第六話 

「今日のご用はなんでしょうか」

「え……えーと、なんだったかな、甚六さんと話したら忘れちゃった」

 そもそも用などないのだが。

「そうだったんですか。ちょっと期待しちゃって」

「え、何を?」

「単に私に会いに来てくれたのかなと」

 そうです! そうに決まってるじゃないの!

 ……などと言えないのがお恵の可愛らしいところである。

「あ、じゃあ、そういうことにしましょう。松太郎さんに会いに来たの」

 さりげなく本音を言う辺りもお恵の可愛らしいところだ。そして照れて赤くなる松太郎も可愛い。

「あ、あの、さっきの甚六さんですけど」

「はっ、はい」

 お互いに緊張してどうする。徳屋の主人が物陰から二人を見て忍び笑いをしているが、彼らがそれに気づくはずもない。

「以前うちの松清堂で調剤師をしていました」

 それ、さっき言ってたぞ、と徳屋の主人はニヤニヤする。

「はい」

「それで専門は痛み止めと麻酔薬でした。暗黒斎先生の所へ卸すような特殊なものはほとんど彼にお願いしていました」

「暗黒斎先生って、切ったり縫ったりっていう手術もなさるって聞いたんだけど」

「そうなんです。そのまま切るととんでもなく痛いらしくて、みんな泣き叫んじゃって暴れるから却って危ないらしいんです。それで痛みを軽くするために麻酔を使うんです。患者さんが暴れませんから」

「甚六さんはもう松清堂を辞めちゃってたの?」

 徳屋の主人がお盆にお茶を二つ入れて持って来た。

「二人ともそんなところで突っ立ってないで、そこの縁台に座って話しなさい。お茶も淹れて来たから」

 松太郎が慌てて「す、すみません!」と謝ると、主人は笑った。

「いいっていいって。せっかくお恵ちゃんが来て下すったんだ。店番は私だってできるさ。松太郎は少し休憩しなさい」

「徳屋さん、ありがとう。お茶いただきます」

 お恵が素直にお茶を受け取って縁台に座ると、松太郎も小さく頭を下げてお恵の隣に座る。

「ええと、どこまで言ったかな。そうそう、甚六さんは松清堂が火事になる前の年、一昨年に辞めたんです。松清堂が火事になってから麻酔を作る人がいなくなって大変でした。でも今は暗黒斎先生が直接甚六さんから仕入れているみたいなので大丈夫らしいです。いずれにしろもう松清堂はありませんし」

「甚六さんておかみさんいないの? 子供が大勢いてもおかみさんがいたら柏原まで送って来られるじゃない?」

 お恵は小さく「いただきます」と言って、主人の淹れてくれたお茶を口にした。

「おかみさんは働きに出ているらしいですよ。だから甚六さんが子供たちの面倒を見ているらしいです。子供と言っても一番上は十二歳ですから、五人で柏原まで来てもいいと思うんですけどね」

「心配なのね。十歳のあたしが一人で楢岡まで行くって言ってるのに。男の子五人だし、あたしより大きな子もいるのに。きっと一番下の子がまだ六つだから心配なのね」

 お恵はけろりとした調子で言った。

「本当に一人で大丈夫ですか?」

「あたしなら平気よ。きっとおかみさんが働きに出ているから、甚六さんは早く子供たちに家業を手伝って欲しいのね」

「そうだと思います。上二人は年子で十二歳と十一歳、そこから一つ置いてまた九つと八つ、また一つ置いて六つなんです。みんな生まれた干支に生まれた順の番号を振って、上から卯一郎ういちろう辰二郎たつじろう午三郎うまさぶろう羊四郎ようしろう酉五郎とりごろうです」

「わかりやすいのね」

 お恵が笑うと、松太郎も笑った。

「そうなんですよ、だから私もすぐに覚えました。しかもそれぞれの性格が干支の動物に似ていて」

「そうなの?」

「卯一郎はうさぎみたいに気が弱くて寂しがり屋だし、辰二郎は行動派で大胆です。午三郎はボーっとしているようで薬草や薬には人一倍詳しい。羊四郎は羊のように優しくてふわふわした性格です。酉五郎は本当に鶏みたいにせっかちで落ち着きがない」

 そこまで言って松太郎は笑い出した。お恵もつられて笑ったが、これは松太郎のさりげない気配りだろう。いきなり五人もの子供を預けられて誰が誰だかわからなくならないよう、今のうちに少し知らせてくれているのだ。さすがに大店のお坊ちゃんは人をよく見ている。

「ねえ、松太郎さんて、おうちが火事で焼けてしまってから徳屋さんに来るまでどうしていたの?」

 松太郎は少し寂し気に目を伏せた。

「その日は勝五郎親分が番屋に泊めてくださいました。でも行く当てもなくて。仕方なく楢岡の口入屋に奉公先を求めてお清と二人で行ったんですが、そのときに口入屋が私たち兄妹を引き離して売り飛ばすと聞いたので」

「誰から?」

 まさかここでその名前を聞くとは。

「その時牢にいた同い年の男の子です。名前は凍夜」

「凍夜? 凍夜ならうちの長屋にいたのよ」

「えっ? そうなんですか? 凍夜が私たちを逃がしてくれたんです。その時に悠さんが栄吉さんと一緒に私たちを匿ってくれて、一時栄吉さんのところでお世話になってました」

 なんと! 同じ長屋に松太郎がいたなんて、全く気付かなかった。

「そうは言ってもたったの一日で。悠さんが子供の頃にこの徳屋さんにお世話になったからと言って私をここに紹介してくださったんですよ。悠さんは昔ここの専属絵師だったそうなんです」

 なるほど、そういうことだったのか。お恵は妙に納得した。

「お清ちゃんも確か悠さんが確実なところにお世話したのよね」

「ええ、柏茶屋の蜜柑太夫さんのところにお世話になっているらしいです。なんでも悠さんと蜜柑太夫さんは何か特別な仲らしくて」

 と、そこまで言って松太郎は勝手に赤くなった。少々お恵を意識したのかもしれない。お恵もそれを感じてか、なんとなく俯いてしまった。モジモジする二人を、影から徳屋の主人がじれったそうに見ている。

「あ、甚六さんの家を教えてませんでしたね。ここから楢岡に向かう街道に一本松があるのを知ってますか。楢岡に入る直前なんですけど」

「知ってる。峠を下りたところよね」

「そうです。その一本松のところに左に入る細い道があるんです。そこは甚六さんの家に行くためだけの道なので、他にはつながってません。その道はちょっと坂道ですけどそこを上って行くと甚六さんの家に着きます」

「わかった、ありがとう。そろそろお仕事に戻らないとね。お邪魔してごめんなさい」

 お恵が立ち上がると、松太郎も慌てて立ち上がった。

「いえ、あの……また来てください」

「うん。そうする」

 お恵は徳屋の主人に「ご馳走様でした」と挨拶すると、名残惜しそうに松太郎を振り返ってから角を曲がって行った。

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