11

 神殿に入ると、中は殺風景で目立った装飾もない静かな空間だった。外に抜ける階段を登って雲の通路を歩き、二人は上へ上へと進む。

「これは、一体何なのでしょう。まるで、天上の世界みたいですね」

「分からない。でも、一番上に何かがいる、とてつもなく『大きな』何かだ」

 ニハマチは頂上に見える、形を保った立派な神殿を睨んだ。そこから、余りにも尋常ではない気配が滲み出ているように思えた。

(凄まじい……それに、なんて異質な力だ。しかも、気配を殺している……? ということは、人間かもしれないな。用心して行こう)

 頂上では、大きな門扉が半分開いていた。玄関ホールを抜けて螺旋階段を上り、長い廊下へ。地面まで届く長大なステンドグラスの窓が立ち並ぶ廊下を慎重に進み、突き当たりの扉の取っ手にニハマチが手を掛ける。

「開けるよ」

「……行きましょう!」

 扉を勢い良く押し開ける。

 ――そこは、礼拝堂のような広大な空間だった。

 天井へアーチ状に繋がる柱が両側に並んでおり、椅子も机も無ければ、祭壇すら無い。窓も照明もなければ、装飾の彫像もない、余りにも殺風景で非常識に広大な空間。外から見た神殿よりもこの一部屋の方が広い。そして何故か、左の柱の一つに上半身を凭れて意識を失っている人間らしき姿があった。

 ニハマチはそれがパントマの友達かと思ったが、実際は、それは男で、しかも背丈と見た目からして大人だった。さらに、男の傍らで柱に槍が立て掛けてあった。無骨ではあるが立派で見事な槍だ。

 しかし、二人の視線はすぐにそこを離れた。最奥にある、祭壇のあるべき窪んだ半円形の空間、その壁際にいる存在に彼らは息を吞んだ。

 それはこの空間のスケールに劣らずとも巨大で、六メートルは優に超えているだろう。一見して、巨大な人間に漆黒のマントを羽織らせた白色彫刻だったが、その頭部――顔のあるべきところには、顔の代わりに赤い鳥の羽が四本、首から扇状に生えている。そして、首と言ってもそれは白濁色の骨であって、全身がそのように剝き出しの骨格となっていた。骨格は歪で、鳥と人間を組み合わせたようなものであり、見たところ翼らしき部位は見当たらない。

 パントマはその存在から意識を逸らすと、柱に寄りかかる男へ痛ましい視線を向けた。

「もしかしたら生きているかもしれません。呼びかけてみます」

 そう言って男の元へ小走りに向かった――その一瞬のことだった。

 パントマの姿が消えてしまったのと同時に、背後から鈍い激突音がした。ニハマチが右肩越しに振り返れば、そこには五体を打ち付けられるようにして壁にめり込むパントマの姿があった。彼女の胸は白く細長い結晶に穿たれており、そこから真っ赤な血がどくどくと溢れ出ている。

「パントマ!?」絶叫し、すぐに正面を向き直す。

 巨大な存在は先ほどの位置より前進していた。だらりと下げた両腕の手のひらをこちらに見せるように開いている。

 ニハマチは自身に流れる力の渦を解き放った。それは力を全身の各部で整理している軛を外すようなもので、彼は自らの内側を濁流のように暴れ出す力を感じとった。瞳は研ぎ澄まされ、きっと睨み付けるように鋭くなり、幼さの残る顔から朗らかさは消えて険しい表情となる。

 パントマの体が地面にぶつかる音が響いた。

(最初から全力で行くぞ――!)

 相手の初撃に、反応は間に合わなかった。直前に捻ることができた右肩を結晶が抉り、流れる血が腕を染めていく。ニハマチは激痛に顔を歪めた。

(速い!)

 二回目は体を捻って躱したが、三回目は避けられずに左の太ももに直撃した。

(――速い! 速すぎる!)

 高速で思考が渦巻いたが、解決策など浮かびそうにもなかった。膝を付いた左足を上げようにも言うことを聞かず、がくがくと震えて落ちてしまう。

(この速さに間に合わせるにはどうすればいい……駄目だ。俺の身体能力を上げるしかないけど、力をこれ以上増やせない……! もっと速く動いてくれ、俺の体!)

 四回目、五回目とニハマチの体を掠めて血しぶきが上がり、六回目の結晶が先ほどの太ももの近くに突き刺さると、彼の足はとうとう使い物にならなくなった。

 ニハマチは歯を食いしばると、深く食い込んで抜けないままの結晶を握りしめ、思い切り引っこ抜いた。

「あああああッ!」

 ふらふらとよろめく体を支えるために背後の壁に手を突き、意思だけを強く保って、ニハマチは思った。

(ここで終わりだというのか……?)

