【第2話】はろー、ばっどらっく様

「くそ、最悪だ……あのはとたち、やってくれるよ……」


 公衆トイレの洗面台でジャケットの汚れを洗いながら、ふと、正面の鏡を見上げる。


 癖っ毛なのか洒落っ気なのかパーマがかった髪は黒寄りのグレー。

 年齢は一六か一七かそこらだろうか。細身ながらもしなやかな体躯、そこそこに整った顔立ちをしてはいるものの、フレッシュさの欠片もない悲愴感漂う表情と、目の下に色濃くついたくまがそれらを台無しにしている。


 おまけに、姿勢も悪い。

 鏡に映った少年はすっと背筋を伸ばして立ってみせるが、すぐにへロリと前傾姿勢になる。

 きっとこいつの身体には芯が入っていないに違いない。


「……これが俺、なんだよなぁ……。うーん、駄目だ。全く見憶えがない」


 着古した風のミリタリージャケットにはフードが付いていて、背中には胸を張った鳩の刺繍ししゅうが施されていた。ポケットを漁ってみるが、中身は空。記憶も私物の一つも持ち合わせていない全ロス状態とあっては、もはや「んだ」と言っていい状況だ。


「……はぁぁ、これからどうしたものかな。行く当ても頼る当てもないし──ん?」


 鏡から目を背けた少年は、鳩のフンなる不運の象徴とはさよならしたジャケットの袖に腕を通す。そこでふと、鏡に映った自分の首筋に目が留まった。


 右の首筋──そこに、先ほど見た回路図形ダイアグラムのタトゥーが刷り込まれていることに気付いたからだ。


「……これ。あのお姉さんの首にあったのと、同じ……?」

 

 思い返すとあの女性警官だけでなく、街で見かけた人々の首にも同様のタトゥーがあったことを思い出す。彼らは度々その首の回路図形ダイアグラムに触れては〝何か〟を開いていたのだ。

 

 これは何だ? 

 少年が何気なくその回路図形ダイアグラムに触れた、そのとき──


「──うわっ!」


 ブォン、と鼓膜の奥で音が鳴ったのと同時、眼前に奇妙な『表示窓ディスプレイ』が現れた。


 ──〝《KOSM‐OSコスモス》 activated. Hello,new world.〟──


 A4サイズの表示窓ディスプレイは二つの文字列を宙に打ち出したあと、待機画面に切り替わった。

 その青く透き通った半透明か半実体かの〝板〟は、少年の視線上に固定されたままだ。


「な、何なんだよ、これ……⁉」


 突如目の前に出現したSFチックな代物は手で振り払っても、瞬きしても消えてはくれず、ならば振り向いたらどうかと、身体を勢いよく一八〇度反転させたところで──


「あっ」


 丁度、少年の後ろを通ろうとした男の顔面に表示窓ディスプレイが直撃した。


「おい、危ないだろ! 気を付けろ!」

「す、すいません……」


 男は画面を顔面に貫通させたまま怒鳴ると、表示窓ディスプレイをすり抜けトイレの個室へと消えた。

 

 もう一度振り返って見た鏡には、自分の顔と、透過する形で表示窓ディスプレイが反射している。

 そこに映る瞳の虹彩は黒から翡翠ひすい色へと変わっていて、微かな燐光を放ってもいた。


「……もしかしてこれ、俺の眼が投影機プロジェクターになってるのか? しかも操作できるみたいだ」


 ホーム画面には幾つかのアプリ──

 ネット、通話、ID、電子マネー、SNS等々──が表示されていた。

 

 なるほどこれなら情報収集に役立つかもしれない。

 そう得心する一方で、

 どうやら自分はこれらが〝何なのか〟の判別はつくようだ、と気付く。


 記憶というモノはそれぞれの入れ物が違うと聞いた憶えもある。

 たとえ自分の過去を忘れてしまっても、パンはパンであるとか、服の着方や九九の解き方なんかは憶えているとか、そういうやつ。

 記憶喪失モノの鉄板だ。


 だがその割には、この世界で見かける光景になに一つピンと来ることがないのは、一体どういうわけなのだろう? 

