第8話
焔翔は、九つ上の兄だ。
肩幅が広く、がたいが大きい。月という字を名前に背負いながら、その笑顔は天を照らす太陽のように明るい。大らかな人柄で、皆に好かれていた。文字通り、兄の存在は、紅焔からひどく大きく見えた。
当時李家は、四つある小国のうち、西朝に仕える武家のひとつたった。だが、西朝の末王の圧政に憤った父・流焔が、仲間を集めて挙兵して西朝を倒し、その勢いでほかの三国も吸収して、いまの瑞を立ち上げた。
紅焔が物心ついた頃には、父は西朝を奪った後であり、兄は父と共に戦場を駆けていた。
父はよく、誰もが笑って暮らせる太平の世を創るのだと、誇らしげに話していた。その国に貧しきものはなく、虐げられるものもない。誰もが平等で、ひとびとは助け合って暮らすのだと、父は酒の宴で夢を語っていた。
いくらなんでも夢を見すぎだと、仲間たちですら笑った。だけど、父も兄も、そんな理想郷を心から信じて邁進していた。そんな父と兄が、紅焔は憧れだった。自分も早く大きくなって、二人と共に太平の世を目指すのだと胸躍らせていた。
十五を過ぎてから、紅焔も戦に出るようになった。当時、父は瑞の国を立ち上げて初代皇帝となり、兄は父を助けて新たな国造りに奔走していた。一方で、地方では旧王朝の残党による内紛が頻発しており、それを治めるのが紅焔の役目だった。
出陣するようになってから知ったが、紅焔には軍を率いる抜群の才能があった。天才的とうたわれた戦術により、紅焔は数多の勝利を治め、瑞を揺さぶる火種を着実に消していった。二十歳になる頃には、紅焔は右に並ぶ者なしと言われるほど、大将軍としての地位を築いた。
――その頃からだ。信じて追いかけてきた未来に、ほころびが生じたのは。
“陛下は焔翔様ではなく、紅焔様を次の皇帝にするつもりらしいぞ”
誰が言い出したのか、都にそんな噂が広まった。
はっきりと断言しよう。それは、根も葉もない噂だった。
父は既に、兄を次の皇帝に指名していた。事実、当時の瑞国の内政を取りまとめていたのは、実質的には兄だった。父・流焔は人望の厚いお人よしではあったが、はっきり言って政治の腕はからっきしだった。そんなダメな父に代わり、兄こそが、瑞の基盤を固めていた。
けれども、皇帝を支えて奔走する兄の功績は瑞国にとっては大きなものだったが、民からしたら地味なものだった。一方で、残党を確実に狩り、戦の火をつぶしていく紅焔の活躍はわかりやすく華やかで、民からの人気も高かった。
その不均衡さが、「次の皇帝が紅焔だ」なんて、噂を生んだのかもしれない。
紅焔は気にも留めてなかった。次の皇帝は兄・焔翔がなるものであり、自分は将軍としてそれを支えるのだと、信じて疑わなかった。
だが、兄と、兄の周囲の者たちはそう思わなかった。
兄は、紅焔への疑心に満ちた。周囲の者が吹き込んだのか、兄自身が不安に呑まれたのか。紅焔が時期皇帝の座を狙っていると、民もそれを望んでいるのだと、紅焔を恐れるようになった。
紅焔はなんとか、兄の誤解を解こうとした。しかし、紅焔が兄と話し合いの場を持とうとすると、必ず何かしらの邪魔が入り、ますます二人の溝は広がっていった。紅焔は父をも動かそうとしたが、父は、紅焔を次の皇帝にと声をあげる者にもどっちつかずの態度を取り、事態は悪化の一途をたどっていった。
――そしてついに、紅焔は耳にしてしまった。来る新月の夜。兄と、兄の側近の一派が、夜襲により紅焔を亡き者にしようとしていると。
ああ。太平の世など。真の平和など、夢幻に過ぎないのだと、紅焔は心から理解した。
確かに、この地は呪われている。千年もの昔、太古の大妖狐が呪いをかけたように、ひとは憎しみあい、互いで互いの血を洗い流すようにできている。たとえ仮初の平和が大地に満ちようと、必ず不安の種が芽吹き、新たな火種がそこに生じるのだ。
その日、紅焔は明確に夜叉となった。父を支えるためでもなく、ましてや兄への憧れのためでもなく、自らが信じる太平の世のため、紅焔は剣を手に立ち上がると決めた。
そして、来る新月の夜、暗殺者を捕らえた紅焔はその足で兄の住む東宮へと攻め入り、兄とその協力者たちを一網打尽にした。
“すまなかった、紅焔! 兄が愚かだった!”
処刑の朝、縛られ、処刑場に連れてこられた兄は、紅焔を見るなり涙を流して懇願した。
“お前を信じることができなかった、俺の心の弱さがいけなかった! 許してくれ、紅焔。二度と、お前を疑わない! 二度と、お前を裏切らない! 俺は、お前を……!”
“残念ですが、兄上”
絶望と恐怖に目を見開く兄に、紅焔は冷徹に剣を構えた。
“私が目指す太平の世に、皇帝は二人も不要なのですよ”
ためらいなく刃は振り下ろされ、紅焔の顔には生暖かい兄の血が飛び散った。
兄の処刑から十日後、紅焔は父に譲位を迫った。父が、次の皇帝は焔翔だと改めて明言すれば、兄はあんな強硬策に出なかった。なのに、紅焔を支持する者が、かつて共に戦場を駆けた戦友に多かったせいで、途中からどっちつかずの態度を取った。そのせいで、あんなことになったのだ。
父・流焔は、兄の死にすっかり意気消沈していた。だからなのか、紅焔に大人しく皇帝の座を譲り、自ら都をあとにした。父はいま、父の母方の縁戚が管理する、隠州島という小さな島で細々と余生を送っている。
――冷酷無慈悲の、血染めの夜叉王。瑞国の二代目皇帝となった紅焔は、いつしかその名で呼ばれるようになった。
永倫は「何も知らない連中が、好き勝手いいやがって」と怒るが、紅焔はその名を、これ以上なく自分にふさわしいと思う。
実の兄の首をはね、この手を鮮血に穢した。愛する息子の死に呆然とする父を都から追い出し、皇帝の座を奪った。自らの目指す『太平の世』を優先するあまり、血を分けた家族を蹴落とした自分に、これほどふさわしい呼び名はない。
ああ。だからこそ。だからこそ、だ。
俺は呪われて当然だと、安堵する自分もいるのだ。
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