第二章 『王国編』

31 「鏡の天使」

 ベヘルは右腕を預けている欄干らんかんから黒く重たい海を見た。激しい水流がざあざあと音を立て、橋脚にぶつかって渦を巻き、下流へと移動していく。

 嵐のような天候のせいで一帯は暗く、薄い墨で塗った風景画のように沈んだ灰色だ。ベヘルは早くこの退屈な時間が終わらないかと左目を一瞬見開くようにしながら瞬きし、川面から視線を上げた。


 眼前では、橋の上で戦う怪物と男の姿があった。


 海に架かる橋は向こう側の陸地が見えないほどに長く、幅も常識外に広い。広大な橋上を戦いの場として、男の方が不利な状況にあった。

 怪物は全長四メートルほどの体躯たいくで、首元と腕を完全に隠す深紅のドレスを見に纏っている。しかし、腕の裾からは黒い裏地が見えるばかりで、空っぽの空洞に腕はない。首元から上は美しい女性の頭部だったが、その体躯と不釣り合いに小さな常人の頭部のため、大きな鎧から子供が顔を出したようにも見える。余った首回りの隙間を埋めるために、その人形のように白く美しい女性の首を絞めるかのようにきつく絞ってあった。

 そして、スカートの中から黒く巨大な蜘蛛の脚があった。関節を曲げた八本の脚のせいでスカートの裾は広がり、つばを折った帽子のようになっている。

 男は身長190手前の大男で、耳を隠せるぐらいに伸びた豊かな髪は大雑把に掻き乱したかのような乱雑さだが、フケや脂汗は混じっておらず、不清潔さはない。全身黒色の鎧を着て、両手剣に見える無骨で平たい大剣を片手で軽々と持ち上げている。

 かたや怪物は背中から生える巨大な虹色のはねを持ち、男は見たままの生身の人間で、飛行手段を持たない。一度でも吹き飛ばされようものなら、激流の渦巻く海に墜落し、男の命はないだろう。

 折り重なるドレスの生地の内側から、網のような糸が飛び出した。網を構成する無数の面は空洞ではなく、白く輝く鏡だった。伸縮自在の鏡はそれぞれに異なる万象ばんしょうを写し、掴みどころがない。

 剪定せんていバサミ、靴、何かの液体、歯間を掃除するための木片、槍斧ハルバード――全てで四十を超える万象が実体化し、男を襲う。

 男は雑多なそれらを、無視するものは無視し、避けるべきものは避け、受けるものは剣で受けた。

 糸が急速に縮み、ドレスの内側へと収納される。

 先ほどから男が近づこうとするたびにこの繰り返しで、一向に大剣の間合いへと進めない。

 男は舌打ちし、唾を地面に吐いた。

 離れた欄干から観戦するベヘルは、苛立ちこそしないが、欠伸を嚙み殺すように鼻から息を吸い、潮風で湿った禿げ頭を手のひらで撫でるようにして拭いてから言った。


られそうならすぐに言えよ、ランダ。お前を失うのは惜しい」


 すると、ベヘルの背後にいる別の男が笑った。ランダを上回るほどの大男だが、まだ若々しい彼と比べ、年季を感じる皺が顔に浮き出ている。


「はっはっは! この男が惜しいと考える駒など、儂とお前以外におらんだろう。儂も遊び相手が消えるのは退屈だ。ランダよ、一つしかない人間の心臓だ。貫かれるなよ」

「黙れジジイ。この化け物を仕留めたら、次はお前の心臓を串刺しにしてベヘル様と共に喰ってやろう。あとな、脳みそのないお前のために言ってやる。心臓を守っても脳を貫かれれば終わりだ」

「『心臓隠して頭隠さず』か! 臆する必要はない。お前の海藻のような髪なら脳まで届くまい」

「終わったあと絶対に殺してやろう」


 ランダが怒りと共に大剣の先を地面に叩き付けた。普通の石材にしか見えない橋には傷一つ付かなかったが、鐘を全力で叩いたような大音が響く。ベヘルは唇を僅かに歪めて左耳を手で塞いだ。

 ランダは大剣の先で地面を擦りながら大股で進んだ。


「ふむ。攻撃になど初めから構わなければ良かったのだ。怪物よ。その女の頭部を叩き割って脳髄を引きづり出してくれよう」


 その言葉通り、展開された糸から放出される全ての攻撃に構わず、ベヘルは無理に押し通った。彼の体に幾つもの万象が激突し、物によっては鎧を突き破って刺さり、彼の皮膚を溶かした。