 

 この世界はパンと何が違うのか? 

 そもそもこれは、本当にただの記憶喪失なのだろうか?


 ……まあ、頭を捻って思い出せるくらいなら、最初から苦労はしない。

 

 さて何から手を付けるべきかと指先を迷わせていると、定番のアプリに混じって一つだけ、プルプルと自己主張する用途不明のアプリがあることにも気が付いた。

 それは匣の中からうさぎがぴょこんと顔を出したデザインのアイコンで、注視していると、そのタイトルがふっと画面上に跳び出ポップアップした。


「……何だこれ? なびっと──で、いいのかな? どっかで聞いたような……」

 

 そうだ。確か、天使がなんとかって。あの女性警官が言っていたやつだ。


「──〝案外、助けになってくれるかも〟──か。まさかね……」


 その言葉を本気にしたわけではなかったが、まさかとは思いつつも、少年は半信半疑でそのアイコンに触れてみる。

 人差し指の先に、ブルッ、とした振動が伝わった。

 

 そしてその直後──

 少年は〝それ〟と出逢ったのだ。



『──おかえりなさいませ、波止場はとば皐月さつき様──』



「…………は?」


 人だった。


〝ヒト〟かどうかは定かではない……が、前後関係を無視して言うのであれば、今、少年の目の前には人型の──〝少女〟の姿があった。

 

 まるで二次元の壁を越えるかのように、表示窓ディスプレイの内からこちら側へと抜け出てきた少女の頭にまず見えたのは、耳だった。

 

 天を突くように逆八の字にピンと跳ねた、ウサ耳だ。


 次に、横髪の長いスミレ色の髪が見え、まぶたを伏せた少女の横顔が見え、胸部を大きく開いた和装風の袖付きレオタードに身を包んだ肢体が、ぬっ、と現れた。

 宙に生まれ落ちたその少女は、最後にヒール系の下駄で表示窓ディスプレイをカツンと蹴ったあと、膝を抱える姿勢で丸くなり、宙にふわりと留まった。

 そして目を瞑ったまま、『おかえり』と言ったのだ。


 あざといウサ耳と、幼顔に似合わぬあでやかな華衣装。

 そのシルエットは、まるで──


「──バニー、ガール……?」


『このたびは希望コンシェルジュアプリ《NAV.bitナビット》をご利用いただき、まことにありがとうございます。波止場様の担当コンシェルジュ──Muミュー‐2001は現在、初期化状態より解凍中です。再起動までしばらくお待ちください──』


「え、なに? 何の話? 波止場って、もしかして俺のこと……?」


『──契約内容の更新を確認。新規アーカイブを作成。人格プロトコル再構築。コスモスネットワークに接続完了──《NAV.bit》再起動まで、3、2、1──』

「ちょっと待って、それ、何のカウントダウン……⁉」


 聞き慣れない単語の羅列に困惑する少年をよそに、推定バニーガールは突然に──



「……ん。おやー、ここは……?」



 琥珀こはく色の瞳と紅玉ルビー色の瞳を、

 それぞれ左右にパチリと開いて覚醒する。


「──それに妙な浮遊感──っ、んぎゃ!」


 ──そして、落ちた。


「うわっ、お尻冷た! 水ッ⁉ なんで私、トイレの洗面台でお尻洗ってるんですか⁉ 

 てか、このっ誰ですか! 

 私をこんなとこに呼び出し腐った人は! 

初回起動アクティベートのときは周りに人や物がない開けた場所で』って、マニュアル読んでないんですかっ⁉」


 オッドアイのバニーガールは剥きだしのお尻を洗面台に突っ込んだ格好のまま、指先までを覆うように大きく膨らんだ羽織の袖を振って、猛烈抗議してくる。


 対して少年は手のひらをこめかみに当て、少し考えた上で…………なんだこれ?


