ロストタイムオーダー

第１話

「時間を取り戻しに行こうよ」

　物で溢れている部屋の中、その中心だけがいびつに空白になっていて、そこに私と穂野が居た。私と穂野を囲んでいるのは大小さまざまな瓶や、紙の束、精密機械の基盤たち。そのどれもこれもが穂野の研究結果に結びついているものだった。瓶は忘れてしまった記憶、紙の束は時間、精密機械の基盤は記憶の辿る道筋。私と穂野の手の中にはコルク。そのコルクにはにおいが結びついている。

「ねえ、穂野」

「どうしたの？　今更怖くなった？」

　私は首をふる。恐怖はなかった。どちらかといえば期待とか、明るい感情を持っていた。

　今から、私たちは過去を取り戻しに行く。タイムトラベルとかみたいなＳＦじゃない。魔法みたいなファンタジックなものでもない。もっと現実的で、理想的なもの。ほんのちょっぴり、アクセント的に魔法みたいな理想が加えられているかも。今から行われるのはそういうもの。私と穂野の、過去のおはなし。

　プルースト効果、というものがある。

　フランスの作家、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」という小説の中で、主人公がマドレーヌを紅茶に浸したとき、その香りで幼少期を思い出す、という一節から元となりつけられた効果のことである。例えば、防虫剤の香りを嗅ぐとお婆ちゃんの家のことを思い出す。ラベンダーの香りを嗅ぐと初恋の人を思い浮かべるだとか、とある香りを嗅ぐと特定の物事や人を思い出す。それがプルースト効果だ。

　それを利用して、穂野は疑似的に忘れてしまった記憶を思い出すことのできるものを作った。今日はその実験ということだった。

「いや、長かったよ。今日まで、長かった」

　穂野は噛みしめるようにコルクを見つめる。そのコルクには私の、穂野の記憶が、匂いが宿っている。

　私はコルクの質感を確かめるように手の中で転がして、未来に思いを馳せる。今から過去を思い出すというのに未来を考えるなんて罰当たりだな、なんて考えて私はコルクをしっかりと指の腹で持った。コルクは私の記憶を持っているとは思えないほどに軽く、なにも入っていないように思えた。

「はじめよっか」

　穂野がおもむろに私に声をかける。私はうなずいて、唾を飲み込んだ。乾燥した口腔内に粘着質な唾は、嫌なくらい主張してわずかな不快感を助長させた。

　穂野は立ち上がって、そこら中に散乱している瓶をかき集める。ちらりと私の方を見て、瓶を見比べた。

「浅見は……過去は重そうだから、ちょっと大きめの瓶にしといてあげる」

　どうやら瓶の大きさで今から取り返す過去の大小が決まるらしい。

「無用な心遣い感謝しとく」

「感謝しといて」

　私たちはそんな軽口を叩いて、瓶を眼前に置く。わずかに色のついた瓶は美しく世界を映していた。

　穂野は深呼吸を繰り返し、意を決したように瓶を持った。私もそれに倣って瓶を持つ。記憶の中よりも少しだけ軽いそれは、私の手の中で光を屈折させている。

「始めようか」

　彼女は自分に言い聞かせるようにそう呟いて、瓶をコルクで詮をする。何度かそれを振って地面に置いた。続けて、目を瞑って呪文のような何かを唱える。まるでファンタジーだった。いや、これはもうファンタジーだ。ファンシーと言ってもいいだろう。そういう空想や、理想に近い儀式だった。

「永久には宝石、記憶にはにおい、、明日の冷たさ、過去の温もり、罪には蓋を、罰には褒美を、有には無を、夢には現実を、現実には絶望を、絶望にはほのかな温かさを」

　彼女がそっと目を開ける。瓶を持ち上げて、コルクにふっと息を吐く。吹かれた勢いで、もったりとした透明な液体が瓶の中に溜まっていく。それは水のようでもあったし、飴のようでもあった。記憶の密度とか比重とかがその透明の中に隠れていた。

「それじゃあ、お先に」

　彼女はそう言って、コルク栓を開けて一思いにすべて飲み切った。甘い、甘い、ストロベリーのような香りが漂う。穂野は全身の力が抜けたようにぱたりと倒れた。