15. 絆の証明
「この崖の下に、エミがいる。たぶんまだ……」
リティはそう言って、僕を見て続けた。
「あたしは、いつもエミのバックパックに乗って、ゆれる景色を見ていたんだ。あの日も。――エミは、悩んでいた。仕事のこととかで」
そのとき、リティは加藤さんをちらりと見て、口を閉ざした。僕にはなんとなくわかった。――相原絵美さんはきっと、加藤さんへの想いについても、苦しんでいたのだろう。
「あの日、少し雨が降っていてさ。――それに、ぼんやりしていたのかもしれない。エミは、足を滑らせて……」
そうしてリティは崖の下に目を向けた。
斜面には岩肌がのぞく。眼下には緑色の葉が海流のようにひしめき、視界をさえぎった。地面は見えない。その緑色の海底になにがあっても、上からでは気づくことはできないだろう。
ざわざわと、枝葉が風にざわめく。
さすがの加藤さんも、右手を口元に当てて狼狽した様子だ。そして、「相原。おまえは……」そうつぶやいて、リティと崖下を交互に見た。
黒も神妙な面持ちで崖下に目を向けていた。けれどまだ、目の底に冷静さがあった。リティを信用しきってはいない感じがした。
すると、リティは「ちょっと、準備するから、待ってて」そう言って、足早に山道を進んで行った。
やがて、山道の向こうから、一匹のかわいらしい猫が現れた。
茶色のすらりとした猫で、桃色の首輪をはめていた。額にはココア色の縦線が入っていた。
それに、茶色の尻尾が二本、森を背景にふわりとゆれた。
僕はためらいながら、猫に声をかけた。――いままで生きていて、猫に話しかけたのははじめてだ。
「リ、リティなの?」
すると、猫は「ナーアー」とひと鳴きした。
それから、猫――おそらくリティは崖下へと顔を向けた。すると、急峻な斜面へと体をおどらせる。
タ、タ、タ、と警戒に斜面を蹴って、またたくまに緑色の木々の中に消えた。
加藤さんは、おお、みたいな声にならない声を上げて、リティの姿を見ていた。
それから五分ほどしたころ。
崖下の葉がゆれて、リティが現れた。その口には、なにか平たい透明なものが咥えられていた。
リティは斜面を登ってくると、加藤さんの足元に来て、それを口から離した。
その平たいものは、社員証のようだった。
青い紐のついた、透明なケースに入れられた社員証。それが、加藤さんの足元に置かれた。その社員証には顔写真がついており、『相原絵美』と書かれていた。
リティは「ナア」と鳴いて、山道を歩いていった。
加藤さんは目を丸くして、足元の社員証へと体をかがめると、
「ま、まさか……」
そう言って拾い上げた。そうして社員証をまじまじと見ると、まるで絵美さんそのものへ語りかけるように、「相原……。おまえ……」と声を上げた。
そんな加藤さんに答えるように、写真の中の絵美さんはまっすぐな眼差しで、前方へ目を向けている。
やがて山道の向こうから人影が現れた。
――人間の姿に戻ったリティだ。リティは服を整えながらゆっくりと歩いてきた。
そして、僕の目の前までやってくると、
「バックパックの中に、それがあったんだ……。あの日に、財布とかは持ってきたんだけど。それだけ、置いてきたの。なにもかもを、ってわけにはいかなかったから」
そのとき加藤さんは、ためらいがちに尋ねた。
「まだ、相原が。この下にいるのか?」
リティはなぜだか、悲しげに微笑して、小さくうなずいた。
「ずいぶん、時間が経ったから。――ね、もう、どこのだれなのか、見分けがつかないけど」
すると加藤さんは、社員証を額に当てて、目をきつくつむった。
「すまん、相原……。気づいてやれなくて」
それから加藤さんは顔を上げると、リティを見た。その表情からは不審とためらいが感じられたが、敵意はなさそうだ。加藤さんは言った。
「ありがとう。リティ……」
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