「……あー、えっと、ごめん……でもって──誰? ってか君、なに……⁉」


「なに、とは。自分で呼び出しておいて妙なことを聞きますねー?」

「呼んだ? 俺が? もしかしてさっきのアプリが……いやいや、そんな馬鹿な……」


 さっきから彼女が口にしている言葉の意味が、少年には何一つ理解できなかった。


「──ま、いいでしょう。最初はツカミが肝心ですからねー、ええ」


 バニーガールはよく解らない納得を口にしつつ、洗面台の縁に器用にも立ち上がると、「えー、おほん」と芝居がかった咳払いを一つ挟んで、こう言うのだ。


「私はあなた様の〝希望〟の実現をナビゲートする希望コンシェルジュ、ツキウサギ。


 ──さあ、私と一緒に欲望の限りを叶え尽くしましょう!」



 # # #



 地図の中心に、コインを一枚置いて砕いたような景観の水上都市メガフロート──『六號ろくごう』がある。

 

 その広大かつ歪な円盤を基点に、一から五までの番号が割り振られた『號』と呼ばれるまた別の都市、あるいは土地が環状に拡がっていて、各々が独立した〝色〟とコミュニティを世界地図の上に築き上げている。


 そして、それらの周辺を取り囲むように世界の縁を閉ざした海の向こうには何もない。


 終点が定められた円形の海に浮かぶ、六つの號からなる巨大都市群メガロポリス

 

 ──拡張都市パンドラ。


 それこそが、少年が目の当たりにしたこの世界の姿だった。




「ふむふむ、なるほど。記憶喪失ですかー。それは大変ですね。──あ、私はこの黒胡麻ソルベサンドを一つと、フルーツジュレオで。えっ、これニンジン入ってるんですか? じゃあ抹茶の方でお願いします。

 ──です、会計はあちらの波止場様持ちで」

 

 パンドラ六號、第四区──出店の並ぶマーケットを兼ねた屋外広場にて。


KOSM‐OSコスモス》の表示窓ディスプレイと睨めっこしていた少年──波止場はとばは、出店の前で丸い尻尾を振るバニーガールに手招きされ、世界の俯瞰ふかん図を表示していた地図アプリを閉じた。


「ちょっと、勝手にうろつかないでよ。……てか、俺が払うの、それ?」

「当たり前じゃないですか。波止場様は私の契約者様なんですから」

「……はぁ。出逢ったばかりのバニーガールにたかられるなんて、最悪だ」

「等価交換と言って欲しいですねー。物忘れの激しい契約者様にここパンドラのことや、その《KOSM‐OS》について教えてあげたのは誰ですか?」

「……しかも弱みを突いてくる」


 渋々ながらカウンターに置かれた会計用デバイスに手をかざすと、ポコン、と支払いが完了した音が鳴り、表示窓ディスプレイに表示された電子マネーの残高が減るのが解った。

 

 どうやら首の回路図形ダイアグラムと連動している《KOSM‐OS》なるハイテクは、人々の脳に直接刷り込まれた生体情報端末、とのことだった。生体制御により外部のツールに頼ることなく気軽にネットワークに接続することが可能で、アプリの操作や個人情報の管理なんかも一括で担うことができる電脳ツールなのだと、このバニーガールは言っていた。


 パンドラの住人にはなくてはならない、あって当たり前の機能なのだ、と。


 当然、波止場はそんな《KOSM‐OS》の存在など全く憶えてはいなかったのだが、会計の仕方や地図の操作なんかは意外にも身体が憶えていた。それはつまり、波止場が過去に《KOSM‐OS》という異物に慣れ親しんでいたことの証明に他ならない。


 そして、なんだ俺お金持ってるじゃん、と会計してからふと気付き──


「残高があと、一一〇八エン……これ、死活問題だよなぁ……」

「んはっ、熱視線。そんな見つめてもあげませんよ?」

 

 死活問題を加速させた張本人は、黒胡麻アイスを挟んだクレープとゼリー状の抹茶オレを交互に味わいながら、マーケットの活気と誘惑とを愉しむようにふよふよ飛んでいる。

 

