翔音がタクシーを選べば、澄睦は一度タクシーで翔音の家まで行ったのち、再びここに車を取りに戻らなければならない。その面倒について一つも言及することなく、翔音の心にとって一番良い方法を選ぶよう促してくれる。
「…いえ、本当に大丈夫です。ありがとうございます」
翔音が車に乗り込んだのを見て、澄睦も運転席に座った。
ドアを閉めて、シートベルトをする。そして、澄睦の背中に向かって頭を下げた。
「よろしくお願いします」
————俺はいろんな人に守られて、ようやくこうして活動が出来ているんだ。
そのことにちゃんと感謝しなければと、そう思った。
車が動き出す。夜の景色に透ける自分の顔を見ながら考える。
————いつかは俺も、自分の力だけでステージに立てるかな。
誰に守ってもらわなくても、一人でアイドルをやれるだろうか。
湊のように、創のように、グループを支える三本目の柱になれるだろうか。
「…」
目を閉じる。そんなのは、今の翔音にとってはとても、とても遠い夢だった。まずは最低限、胸を張って二人と同じステージに立てる状態まで持っていかなければと、そっとため息を吐いた。
「何かあれば遠慮なく声を掛けてください」
運転しながら掛けられた声に、礼を返す。
「ありがとう、ございます」
————せっかくだし、澄睦さんと話せないかな。
運転をするその後ろ姿を見ながら、澄睦のことを知るために何か話題を、と考える。
車の揺れに合わせて揺れる澄睦の髪が目についた。後ろで一つに縛られたミルクティー色の髪は、夜の街のネオンライトを反射して艶やかに煌めいていて。
「…澄睦さんって、髪綺麗ですよね」
翔音の口から、そんな言葉が溢れた。
そしてすぐに、さすがに当たり障りなさ過ぎると自分に呆れる。人となりを知りたくて話題を探していたのに、これは無いだろうと思ったのだが。
「そうですか…? ありがとうございます」
————ん? あれ?
どこか、嬉しそうな声だった。興味を引かれて、そのまま話題を広げてみる。
「普段、どんなケアしてるんですか?」
アイドルとして、身なりを磨くことについては当然翔音も興味があった。
すると、澄睦は普段よりも幾分テンションの高い声で語り始める。
「色々しています。ヘアマスクとか、ミルクとかオイルとか、髪に直接つけるものもそうですし、ドライヤーやブラシ、タオルとか枕なんかもこだわっていますね」
すらすらと語られた想像以上のこだわりに、翔音は「すごいですね!!」と前のめりに問いかける。
「何が特にオススメですか?」
「手軽に始めるなら、シルクの枕は結構おすすめです。安いものでも効果を感じられますよ」
————なんか…なんかすごく嬉しそう…!
今まで聞いたことのない澄睦の声に、翔音の胸も高鳴る。
表情は見えないが、その微笑みが目に浮かぶようだった。可愛い人だな、とそんなことを思ってしまう。
「長い髪を綺麗に保ちたくて、ヘアケアには力を入れているんです」
「サラサラつやつやですもんね。とても綺麗です」
お気に入りなのでそう言ってもらえて嬉しいです、と言った澄睦の声は明らかに弾んでいて、翔音も頬を緩めた。
「ありがとうございました」
車を降りて、頭を下げる。
「これからもこれで大丈夫そうですか?」
「はい。…お手数おかけして、申し訳ないです」
大丈夫ですよ、と澄睦は優しく笑う。
————帰り道で、ぐっと澄睦さんに近づけた気がする…!