 ランダは痛みに顔を歪めたが、相貌に獰猛な笑みを浮かべ、痛くも痒くもないというように前進した。


「強がりよる! やはり中々の男よ」

「……どうでもよい。早く終わらせろ。潮風が鬱陶しいわ」


 鏡の糸は時にそれ自体が凶器となってランダを襲い、または彼の周りを囲うように展開され、全方位から万象の雨を降らせた。服が裂かれ、穴が開き、日焼けした筋骨隆々のからだが露になる。 

 ランダは歯を剝き出して笑うと、剣を握っていない左手を鎧に空いた穴に差し入れた。太く骨張った指で鎧のめくれた内側を掴むと、縁の鋭利なところが指に食い込むのも構わず、素手でべりべりと鎧を・・・・・・・・・・引き千切る・・・・・

 根菜の葉のようにむしって叩き捨てると、剣を持ち変え、右手で鎧の残った部分をコートを広げるようにめりめりと開き、首周りも同じように展開する。後ろの腰の辺りを掴んで、一枚の黒い金属板となったそれを放り投げた。

 ざぶんと海に沈む音がし、ランダは醜い有様に変わり果てた上裸の姿でずんずんと前進した。


「その赤は他人ひとの血か? 今までに何人殺してきた。貴様が流した血は俺と張り合えるか? ――俺は、覚えていられぬほどの臓腑をこの手で握り潰したぞ」


 目をぎらぎらと光らせるランダが、潮風になびく前髪を指で掻き上げる。彼の髪からは動物のオイルと、錆びた鉄の匂いが漂った。


「その服の下にどれだけの血と内蔵があるか。貴様の血も赤そうだ。持ち帰ればイベリス様もさぞ喜ぶだろう!」


 ランダが獰猛に笑う。腹の底から響くような彼の声はベヘルまで届いた。禿げ頭の男は厚い唇をめくるようにせせら笑って言った。


「よせ。あいつに妙なものを与えるな」


 襲い来る万象はランダの前進を阻むことはできず、彼は怪物の目の前に仁王立ちした。深紅のドレスの、それが人間ならばへそがありそうな位置に彼の頭がある。

 怪物は蜘蛛の脚で這って下がるなどはしなかったが、突如、へその辺りからドレスが内側に開かれていった。中の暗黒に胴体はなく、代わりに黄金色の鏡の枠じみた縦長の六角形が幾つも連なったもの――まるで巨大な蜂の巣のようなそれが、水面から浮き上がるようにして暗黒のうろから滲み出ている。

 そして、六角形の枠からそれぞれ一体ずつ、めしいたように両目を閉じた歪な人間の頭部が這い出て、片手や両手を伸ばして蠢き始めた。


「同情させる腹か。くだらぬ。俺の手で二度殺してやろう」


 右足を前に出し、大剣を構える。

 ――すると、一斉に人間の目が開眼し、ぎょろりとランダを向いた。


「……!」


 突然の衝撃。びりびりと電撃が走ったように頭が疼き、吐き気がこみ上げる。

 ランダは思わず左膝を付いた。


「ぬおっ……! うぐ、ぐううう……!」


 吐瀉物をぶちまける。口の右端から涎が滴り落ちる。ランダの顔は壮絶に歪んだ。視界がぐにゃりと曲がり、色が点滅し、世界が反転しそうになる。


「ぐうっ……はあっ……!」


 犬のように短い呼吸を繰り返しながら、ランダは震える両手で大剣を垂直に持ち上げた。


「はあ、はああああ……! ――ぬああああ!」


 剣を自らの右足に突き刺す。剣先は骨を砕いて太ももを貫き、鮮血が噴き出した。嚙み締めた勢いで左の歯が何本か欠け、唇を血が伝い下りる。

 血と涎を手の甲で拭き、ランダは痙攣しながら笑った。


「ふっふっはっははははは! どうした? この程度か?」


 眩暈と視界の歪みはまだ残るが、ランダは両の目に力を込め、相手を睨んだ。


「この世に生を受け二十七年。屈したことは一つとしてない。――相手が倒れるまでに飲み比べた酒の最高は37杯! 切り傷を食らい続けても尚、格上をほふるまでに交えた火花の数は88! 素手で連戦した猛牛の記録は15! 『不屈のランダ』に超えられぬ物はない!」


