第10話


「俺を呪うのが何者だと思うかだって?」


 そこを問われると思わなくて、紅焔は返事に窮した。茶器を手にしたまま戸惑っていると、藍玉はにこりと微笑んだ。


「念のためです。このあとの除霊に差し障りが出てはいけませんので、あらかじめ認識のすり合わせをしているのです」


「あ、ああ。そういうことか」


「よろしければ先に茉莉花茶をどうぞ。たくさん話すと、喉が渇くでしょうから」


「……そうだな」


 藍玉に勧められるままに、藍玉は茉莉花茶に口をつける。春に咲く花の香りがかぐわしく鼻をくすぐり、一瞬だけ、平穏だったころの情景が瞼の裏を掠めた気がした。


 目を閉じ、過去の亡霊ごとゆっくりと嚥下してから、紅焔は一息ついて視線を落とした。


「怨霊となり現世を彷徨うほど俺を憎む者が誰か。そんなもの考えるまでもない」


「と、いいますと?」


「死者であれば、俺がかつてこの手で処刑した実の兄、李焔翔。まだ生きている者なら、嫡男を殺され、自らも皇帝の座を奪われたわが父、李流焔。そのどちらかか、両方か。俺を憎む怨霊の正体は、その二人で間違いない」


「随分と自信ありげに仰るのですね。まるで昔から知っていたみたいに」


「まさか後宮に輿入れしておいて、俺が実の兄と父になにをしたか知らないのか? ……ああ、いや。ありえないな。冷酷無慈悲の、血染めの夜叉王。俺が巷でなんと呼ばれているか、君は正しく知っていた」


 軽口のつもりで言ったのに、思いのほか紅焔の笑みは自嘲的なものとなった。藍玉は表情を変えない。水晶のような瞳で見つめられながら、茶器に残っていた茉莉花茶をぐいと飲みほした。


「父は兄の処刑を嫌がっていた。あの人はどこまでもお人よしで、そこまで無慈悲になれなかった。だが、身内の暗殺を謀った兄を生かしておけば、ほかの者に示しがつかない。私は、家族の情よりこの国の秩序を優先して、兄を殺した」


 処刑を終えたことを報告したときの、魂が抜けたような父の顔と、声にならない慟哭がいまでも脳裏に焼き付いている。


 愛する息子の死を嘆く父は、きっと、人間として正しい反応だった。それをうらやましく思う自分もいた。その一方で、この国を統べる者として兄を処刑すると判断したことを、これまで一度も間違っていると思ったことはない。


「俺はあの日、人間として大事なものを捨てた。その俺が、夜叉と呼ばれるのは道理だ」


 それが人の道に背いた行いであろうと、己が求める正しき結果のため、迷わず歩むとあの日決めた。たとえその道が、大切な家族の血の上に敷かれているのだとしても。


「……ああ、そうだ。俺は、たしかに夜叉だ。情を捨て、命を踏みにじり、それでも進み続けようとする俺は、父と兄に・・・・裁かれて・・・・当然だ・・・


 ――紅焔自身は知る由もなかったが、この時、紅焔の全身が陽炎のように揺らぎ、ちりりと火の粉のようなものが舞った。その一瞬、紅焔の顔、服、ありとあらゆるところが血に濡れ、それなのに瞳だけがぎらぎらと仄暗い闇の中で獣のように光っている。


 声は上げなかったが、紅焔を見つめる双子の侍従の目が鋭くなり、どちらともなく小さな手を繋ぎ合う。二人の緊張を背中に感じ取りながら、藍玉は努めて平坦な調子で首を傾げた。


「本当にそうでしょうか?」


「なに?」


「旦那さまを呪うのは、あなたの父君や兄君なのでしょうか」


 淡々とした問いかけに、紅焔が困ったように瞬きをする。

 ややあって、紅焔は若干気分を害したように、眉間にしわを寄せた。


「君こそ随分と懐疑的だな。何を根拠に、あの怨霊の正体が父や兄ではないと言うんだ」


「根拠と言いますか、あらかじめ聞いていた印象とかなり違うと思いまして」


「一体、誰から何を聞いた? 今度は、死者と会話できるとでも言いだすつもりか」


「ええ、まあ。それももちろん可能ですが、もっとシンプルな証人がいらっしゃいますよ」


 涼やかに微笑んで、藍玉は後ろによびかけた。


「そうですね、お義父とうさま?」


 その呼び掛けに、応えて襖戸を開けた人物に、紅焔は目を見開いたまま凍りついた。


 日に焼けた健康的な肌に、見るからにお人よしそうな兄とそっくりの顔。少し痩せたが間違いない。ためらいながらも部屋に入ってきたのは、紅焔が都から追い出した父、流焔に間違いなかった。


 おどおどと視線を泳がせる父を前に、紅焔は亡霊を見つけたかのような顔をした。


「なぜ……。あなたが、この王宮に……」


「私が永倫殿にお願いし、王宮にお呼びいただきました。まだ目が覚めてらっしゃらない頃、旦那さまが危ういかもしれないとお伝えしたら、すぐに走ってくださいましたよ」


 涼しい顔で飄々と答える藍玉に、紅焔はもう少しで舌打ちをしそうになった。


 永倫も永倫だ。体裁上は自ら出て行ったとはいえ、流焔は追放された前皇帝だ。息子が危篤だろうと、やすやすと王宮の敷居をまたがせていい人物ではない。


 苦虫を噛み潰したような顔をする紅焔に、しかし流焔は、強く首を振った。

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