と言っても、あの後も話題はヘアケアから逸れることはなく、ただ澄睦自慢の髪について色々と聞いただけだった。しかし、ろくに雑談もしたことがなかったことを思えば、澄睦個人のことを知ることが出来て、さらにはテンションの上がった姿まで見られたというのは、翔音にとって大きな収穫だった。
澄睦には申し訳ないが、これからほぼ毎日、この帰りの車の時間があると思うと少し楽しい気持ちになる。
「ありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみなさい、また明日」
にこりと笑って言った澄睦にぺこりと頭を下げて、翔音は軽い足取りで玄関に続く階段を登る。
その姿を見送ってから澄睦も車に戻り、静かに走り去っていった。
* * *
それからほぼ毎日、その日の予定が全て終わった後、二時間ほど個人練習を行なった。
一週間もすると、ようやっと少しずつ前に進んでいると思えるようになり、さらに練習に熱が入った。
しかし、身体がついてくるようになったことで理想はさらに高くなり、自分を追い込む気持ちにも拍車が掛かった。そして熱が入り過ぎた結果、突然涙が溢れたり、休憩を忘れて脱水症状になりかけたりと、とても自主練とは思えない気迫で翔音は練習を行うようになっていった。
もっとやれる————そう何度も自分を鼓舞し、叱咤し、憧れに向かって邁進する。
ライブについての具体的な話し合いが始まったことも大きかった。四周年に相応しいライブにしたい、さらに翔音の復帰というサプライズを鮮やかに演出したい、その想いをどう形にするか三人で繰り返し話し合い、納得がいくものになるよう試行錯誤する日々が続いていた。
見せたいものを見せるには、復帰する本人である自分のパフォーマンスが相応のものであることが必須だった。けれど、今はまだそれに達していない。そんな焦りと緊張感に急き立てられるように、毎晩自主練習をしていた。
練習終わりは、毎度疲れ果てていた。そんな翔音にとって、帰りの車で澄睦と他愛のない話をする時間は、ささやかな癒しになっていた。
最近食べて美味しかったものや、面白かった番組の話、時にはもっと雑多な話をした。今朝のランニングですれ違った犬が可愛かっただとか、楽しみにしていたコンビニの新商品がイマイチだったとか。湊と創についての話もたくさんした。
会話量が増えたことで、澄睦がどういう人物なのかもなんとなく分かるようになっていた。
甘いものが好きで、特にケーキなどの生クリームがたっぷりな洋菓子が好き。兄弟はおらず一人っ子。乗り物酔いしやすくてバスは特に苦手。ヘアケアに全力を注いでいて、プライベートではヘアアレンジなども好んでする。
生き物を飼うのが好きで、家にはアクアリウムが三つもある。本当は猫か犬が飼いたいけれど、仕事柄難しいと断念したらしい。
休日はカフェへ行って本を読んだり、たまにお菓子作りをしたり————あとは、アイドルのライブに行ったり。
それを聞いた時は心底驚いた。
色んなアイドルを見るがの好きだという。参加するものは、大きなホールで行われるライブから、小さなライブハウスで行われるライブまで多岐に渡っていた。そしてそのチケットを取るために、ファンクラブにも積極的に入っていて、その数はなんと三十を超えるらしい。頻度も高く、月に三回程度はライブへ足を運んでいるというその熱量は、紛れもなく確かなもので。
なら、なぜリバーブを辞めてしまったのか。今、裏方の仕事に就いているのか————聞きたい気持ちはあった。けれど何となく聞きづらく、いつか澄睦の方から話してくれたりしないだろうかと、そんな淡い期待を抱くにとどまった。
そんなふうに澄睦のプライベートを知っていくに連れ、彼に親しみを覚える気持ちも大きくなった。
本当に疲れていて、一度話している途中で寝落ちてしまったこともある。澄睦に呼ばれて目を覚まし、慌てて頭を下げたものの、内心では、澄睦と二人きりの車の中という場所がそれだけリラックス出来るものに変わっていたことに驚いていた。
「今日もありがとうございます」
「頑張ってください。でも、無理はしないように」
ロビーで澄睦と別れて、翔音は一人更衣室へ向かう。
————週明けからはライブの通し練が始まる。それまでに、もっと完成度を上げたい。
速やかに着替えてスタジオに入る。
スマートフォンをスピーカーに繋いで、それを再生する。
鏡の真ん中に立って、息を深く吸って。
「————!」
歌って踊る。
どんな表情で、どんな声で歌うか。視線をどこに置いて、どこで息を吸うか。
全てが、パフォーマンスを作り上げる大切な要素だった。最高の形を求めて、鏡に向かってそれを披露する。
————ライブは、どういうものだった?