 海面を震わすように声が響く。ベヘルは喉の奥から低く厚みのある声をくつくつと漏らし、彼の背後にいる大男――ディダスティンは豪快に笑った。


「ぬっはっは! 戦っている最中に何度剣をぶつけ合ったかなど、覚えている訳がなかろうに! 大馬鹿者が!」

「あやつ、たぎっておるな。――ランダ! その意気だ。早々に葬れ。あと一分以内だ」


 ランダは大剣を振り上げ、奇怪な頭部が連なるそれの中央を縦に裂くように振り下ろした。頭部ごと黄金の枠を切り裂き、裂け目が生まれる。

 ぱっくりと開いたその裂け目から、真っ赤な空間が覗いた。

 ――そこから、赤い繊維がランダめがけて飛び出る。

 人の腕の太さほどの繊維はランダの体を突き破り、彼の内臓に触れた。


「ぐっ……! 貴様……!」


 しかし、ランダはその赤々と生々しい繊維を左手で掴んだ。収縮して裂け目に戻ろうとする繊維を、腕力で引き留める。

 ランダは自らの左腕に全力を込めた。内臓に接着して奪い取ろうとする繊維を逆手取り、怪物を自らに引き寄せる。

 ずず。と、蜘蛛の脚が僅かに地面を引きった。ランダは右手に持った剣で繊維を断ち切ってから、赤い空洞に突き刺し、多流タルーを込めた。腹というべきその部位を貫こうとしたその時、空洞から鏡の糸が放射状に飛び出してランダを取り囲み、球状となってその内に閉じ込めた。


「……!? 何をする気だ!?」 


 無数の鏡の面に自身の姿だけが反射する万華鏡に閉じ込められ、そのどぎつい眩しさにランダは目を回した。

 すると、鏡に映る無数のランダは水面に溶けるように消えていき、代わりに別のものが浮かび上がった。

 ――夥しい数の・・・・・常ならぬ万象の姿・・・・・・・・

 刃の部分とそれ以外が入れ替わった正反対のハサミ。皮膚が裏返り、頭の位置が逆になった豚。白夜の凍土で噴火する溶岩。地を這う醜い海獣の姿の堕天使。木々を枯らせる沸騰した雨。天と地が入れ替わった教会。狼を喰らう白い目の赤毛の兎。老婆に剣を突き刺し風邪を治す神父。沈黙して往来を睨み付ける道化師――

 その鮮烈な光景に、不屈の精神を持つランダも激しい拒絶反応をもよおした。しかし、吐き気を誤魔化すように唾を吐いて、彼は毒づいた。


「頭痛に精神攻撃……。この俺に効くと思ったか。ぼんくらが!」


 ぱっと鏡の光景が消える。すると、鏡の面は巨大な一面となり、一つの映像を浮かび上がらせた。


「ぬ……?」


 ――幼い子供の姿。あやしてくれと言うように大人の女に近づいていく。

 波打つつややかな黒髪の女は口を大きく開けて笑い、子供を引き寄せて撫でた。

 ランダの意識がぼやけていく。鏡の映像は周囲に滲むようにして境界線を塗りつぶしていき、いつの間にか視界全体がその映像となる。

 子供と女――恐らく母親だろう――の背後で扉が開いた。大人の男が現れる。

 こちらもやはり父親らしく、片膝を付き女の手に重ねるようにして子供の頭を撫でた。それはとても幸せな光景だった。ランダは、同時に既視感を抱いた。

 それからの家族の歩みを、ランダは目まぐるしい速度で観測するように体感した。子供は健やかに育ち、16か17と思える年まで成長した。その子供の姿を見たとき、ランダは夢の中のように意識が曖昧ながらも、既視感の正体に気付いた。


「これは……俺なのか……」


 しかし、明らかに違う・・・・・・。彼の知っている彼自身の記憶とは根本的に違う。父も母も健やかに笑い、自分は王国の騎士を目指して健全に剣を磨いている。

 ……これは理想の姿。本来、あるべきだったはずの自身の姿。

 その甘ったるく平穏な微睡まどろみに、ランダの精神が溶かされていく。映像と記憶の境界が浸食され、これが現実だと認識する。


「母よ、ああ、こんなにも穏やかに……」

「どうしたの、ランダ?」

「――? あ、ああ」

「ぼーっとしているわ。――ああ。そういうこと」


 笑いじわのくっきりし始めた母がくすりと微笑んだ。


「やっとそういう年頃になったのね。母さん、あなたが剣にしか興味ないから、鍛冶屋になるんじゃないかと心配してたの。気になってるのはどんな子? 顔に毛が一本生えてるわ。剣の手入れの前に、母さんが顔を剃ってあげる。勿論、剣じゃなく剃刀よ」