 彼自身、認めたくはない現実だったが、どうやら今の自身の実力ではこの怪物には及ばないと、ニハマチは「勝負を下りる」という判断をした。

 ふと、彼の脳裏に自らを絶帝と名乗った男の姿が浮かんだ。

(くそ……何が「負けない」だ……あとたった九か月、それまでにオストワールに勝てる実力を身につけられるのだろうか……)

 事実、彼の感覚に誤りがなければ、あの男の力は眼前の巨大な存在に匹敵しそうであることは確かだった。

 ニハマチは遠のきそうになる意識を引き留め、勝てないと分かった敵を前に、まだ死んでいるかどうかは分からないパントマと自身をどうやって生き延びさせるかを必死に考えようとした。

 ――しかしその時、強い力の気配が背後に現れた。

 もはや敵の方を向いていようがいまいが関係がないと悟ったニハマチは、直感でパントマの方を振り返った。力の気配は、確かにパントマの方からきていた。

 ニハマチはふらふらと下半身を引きづりながら進んだ。飛来した結晶がニハマチの体をパントマの方へ吹き飛ばした。幸いにもパントマへ接近することができたニハマチは、血みどろの下半身で最後の力を振り絞って、その力を強く感じるところを覗き込んだ。

 それはパントマの胸元にあった。服から覗く彼女の白い肌、鎖骨の下に不思議な珠の飾りがある。

 水底を映すかのように深く透明な緑色の珠。

 その宝玉に、ニハマチの震える指先が触れた。

 すると、彼の視線が半ば強制的に、凭れる男の方へ吸い寄せられた。景色が逆流するように男の姿が視界へ飛び込み、ニハマチの脳内に目まぐるしい情報が流れ込む。

(これは――!?)

 しかし、動かそうとした体に感覚は皆無で、夢の中にいるようなもどかしさがあった。

 ――小さくて柔らかそうな手が視界の下の方で揺れている。

 ニハマチは、これは自分の手ではない、と思った。いつの間にか、ニハマチは背の低い雑草が生える川岸に立っていた。

 すると、自分で歩いたつもりはないのに、勝手に体が川岸へと近づいていった。そして、屈みこんで腰を折ったために、川面が視界いっぱいに広がった。手が川の水を掬った。

 ニハマチはそこで気付いた。

 これは、幼い誰かの視界――記憶だ。

 掬った水で溺れるように視界が覆われ、手の主が首を振ったのか、水飛沫が水面に散って幾つもの波紋が生まれる。

 主はじっと川面を見詰めていた。すると、中央に水飛沫ではない一つの波紋が立ち、それは繰り返し次の波紋を生んだ。波紋は自然現象ではなく、主が強く見詰めたところに現れたようだった。

 ――主は次の日もまた次の日も川遊びをしていた。

 主はいつも、川面に波紋を立ててはそれを観察していた。やがて、水面に広がるだけだった波紋は高く立ち上がり、一つの噴水を作った。

「――あなた」

 声がした。

 幼い少女の声。横を向けば、長い粟色の髪の美しい少女がいた。

 少女は好奇心に満ちた目をこちらに向け、首を僅かに傾げていた。

 ……深い水のように透き通って輝く青い瞳――一生忘れることはないだろう――優しげにこちらを覗き込んでいる。

「水をあやつれるの?」

 主は頷いた。幼い手が川面を指揮するように踊った。たちまちに至るところで波紋と噴水が立ち、音を奏でるように川面はざわめいた。

 少女は笑った。高く、くすぐるような笑い声。細めた目がこちらを見る。優しくて深い目。

 少女と森を歩いた。少女と学問所へ通った。少女の名はルイザと言った。

 川へ行っては水を操る方法を彼女に教えてみたが、それは難しいようだった。

「あなただけの特技よ」

 ――透き通る青い瞳。

「それはあなたにしか出来ないことなの」

 幼く丸みを帯びていた輪郭は、いつしか滑らかな曲線になって美しい彼女を形作っていった。

 空の三日月が一つ、川面で金色に煌めいているある夜に、主は水を集めて空中に球体として浮かべていた。

 ルイザの目の前でそれを見せてやると、彼女は食い入るように見詰めた。

 球体を彫刻のようにカットして、成形していく。やがて出来た透明な指輪を、彼女の細い人差し指にはめる。その指にそっと唇で触れると、水の指輪は重力ですっと地に落ちた。

「形がなくとも、俺は君の恋人であり続けるだろう。水は消えずに、形を変えてこの世界の何処かに留まり続けるように」

 ルイザが微笑んだ。二人は、永遠を共にすると誓った。

 突然、夜を砂煙が横切ったかと思うと、記憶の場面が切り替わった。

「――おおおおお!」

 耳を劈く怒号と剣戟の音。広大な荒地と、鎧を着た無数の兵士たち。彼らは、彼らよりも膨大な異形の軍勢と戦っている。異形は全て白い骨で、人間と動物を合わせたような骨格をしており、飛行する鳥のようなものもいた。