その光景を頭に思い描く。光り輝くペンライトの海。大きな歓声。その瞬間を、心から楽しんでくれるたくさんのファンの表情。
期待に輝く瞳を、熱と愛のこもった視線を、一身に浴びて歌う。
一番の後ろの席まで声が、思いが、この熱が、ちゃんと届くように。
「————ッ!」
鋭く息を吐く。額から汗が伝う。床を踏み締めて、全身に力を入れて。熱が身体中を巡る。
————もっと出来るはず。もっと、もっと遠くまで届けるんだ。
頭までぼうっとするほど、心身ともに高まって。
ふっと、目の前が暗くなった。
「っ、あ」
ぷつん、と電源が落ちるような、そんな感覚。
————まずい、転ぶ
分かっていても、足に力が入らない。視界が斜めにぶれる。
そして次の瞬間、鈍い衝撃が全身を襲った。
「ッ、!」
声にならない悲鳴。同時に、ガチャン、と音を立ててスタジオの扉が開く。
「大路くん…っ」
————…澄睦さん…?
いつもロビーで待っているのに、どうしてここに居るんだろう、と考えた次の瞬間だった。
「…ッ! はっ…、はぁ…っ」
沈黙していた時が流れ出す。突如身体の熱さと、息苦しさに襲われ、きつく目を瞑った。
————くるしい、きもちわるい
頭をガンガン揺らされるような鈍い頭痛に、吐き気を覚える。
「大路くん、大丈夫ですか」
澄睦は倒れた翔音に駆け寄り膝をつき、手を伸ばして————しかし、その手が翔音に触れることはなかった。
「…大路くん」
触れられず宙に彷徨った手を胸元に仕舞って、澄睦は拳を握る。
「僕の声は聞こえますか」
————すみちかさんの、こえ
翔音はわずかに頭を動かして頷く。
「じゃあ、ゆっくり息を吐いて…ゆっくり吸って」
吸って、吐いて。言われた通りに呼吸を行う。繰り返しているうちに、少しずつ呼吸が楽になっていく。
「…は…っ…」
「もう少しゆっくり、ね。焦らずに…そう、上手」
————すって…はいて…
優しい声に意識を集中させる。
次第に、荒かった呼吸が落ち着いていく。それに伴い、頭痛や吐き気もおさまっていった。
は、と一つ息を吐き出し、翔音はゆっくりと目を開けた。
「…すみま、せん」
澄睦は、唇を引き結び心配そうに眉を寄せていた。ずっと聞こえていた穏やかな声から勝手に思い描いていたものとは異なるその表情を、翔音はぼうっと見上げる。
————きれいな人だな。
場違いな感想が浮かんだ。
色素の薄い瞳を囲う長いまつ毛。透き通るような白い肌。重力に従って流れる、ミルクティー色の長い髪。
あの日見た、アイドル姿と重なる。きらきらと輝いていた、ステージの上の姿と。
「もう、苦しくないですか」
「…はい」
翔音は頭を押さえながら上体を起こす。
「頭は打ってない、ので…大丈夫です」
「…」
澄睦は険しい顔で、何か言いたげに翔音を見つめる。しかし結局言葉を飲み込み、静かに問いかけた。
「飲み物は飲めそうですか」
翔音が再び頷くと、澄睦は立ち上がってスタジオの隅に置いてあったスポーツドリンクを持って来る。そしてキャップを外して翔音に手渡した。
翔音はそれを、一口ずつ注意深く飲みながら考える。
————脱水症状かな…あとは、疲労がちょっと溜まってしまったんだろうな。
経験上、少し休めば大丈夫なものではあった。ただ澄睦には心配を掛けてしまっただろうと申し訳なく思う。
「ちょっと、ヒートアップしてしまって…少し休んで落ち着けば、大丈夫です」
「…上着を取ってきます」
澄睦はスタジオを出ていく。まだぼんやりする頭で、どうして上着を、と思いながら翔音は深く息を吐いた。
————さっきのはさすがにちょっと危なかったか…気を付けないとな…。
タイミングが悪ければ、怪我をしていた可能性だってあった。それだけは、絶対にあってはならないことだと、翔音は自身を叱責した。
飲み物を飲んでいると、コートを持った澄睦が戻ってくる。そして、彼は何も言わずに持っていたコートを床に広げた。
「…?」
何をしているのだろうと思いながら、ぼうっとその様子を見ている翔音を振り返り、澄睦はコートを指し示して言った。
「少し横になってください」
ぱちり、と翔音は瞬きをする。そして何を言われたのか理解して、慌てて首を振った。
「え、そんな、だいじょ————」
