くだらない小説と言われて

紫鳥コウ

 1 あなたは、読者の興味を惹かない冒頭を書くなと言った。

 2 読者の興味を惹かない冒頭を書くなと、あなたは言った。


 一緒に作業をしようと鹿野しかのに誘われたので、スマホを充電器に繋いでパソコンの電源を入れた。半分ほど減ったインスタントコーヒーを飲み干して、新しいものを作ろうと思ったが、ポットのお湯が切れていたのをいまさらながらに思いだした。


 太平洋側の都会の冬も寒いのだということを知ったのは、十八歳の時に一人暮らしをはじめたときだ。それまで大雪が降る日本海側で学生生活を送っていたため、寒さ厳しいのは当たり前で、きっと「都会」は二月も暖かいのだろうと思っていた。


 冷たいコーヒーを飲みたいと思えないほどの寒さが、ここにある。朝までいれていた暖房の残り香は、もうすっかり退いてしまっている。昼間はエアコンを使わないと決めていたのだが、もうすでに耐えられる気がしない。今年の二月は昨年より寒い。そう、毎年のように感じている気もする。


 昨晩、「柴島しばしまさんの文章が好き」という旨の感想をいただき、とても気分がいい。文章を褒められるのは、本当に嬉しい。しかしいまは、文章に対して試行錯誤をしている時期だけに、変節した果てのわたしの文章が嫌われるのも時間の問題ではないかという不安もないことはなかった。


 閉め切ったカーテンを開けると、雪曇りの中に、大学寮が寂しそうにそびえている。この光景もすっかり見慣れてしまった。


 大学寮は留学生にだけ開かれているらしく、わたしは部屋を借りることができない……というより、社交性が皆無で、数人の親しい人としか話すことのできないわたしは、大学寮に住むには向いていないと思い、申し込んでいないだけなのだが。しかし、朝も夜も留学生の姿しか見ることがないので、聞きかじった情報は正しいのだろう。


 一年くらい前までいたオンライン授業のために酷使したパソコンは、なかなか立ち上がってくれなかった。デジタル時計を見ると、2時を回ろうとしていた。昨年の秋にようやく買い替えることができた椅子に深くもたれかかると、腰に鋭い痛みが走った。


 長いあいだ患っている腰痛は、一向に治る気配はなかった。鹿野からは整体に行くことを勧められているのだが、そんな余裕はどこにもなかった。調べてみたところ、近所の整体は「通い続けること」が前提となっており、実家との行き来が多くなったいま、予定をすり合わせることは難しい。


 ようやく立ち上がったパソコンだが、動作は遅く、作成中の新刊のファイルはなかなか開いてくれなかった。これ以上、腰痛は激しくなることはなかったが、無理をすれば歩けなくなりそうな気配があった。インスタントコーヒーを作るなんてことは、できそうにない。テレビの前に置いたスマホを、体勢に気を付けながら慎重に充電器から取り外し、約束した時間が来るのを待った。


 まだ十五分もあることを確認し、アラームをかけて、読みかけの新書に目を通しはじめた。大学院を舞台にした小説を書いているいま、登場人物たちが専門としている分野の知識を、蓄えておく必要がある。


 西洋哲学、国際法、アフリカ史、イスラーム史、日本古代史……今思えば、わたしの研究は毎年のように「専門」が変わっていた。だが、国際法と西洋哲学を除き、歴史学を対象にしてきたのは確かだ。家庭の事情で中断してしまったが、およそ8年間の研究生活において、最後の方に取り組んでいたのは、西洋哲学を方法論に用いた、「知」とはなにかという研究だった。


 さらに、長らく放置していたものの、急に「PV」が伸びた連載を再開したのだが、序盤から西洋哲学のエッセンスを駆使した小説だっただけに、そのテイストを維持することが必至だった。そのため、西洋哲学を学び直す必要があったし、数学的な知識をも要求する箇所もあり、たいへん苦労していた。


 しかも、張り巡らせた伏線を回収するために、さらなる伏線を積み重ねなければならず、今年だけでは終わりそうもなかった。それでも、最新話を投稿するたびに読んでいただけるということもあり、毎週土曜日の更新を途切れさせないように書き続けていた。


 しかし、これから先、まったく読まれなくなったとしても、物語を紡いでいくことだろう。


「いま読まれなかったとしても、読んでもらえるかもしれないから、その可能性のを閉じるべきじゃないよ」


 鹿野から言われたこの言葉は、わたしの創作活動の指針になっていた。事実、その「長らく放置していた」小説というのは、休載中に、突然「PV」が跳ね上がった。投稿した作品は、いつ読んでいただけるか分からない。だから、未来の読者のためにも書き続けるという選択肢は消えない。そのスタンスを崩してはならない。


 そしていま、「大学院を舞台にした」小説は、順調に読者を減らしている。しかしそれには、しっかりとした理由がある。正直、このことは口外するべきではないと思うのだが、実際、多くの物書きが実感していることでもあるだろうし、もうSNSに戻る気もないので、恐れる必要はないだろう。

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