 記憶を見せる手の主は眼前から襲い来る異形に戦斧を振りかぶった。斧は頭を叩き割ったが、それは砂となってぽろぽろと崩れたあと、再び再生した。

 主は高く掲げた右手で空中に円を描いた。荒地には幾つもの巨大な台車があり、台車には船を漕ぐオールのようなものを持った大男が数人と、大きな木製の入れ物が乗っていた。すると、入れ物から水が浮かび上がり、それは主の近くにいた三体を貫いた。

 眼前の敵から素早く斧で斬ってまわると、水の付着した部分が結晶となり、再生せずに砕けた。

 砂の軍勢は無慈悲であった。

 敵の波状攻撃をしのぎ終えると、荒地には数十人もの兵士の死体が転がっていた。

 我が家へと帰ると、そこにはルイザがいた。鎧も脱がずに鋼の腕を伸ばすと、ルイザは安堵した顔でこちらを抱擁した。

「おかえりなさい……よく、ご無事で……」

 主の手がルイザの腹を優しく撫でる。彼女の腹は服から分かるほどに膨らんでいた。ルイザは、ついに子を宿していた。

 ――主は豪奢な赤と金の空間で膝を付いていた。見上げる先には玉座があり、国王が座っている。

 国王は立ち上がると、隣にいた騎士が両手に持っていた槍を受け取った。その槍はどこまでも無骨で、しかし極めて洗練された重々しい槍だった。明らかに、敵を屠るための槍だった。

「これをお前に託す」

 手が恭しくそれを受け取る。その重みが、記憶越しにニハマチにも伝わった。

「『砂の王』を倒すのだ」

 視線が槍の穂先から柄の端までをなぞり、再び、王の目を捉える。

「王、私は……」

 言葉を躊躇ったのか、声はそこで途切れた。

「言ってみろ」

 王は怒っている風ではなかった。ただ、何を言おうとしているのかをしっかり聞き届けようという感じだった。

「私には、子を持つ妻がいます。あと、二か月ほどで生まれるらしいのです。……私は、私は……」

 槍を持つ手が震えている。王は近づき跪くと、こちらを力強く抱擁した。ゆっくりと離れてから王は言った。

「奴に挑んだ屈強な英傑たちが、皆同じようなことを言っていた。……そして散った」

 王は厳かに目を瞑り、十分な時間のあとに開いた。

「もはや、奴に打ち勝てる者はお前しかおらん。――この槍には、『■』が宿っておる。お前の持つそれと同じものだ。自由に振ってみろ」

 主は立ち上がり、槍を片手に構えた。言われるがままに、彼の体内を流れる「■」を意識して一振りすると、穂先から膨大な水が溢れ出し、水流となって立ち昇った。水流は易々と天井を砕き、瓦礫が深紅のカーペットへと崩れ落ちた。

 王の両側にいた二人の兵は粉塵に咳き込んだあと、息を吞んで目を丸くした。王ですら、表情に驚きを隠せていなかった。

 槍を握る手が震えていた。歓喜の震えだった。主は跪いて腰を折った。

「王よ。私にお任せ下さい。必ずや『砂の王』を討ち取ってみせます」

 早朝の川辺で、ルイザは泣き腫らしたあとのような目を、それでも涙を一滴も零さず、優しい笑顔を浮かべていた。

 主は槍を持ち上げ、川面から水を浮かび上がらせ、人間が抱えられるぐらいの大きさの水球を作った。そして、それに少し複雑な細工を施し、彼女の傍らに浮かばせた。

「もし、俺が戻らなかったとしても、きっとそれが君と――私たちの子供を守ってくれるだろう」

 彼女は優しく笑って、言った。

「今夜は何がいい?」

 深く、青い瞳。秋の始まりのような粟色の柔らかな髪。

「シチューにしてくれ。帰ったら暖かいものが食べたい」

「ええ。待ってる。……愛してるわ、ケック」

 主はルイザの瞳とじっと見詰め合ってから、強く彼女を抱いた。

 ――砂の王とは、半人半鳥の怪物である。

 四本の赤い羽根の刺さった奇怪な頭部に、巨大な体躯。

 主は神殿を駆け抜けた。

 記憶は急に飛んで、何かに凭れているらしき主の視界で、彼の全身が血で染まっていた。

 首から下げたロケットを開くと、そこにはルイザの写真があった。それに口付けをした。

 美しい青の瞳。……死んでも、忘れることはないだろう。

「……見たかった、なあ……俺たちの、可愛い……ルイザの子……」

 鋼の手が、そこにあるはずのないものを求めて宙を彷徨う。

 ――記憶はそこで事切れた。

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