「大丈夫ではないでしょう」
冷たい声で遮られ、翔音は口を噤んだ。
澄睦は翔音の方を見ず、厳しい調子で繰り返す。
「少しでいいので、身体を休めてください。それから帰りましょう」
有無を言わせない様子に気押され、はい、と翔音は小さな声で頷くと、敷かれたコートの上におずおずと寝転んだ。
澄睦は羽織っていたカーディガンを脱ぐと、そっと翔音の身体に掛ける。
「寒くないですか」
「大丈夫、です…」
————申し訳ないな…。コートもカーディガンも借りちゃって…。
と、そこまで考えて、それどころではないことに気付く。自分がこうなってしまったことで、監督責任を問われるのは澄睦だ。自分の我儘で練習に付き合わせるだけでも迷惑をかけているのにと、心苦しくなる。
「…すみませんでした」
翔音の謝罪に、澄睦は何も言わず、ただ安堵したようにため息を吐いて、小さく微笑んだ。
申し訳なさは消えないものの、その微笑みにほっと心が落ち着く。目を閉じて力を抜くと、あっという間に意識は暗闇へ溶けていった。
「……くん、大路くん」
「ん…」
声で目を覚ます。
————あれ…何して…ここは…。
翔音はぼんやりと考えながら、見慣れない天井をしばらく見上げて。
「…! すみません!!」
急に全てを思い出して飛び起きた。そして手に握りしめているそれが澄睦の物であることも思い出し、はっと手を離す。
グレーのカーディガンには、翔音が握っていたところにくっきりとシワが残ってしまっていた。
「っ、ご、ごめんなさい!! シワになってしまって、あの」
「大丈夫ですよ」
澄睦は翔音からカーディガンを受け取ると、気にする素振りもなくそれを羽織る。
翔音は慌てて立ち上がり、敷いていたコートを軽く払う。高そうなコートだなと思うと同時にまた申し訳なさを覚えながら、それも澄睦に手渡した。
「すみません…ありがとうございました…」
澄睦はコートを受け取って腕に掛ける。
「気分はどうですか?」
「すっきりしてます。もう大丈夫です」
はっきり答えると、よかった、と澄睦は安心したように言った。
「では、帰りましょうか」
二人でスタジオを後にする。掃除もすでに済ませてくれていたらしく、翔音はぺこぺこと繰り返し澄睦に頭を下げた。
いつものように駐車場に向かい、澄睦の車に乗り込む。
「よろしくお願いします」
エンジンが掛かって車が走り出す。
「…」
「…」
二人の間に、沈黙が流れた。
————あんなに迷惑を掛けて、能天気に雑談なんて出来ない…!
自分から話しかけることが出来ず、翔音は気まずさを覚えながら無言に耐える。
小降りの雨が降っていた。ガラスに流れる点線のような雨を見つめながら、翔音は顔を曇らせる。
————明日からは、なしって言われるかな…。
こんなことになった以上、もう夜練習は禁止と言われても何も言えない。従うしかない状態ではありつつ、この練習時間がなくなるのは正直辛かった。
まだまだ、磨きたいところがたくさんある。二人に並び立つには、まだ足りない。あと少し、もう少しで届きそうだったのに、と翔音は唇を噛み締めた。
「…大路くんは」
不意に名前を呼ばれて意識を引き戻される。
「なぜ、芸名なんですか?」
「え?」
「南くんと高宮くんは本名ですよね」
ああ、そういう質問か、とその意図を理解して同時に答えに迷った。
————あんまり、いい理由じゃないけど…でも、澄睦さんには、言ってもいいかな。
そこには、少しだけ苦い思い出があった。
「翔音という名前は、気に入ってるんです。本当に」
音楽家の両親がつけてくれた名前。あまり他では聞かない特別な名前は、自分だけのものという愛着もあり、心から好きだと思っていた。
「でも、読み方が…その」
表現に迷っていると、澄睦が静かに口を開いた。
「綺麗な名前ですよね」
「…!」
翔音が言おうとしていたものとは異なるその言葉に、翔音は目を見開く。
「翔る音と書いてカノン…初めて聞いた時から、響きの素敵な名前だなと思いました」
「…」
————ああ、嬉しいな。
胸がふわりと温かくなる。翔音は小さく微笑んだ。
「…ありがとうございます」
澄睦に、全部話してみたい————そんな気持ちに背中を押されて口を開く。
「可愛いもの、好きなんです」
