第37話 同じ煙、違う人

 煙草は吸うけど、彼女の前では吸わない。


 彼女、陽子は線の細い声なのに、やたらに力強い。今どきじゃないけど個性的な美人。そんな逸材が高校の軽音部なんかに収まっていたから、俺のバンドに引っ張って来て早5年。ギターとボーカルやってた俺がボーカルを辞めて、陽子をボーカルとした4人バンドになった。運命の声だと思った割には思ったようにことは進まないけれど、それを含めて悪くないと思っていた。


「喉、傷めてるのそれのせいじゃない?」


 そう言われただけで、陽子はきっちり煙草を止めた。俺は声質が変わったようには思えないけれど、その潔さはかっこよかった。だから、俺は陽子の前でだけ、煙草を吸わない。一緒に住んでいるから時々辛いけど、そんなのはどうでもいい。


 たとえ、メジャーになれなかったとしても歌い続ける方法はあるし、贅沢はできなくてもそれを笑い合える人と付き合えている。やりたいことと、分かち合える人がすでにいる。それってすごく幸運なことだと俺は思っていた。


「話しがあるの」


 そう陽子に言われた時、彼女の目の中に映っている俺は揺れていた。ちょっと、わかっていた。あー、なんかずっと落ちてんなって。聞いてみても、いつも「バイトが」としか言わない。時給とかのお金の話はなかった。バイトのシフト変更をお願いするのが大変だったとか、バイトのメンツに合わない奴がいるとそういうことをおどおどしながら話してくる。よくわからなかった。人間関係が嫌なら、バイト先変えればいいじゃないかといっても響かないから。陽子の中で優先順位がどうなっているのかがいまいちわからなかった。歌うことが好きなら、それを優先させるための行動になぜ彼女は罪悪感を持つのだろう。


「何?」


 聞き返した俺の声はちょっと冷たかった。けれど、陽子はなぜか笑った。


「別れよう。バンドも抜ける」


 想定外だった。


「どっちも?」


「うん。バイトも辞めて、一度実家に戻る」


 全部辞める、というのが幼いと思った。さて、どうやって説得しよう。2歳年下の陽子にもう一度向き合った。


「何で全部? まずは一つからで良くない?」


 陽子は首を振った。


「だめ。全部繋がってるの。どれか一つ残す、もできない。バイトはもう辞めるって言ってある」


「繋がってる大元は俺?バンド?」


 ふはっ、と陽子は笑った。笑っているのに泣いていた。


「歌だよ。うーた」


「ふうん」


 面白くない。


「じゃあ、バンドだけ抜けて違う輪にしてみればいいじゃん」


「何そのお試し。いらないよ。なんのためにするかわかんない」


「俺が好きだから?」


 潤んだ目で、笑いながら睨みつけてくる。かわいいな、と思う。とりあえず今日を乗り切ればいける気がする。


「触らないで」


 思いがけず強い声で、陽子の顔に伸ばした手が止まった。


「茶化さないで。わかって。私は今まで一度も、別れようも、バンドを抜けたいも言ったことないでしょう」


「・・・溜め込み過ぎて極端に走っている?」


「そうかもしれない。でも、だからといってもう止まれない。散々、考えたんだよ。ここに来るまで、すごく苦しかったよ」


「俺、嫌われた気はしないんだけど?」


「好きだよ。でも無理になったの」


「無理って。バンドも?」


「うん。好きだけど、無理」


 俺は頭を掻いた。


「よくわからんことを言いますね」


「これが、伝わらないから、無理なんだよ」


 ごめんなさい、と小さく聞こえた。別に謝ってほしいわけじゃない。


「煙草、簡単にやめられるくらい真剣にやってたのに?」


「そこ? だって煙草止めたらバンド売れるよーって言われたら、和馬も辞めるでしょう?」


「何で? 煙草くらいでそこが変わることなくない?」


 陽子は、はっきりと笑顔になった。


「悪い」


「謝ることないよ。煙草持ってるよね?」


 黙っていると、陽子の手がそっと、俺のズボンの後ろポケットに伸びた。俺の煙草をそっと出してきて、目の前に掲げた。


「吸お?」


 陽子の目は揺らがなかった。まいったな。吸いたくない。吸ってしまえば、同じ煙を吐いても恐ろしく他人である事が、はっきりと浮かび上がりそうだ。




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