「いい。顔は自分で剃る。ぼーっとしていただけだ、母さん」


 父が母の傍らに現れる。彼女の顔を横目で見てから、ランダに視線を移して言った。


「恋わずらいなどする訳がないだろう。お前のことだ。また、剣のことを考えていたんだろう」 

「ああ……」


 ランダは肩に掛けた剣のつかに手を置いた。柄は丸く、すらりとして、剣身も細く長いのが見ずとも分かった。父が穏やかに笑いながらもおごそかな口調で言う。


「それは騎士の剣だ。お前は王国の騎士になる。国を守る剣にな」


 ランダは右手で柄を強く掴んだ。黄金に、青い塗色。

 見事な剣だ。――しかし、違う。

 ランダはちらりと壁に掛かった時計を見た。曖昧だった意識が徐々に戻っていく。……果たして何分経ったか。一分は優に超えてしまっただろう。 

 柄を握る。握り心地が悪い。この剣では駄目だ。 


「……重みがない」

「……ランダ?」


 父と母が揃ってきょとんとした顔でランダを見る。ランダはさらに、柄を砕けるほどの強さで握った。柄はそれに応じ、硬さと太さを変え、もっと無骨な剣に変わっていく。


「――厚みが足りん。剣とは、それを握る己がどれだけの覚悟と実戦をるかにる。薄いぺらぺらの棒切れで、どうやって骨を断ち切れる?」


 ランダはゆっくりと剣を引き抜いた。

 父と母――ではない。いるはずのない生温い幻想が肩を寄せ合い、恐れた目でランダを見る。許しを請うような目。ランダは苛立ちで舌なめずりし、にやりと笑った。


「母と父は立派に死んだ。未練も恨みもない。もてあそぶな化け物め」


 笑みに怒りが混ざる。


「時間切れだ。スタンシュッド公が退屈してしまうだろうが」


 剣で横一文字に二人諸共胴体を断ち切る。血は出ず、幻想は煙となって消えた。夢の視界も晴れていき、鏡に囲われた万華鏡へと戻る。鏡に映る無数の自身の姿――空洞に刺した黒い大剣を見てランダは満足げに笑った。


「俺は挫けん。どんな『力』にもな」 


 大剣に込めたランダの多流が弾ける。赤い空洞が膨れ上がって鏡ごと爆散した。飛び散った怪物の体の破片が、蒸発するように溶けて消えていく。

 剣を担いだランダは踵を返してベヘルたちの元へと歩いた。


「終わった!」


 遠くにいる二人にもよく聞こえる大声が響く。

 ベヘルはその厚い唇の口角を上げてんだ。 


「流石だランダ。少しひやりとしたがな」


 ベヘルは敵を倒した高揚感で肩をいからせ大股で近づくと、ベヘルの前で片膝を付いて顔を上げた。


「一分以上かかってしまいました。欠伸が出そうなほど退屈だったでしょう」

「構わん。早くこの陰気な空間から出たいだけだ。――それより、体を貫かれておるぞ。肺か?」

「気持ちの悪い触手のようなものに触られました。肝臓の辺りです。全身が跳ねるような痛みで頭がトぶかと思いましたよ」

「そうか。万が一もある。血がでないよう抑えておけ」

「は。承知しました。ベヘル様」

「――む。あれか」ディダスティンが遠くを見ながら言った。


 ベヘルも遠くを睨む。怪物のいたところの地面に、輝く光が現れていた。  

 

「どうだ、ディダスティン?」

「ううむ……底が知れん。遺物かどうかも分からん。流れが読めんのよな。うむ。ただのガラクタの可能性もある」

「多流の流れか。まあいい。回収するぞ。ランダ、お前はここにいろ。この空間が消えるまで動くなよ」


 ランダが返事をする。大男と頭の禿げ上がった領主は連れ立って光の元へ行き、ベヘルがそれを拾う。手に収まる大きさのそれは、強烈な光を内部へ吸収し、猛禽類の翼を引き千切ったような姿を露わにした。

 ベヘルはそれを持ち上げてひっくり返したりして、まじまじと眺めた。羽の一つ一つが鏡のように銀に輝き、金属じみた光沢で光っている。横から打ち付ける海風が豪奢な服の袖から出る右手と翼を濡らし、銀の表面でてらてらとしたたった。


「『鏡の翼』か。ふふ。果たして幸運をもたらすか。それとも不幸か」


 思案気に目を細めるベヘルに対し、ディダスティン――その中老の見た目からかけ離れた壮健で大柄な男は腕を組んで笑った。地平線まで続く曇天を少年じみた大きな瞳で見上げ、目元に複雑な笑い皺が広がる。


「幸不幸、どちらでも面白い! 幸なら喰らい、不幸なら跳ね返してくれる。この儂、『万遊ばんゆうのディダスティン』に任せい!」

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