目を閉じて、自分に問いかけるようにそっと尋ねる。
「見ているだけで心があったかくなるし、笑顔になれませんか」
愛らしい小さな生き物を見た時、デコレーションされたデザートを見た時、ふわふわのぬいぐるみを見た時————心が弾むような、ときめきを覚える感覚が好きだった。
そうですね、と澄睦はそっと相槌を打つ。
「変な話なんですが…可愛いって、よく言われるんです」
幼い頃から、ずっとそうだった。
————『翔音くんは本当に可愛いね』
————『羨ましいくらい可愛い〜』
————『女子より可愛いよな』
近所のおばさんから、男女問わずクラスメイトまで、いろんな人に可愛いと言われてきた。
それは大抵、悪口として言われているわけではなく、褒め言葉として向けられていた。そう分かっていたから、毎度反応に困りつつも嫌な気持ちになる訳ではなかった。
しかし、可愛いことが理由で、望まない目を向けられたりすることがあったのも事実で。
「可愛いって、言われるだけならいいんです。でも、それが理由で…なんというか、人から見下されたりすることもあって」
一番苦しかったのは一年前の事件だが、それだけではなかった。
クラスメイトに変な気を持たれたこともあった。下世話な話のネタにされているのを聞いてしまったこともあった。理由もなく、なぜか弱者として扱われることも少なくなかった。
そうやって、容姿が可愛いからという理由で尊厳を無碍にされる度、自分の持つそれが嫌になった。ただの冗談だって分かっていることでも、言われて嫌なことはやっぱり嫌だった。
「可愛いことは、決して悪いことじゃないって思ってるんです。アイドルという道を選んだことで、可愛いと人に思ってもらえることは、俺にとって大きな財産になりました」
自分の「可愛い」ところをただ愛してくれる人たち————湊や創、ファンから向けられるそれらは、アイドルとしてやっていく上で確かな自信になっていた。
「ただ…それが弱さに結びついてしまった経験があるせいで、心の底から、自分の持つ『可愛い』要素を肯定できないというか」
翔音という名前も、出来ることなら誇りたかった。
けれど、可愛い名前だね、ぴったりだね————悪意を持ってそう言われた経験から、素直に全てを受け入れることが出来なくて。
「翔音という名前でデビューするのは、可愛すぎるから嫌だって言ったんです。その結果、翔という名前になりました」
言葉にしてみると、本当にくだらない理由だった。
名前を変えたくらいで一体何が変わるというのか。そんな無意味な自衛をするくらいなら、可愛いとは切り離した売り方にした方がずっと建設的だと、翔音は自虐的に笑う。
「色々、矛盾しているんです。アイドルとして、可愛いと言ってもらえる長所を活用してやっていくという方針に迷いは無いのに、その全部を曝け出すのには躊躇いがあって…」
可愛いアイドルとして売っているのに、あからさまに可愛いを体現したような衣装やポーズは避ける。容姿が可愛いからという理由で来る案件には難色を示す。
————本当に、矛盾だらけだ。
翔音は静かにため息を吐いて、小さな声で囁いた。
「『可愛い』は、俺にとって武器であり、弱点なんです」
ずっと黙って聞いていた澄睦は、なるほど、と呟いた。
「嫌な気持ちにさせてしまったら、申し訳ないけれど————」
そう前置きをしてから、澄睦は柔らかな声で言った。
「私も、初めて見た時から可愛い人だと思っていました」
————澄睦さんに言われても、嫌だとは思わないな。
それは、彼が自分を蔑む言葉として使っているわけではないと分かるから。湊と創に言われるのと同じように、素直に嬉しいと思うことが出来た。
「ありがとうございます」
「不快だったらすみません」
すぐに返された謝罪に、翔音は心からの言葉を返す。
「いえ、嬉しいです…本当に」
翔音の心を汲み取って、「よかった」と澄睦は安堵したように溢した。
そして、翔音へ優しく語りかける。
「こんなことは、周りのあなたを思ってくれる人たちから散々言われていると思いますが…大路くんのその『可愛い』ところは、他の人にはない特別な魅力だと思ってます」
澄睦は、だから、と続けた。
「出来ることなら、胸を張って、誇ってほしい」
「!」
