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 横前駅へ向かっていると、後ろから後輩の向井がやってくるのが見えた。横断歩道の信号がまもなく赤に変わる。急いで渡ろうか。そうすれば、向井は追いかけて来ない。しかし、駅前の交差点にある横断歩道は長くて、駆け足でも渡り終える自信がない。


 短い葛藤のあと、奈江は横断歩道の手前で足を止めた。するとすぐに、向井が追いついてくる。


「早坂先輩、おつかれさまですっ。寒くなりましたねー。今年ももうすぐ終わっちゃいますね」


 寒空に向かって白い息を吐きながら、向井はあいさつ代わりにそう言う。


 奈江も何か言わなければと、考えを巡らせる。


 クリスマスが近いね。デートの予定とかあるの? そんなことを言ったら、逆に質問されてしまうだろうか。かといって、向井の趣味は知らないし、同じ毎日の繰り返しの中では目新しい話題がない。


 結局、いつも頑張ってるみたいだね、と、向井の活躍は違う課まで聞こえてるってねぎらうぐらいの言葉しか浮かばなくて、ようやく口を開きかけたとき、彼の方が先に話しかけてくる。


「先輩って、横前勤務長いですよね?」

「新入社員のときからだから、長い方だよね。どうして?」

「いやー、転職とか考えなかったのかなって思いまして」


 向井は気まずそうな表情で、後ろ頭に手を置く。


「適職とは思ってないけど、辞める理由もなくてって感じかな」

「まあ、そうですよね。可もなく不可もなくって感じの会社ですし」

「仕事で何かあるの?」


 不満があるんだろうか。向井の口ぶりからそんなふうに感じて問うと、彼は周囲をサッとうかがって、声を押し殺す。


「転職しようかって思ってるんですよ」

「そうなの?」

「今すぐにって話じゃないですけどね。今の勤務形態なら、もっと条件のいい会社に行ける気がするんですよね」

「それはそうかも。向井くんは優秀だから」


 ようやく信号が青に変わって、奈江はホッとしながら歩き出す。


 悩み相談だったら、苦手だ。あたりさわりのない返事しかできない。自分の言葉が相手の人生を左右させてしまう責任は、自分には重たすぎる。


「人生の転機って、何回もあると思うんですよ」


 横断歩道を渡りながら、彼はなおも話しかけてくる。


「転職がいい転機になるならいいよね」

「ですよね。あ……、なんか、すみません。こんな話。当分まだいますから、全然大丈夫ですから」


 何が大丈夫なのかわからないが、彼なりに気をつかったのだろう。気まずそうに髪をかいて、口をつぐむ。


 奈江は横断歩道を渡り終えると、右へ行こうとする彼に、左を指差しながら声をかける。


「寄りたいところがあるから、ここで」

「どこ行くんですか?」

「本屋に」

「欲しい本でもあるんですか?」


 詮索好きな彼の目に好奇心が浮かぶ。ついてくる気じゃないだろうかと、思わず警戒してしまう。


「ちょっと調べもの」

「じゃあ、時間かかりそうですね。俺も行くところがあって。気をつけて帰ってください」


 今日はあっさりと引き下がるようだ。奈江はあんどすると、彼に背を向けて歩き出す。


 駅へ向かう人の波をさけながら、デパートにある本屋へとたどり着く。客の姿はまばらだが、専門書のコーナーへ行くと、ますます人がいない。


 メモを見ながら、目当ての書籍を探していると、意外とすぐに見つかった。一冊、二冊と腕に抱え、ほかにも興味をひく書籍がないかと、背表紙をじっくり眺めていると、隣に誰かがやってくる。


 専門書のコーナーには誰もいなかったはずだ。距離感が近いような気がして、すぐさま離れようとすると、「早坂さん」と声をかけられた。


「え……、あ、猪川さん?」

「やっぱり、早坂さんだった。エスカレーターですれ違ってさ、もしかしてって思って戻ってきたんだよ」


 そう言って、本屋のロゴの入った袋を秋也は持ち上げてみせる。彼も本を購入したようだ。


「アールヌーボーに興味あるの?」


 奈江の持つ本を見て、秋也は不思議そうに言う。


「あ、これは……ちょっと勉強してみようと思って」


 あわてて抱きかかえるが、アールヌーボー芸術、と大きく書かれた文字は隠しきれない。


「それ、入門書としてはいい本だよね。アールヌーボーを代表する作家とその作品がよくわかると思うよ。俺も持ってる」

「猪川さんも?」

「それ関連の本なら、らんぷやにたくさんあるから、休みの日にでも見に来る? 絶版になってる本もあるしね」

「絶版って、貴重な本ですよね。見せてもらえるんですか?」

「俺の本だから、遠慮なく」


 秋也はにこやかにそう言うと、ひょいと奈江の顔をのぞき込む。


「どうして勉強なんて?」


 ダークブラウンの前髪の奥で、いたずらっぽく笑う目にどきっとして、奈江は目を泳がせる。


 もちろん、秋也の好きなものに触れてみたくて、とは言えなくて、「興味があると、勉強してみたくなるタイプなんです」とごまかすと、急いでレジへと向かった。

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