 頭の天辺にウサ耳こそ生えてはいるものの、天使の翼は生えていない。

 だというのに彼女にはまるで重力というものを感じないのが、波止場には不思議でならなかった。


「正直他にも聞きたいことは色々あるんだけど……ええと、ツキウサギさんだっけ? 結局君って……何なの?」


「──です。私たち《NAV.bitナビット》は、人間様が快適なパンドラライフを送れるよう設計された、コンシェルジュアプリです。

 パンドラを支える最大級の情報インフラ──『コスモスネットワーク』の高次運用システムを基に、という一点に特化した夢のサポートAI。

 キャッチコピーは『あなた様のニューロンに住まう電脳天使』です」


「……アプリ、ね。つまり君は──人間じゃない、ってこと?」

「です。とはいえこの柔肌ボディはナマモノ同然。ですので、大切に扱ってくださいね」


 彼女は宙で着物の袖を振って振り返る。内ももを擦り合わせるように閉じたむっちりとした太ももは血の通った色をしていて、確かに、ナマモノって感じだ。


「そもそもなんでバニーガール?」

「古くから夢の国への案内人は〝兎〟と相場が決まってますからねー。あとは需要と供給。波止場様みたいな思春期回路直結型男子は、こういうコスプレがお好きでしょう?」


 そう言って、ツキウサギは身を滑らせ波止場の懐にススー、と急接近。

 ぷにん、と天体級の立体物が二の腕と触れ合い、その圧倒的なまでの弾力を相手にキョドる思春期回路。


「──ちょっ、柔らか! じゃなくて、近い近い……俺の腕でドリブル決めないで……!」

「んはっ! どうです? 喋って楽しい、触れて嬉しいバーチャル系バニーガールちゃんのリアルな感触は──あ、どうせなら味の方も確かめてみます?」

「……た、確かめなくていい!」


 舐めるようにまとわりついてくる誘惑から逃れようと身を引いたところで、波止場は足をもつれさせ転んでしまう。

 目が覚めてからというもの、こんなことばかりだ。


「んはは。これはまた遊び甲斐のありそうな契約者様ですねー。まぁからかうのはこれくらいにしておいて、トイレで私をびちゃびちゃにした件については水に流してあげましょう。……お、これトイレだけに」

「……おじさん回路でも積んでるんじゃないの、このアプリ」


 彼女の中身はともかくとして、和風にアレンジされたレオタードベースの衣装は上も下も露出が凄まじく、正直、目のやり場に困った。帯と襟とに押し上げられた柔肌の大福×2は隙あらば胸元でふるふる揺れているし、尻尾の生えたお尻なんてほぼ丸出しだ。


(……こんなえっちな子がコンシェルジュって、どうなのよ。昔の俺……)


 人間とそれに付き従う《NAV.bit》という構図自体は、この街では至極ありふれている。

 

 ロボット系の外見をした卵型エッグスや、マスコット系の妖精型ノームなど。如何にも電子ペットといった姿かたちの《NAV.bit》が一般的だが、中にはツキウサギのような人型ドールもちらほらと見かけることがあった。


 デザインに共通しているのはその頭部にはウサ耳が生えているということで、とりわけ人型の《NAV.bit》は皆一様にバニーガールスタイルの衣装に身を包んでおり、どうしても目のやり所に困る。

 

 特にツキウサギのような和装系のバニーガールは珍しいらしく、通行人がチラチラと彼女に目をやっているのがよく解る。人外のモノであることを考慮した上でも彼女が魅力的に過ぎる女の子(?)であることは間違いないのだが、波止場としては先ほどから危険物を取り扱っているような気がして、どうにも落ち着かなかった。


「そういえば」


 と、波止場は彼女の谷間に覗いたブラックホールから目を逸らしつつ、


「ツキウサギさんって俺の担当、だったんだよね? 昔の俺のこと、何か知らないの?」


「さあ」

「さあ、って……」


「私とて初期化から目覚めたばかりの身ですからねー。必要な機能や知識はバックアップがあるので問題なしですが、波止場様に関する個人ログは一つも残ってないんです。過去に契約してたのは間違いないですが──ま、記憶喪失同士傷を舐め合っていきましょう」


 ツキウサギはまるで他人事のように言うと、口端についたアイスをペロリと舐める。


「それで? 波止場様はこれからどうするつもりなんです?」

「どう、って。どうもこうも……」


 と、波止場は思案顔で空を仰いだあと、今にも泣きそうな顔で肩を落とした。


「……どうしよう?」



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