翔音は、静かに息を呑んだ。
————胸を張って、誇る…。
今まで翔音に励ましの言葉をくれた人たちも、気持ちは同じだったかもしれない。けれど、気にしなくていい、自分は長所だと思う、そう慰められることばかりで、その先まで望まれたことはなかった。
「可愛いことを恐れなくなったあなたを見てみたい」
澄睦の言葉が、激しく翔音の心を揺さぶる。
「きっと、とてもかっこいいと思うんです」
夢を語るような口調で言った澄睦の言葉に、翔音は熱くなった胸を抱えて問いかける。
「かっこいい…?」
はい、と澄睦は囁くような声で言った。
「誰からも可愛いと言ってもらえるというのは、生まれ持った才能です。誰にも負けない強みであるそれを惜しみなく使って、ステージに立つ…自信に満ち溢れたその姿は、とてもかっこいいだろうなと」
————可愛いことに、自信を持って…。
ぼやけた未来像。どんなふうになるのか分からない。ただ、キラキラと輝く光が見えたような気がした。
「すみません、これはただの私の願望です。押し付けるつもりはないので、ただ一つの意見として聞いてもらえればと」
でも、と澄睦は言葉を続ける。
「もしそれを大路くんが目指したいと思ってくれるのであれば、ぜひ応援させて欲しいです」
応援、というのが、具体的に何を示すのかは分からなかった。ただ、澄睦が背中を押してくれると言うのなら、それほど心強いことはないという安心感があって。
「力になれることがあれば、何でも言ってください」
————いつか、出来るのかな。
この矛盾にけりをつけて、ただ武器として「可愛い」を振り翳すことが。
分からない。けれど、やってみたいと、確かな意志が湧いてくる。
どうすればいいのか、現時点では道筋すら見えなかった。過去との決別がそう簡単なことでないことは、この一年で痛いほど身に染みて分かっていた。
可愛いことを恐れない————そのために、必要なことは何だろうと考えて。
「じゃあ…今、一つだけ、お願いしてもいいですか」
はい、と澄睦は頷いた。
意を決して、翔音はその願いを口にする。
「よければ、これからは名前で呼んでもらえませんか」
くだらない理由で手放してしまった、自分のアイデンティティ。
可愛い響きだからと変えてしまったけれど、これだって本来使うべきものだった。
————あの時の俺にその決断は無理だったから、仕方のないことだけれど。
でも、綺麗な名前だと言ってくれた澄睦には、この誇りたい名前で呼んで欲しいと、そう思った。
「わかりました。では、これからは…翔音くん、と呼ばせてもらいますね」
「ありがとうございます」
少しくすぐったさを覚えながら、翔音ははにかむ。
————まだやり方は分からないけど…頑張ろう。
澄睦が協力してくれるのならば、本当にその境地に辿り着けるかもしれないと、そう思えた。
ほどなくして、家の前で車が止まる。ありがとうございました、と言って車を降りようとする翔音に、澄睦はいつもと同じ問いを投げた。
「また明日も、同じ時間からで問題ないですか?」
「えっ…」
ぱちり、と翔音は目を瞬いて。
「いいんですか?!」
飛びつくように大きな声を上げた。
————絶対もうダメって言われると思ってた…!
倒れてしまった以上、もしそう言われたら飲むしかないと諦めていた。喜びに顔を輝かせる翔音に、澄睦は肩をすくめた。
「本当は、もうやめましょうと言いたいところですが…」
ため息混じりの声でありながらも、目元は柔らかで。
「あなたにとって、この時間は必要なものだと思うので」
翔音は目を瞬く。
————澄睦さんは…本当にアイドルが好きなんだろうな。
唐突に、そんなことを思った。
もっと頑張りたいという自分の思いを、尊重しようとしてくれている。マネージャーとしての仕事の範疇はとっくに超えていた。
「応援しています」
その微笑みに、胸がいっぱいになる。翔音は深く頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
アイドルとしての自分を支え、力を貸してくれるこの人の思いに応えたいと、そう強く思った。
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