第8話 合意
時は前日、玲が健斗に計画を打ち明けた頃に遡る。
「……出来れば、もっと落ち着いてからにしようと思っていたのだけれどね」
「……え、え、ええぇっ!? こ、これって……!?」
玲が取り出してきたのは、婚姻届と退職届。特に婚姻届の方は、健斗の抱える不安とかネガティブな気持ちを一瞬で吹き飛ばすには充分すぎるものだった。この時のために玲は用意をしていたのだ。あまりの情報量に健斗は受け止め切れていない。
「そう、とても重大で、君の人生が左右されること。だから君の同意が必要なのよ」
「え、えーっと……。れ、玲さんはいいんですか!? これってつまり……」
「……ええ。私も、ずっとこうしたいと思っていたから」
「っ! お、俺も! 玲さんとずっと、こうなりたいって思ってました!」
「ほ、本当に?」
「はい!」
二人の会話は、どちらが言い出すでもなく婚姻届の話になっていた。色々と過程を飛ばしてしまっているが、今のやり取りは即ち、ほぼプロポーズ成立と同義である。
「そ、それなら……改めて。私と……、結婚、してくれますか?」
「……はいっ! 不束者ですがよろしくお願いします!」
「ふ……ふふっ、それって私の台詞じゃないかしら?」
「あ、そ、そうですね……あ、あはは」
二人は照れ笑いを浮かべたままリビングのソファに並んで座り、婚姻届に自分の名前を書いた。そして自分たちで書ける箇所を全て書き終わって印を押した。二人とも、眼前の紙に記載された相手の名前をじっと見つめてしまう。
「これを役所に出したら……俺と玲さんは、結婚する、んですよね。えーと……その、なんかまだ、全然信じられなくて」
「……そう、ね。私もまだ、実感が無いわ」
「ですよね、あはは……って、え、玲さ」
玲は健斗の言葉を遮って、自分の唇を彼の唇に押し当てた。健斗の思考はショートして、完全に硬直してしまった。数秒の間くっつけた後、そっと離れた玲は自分の唇に手を当てて頬を真っ赤にしながら呟く。
「……これ、いくらでもしたくなっちゃう。危険すぎるわね……」
やや釣り目がちな彼女の目は蕩けている。彼の口をチラッとでも見る度に、鼓動が更に早くなってしまう。一度彼方へ飛んで行った後にようやく追いついた理性が、彼女を正気に戻した。
「でも、まだ話さないといけない事があるから……。その、続きはまた後で……って健斗君?」
「……」
「健斗君! 戻ってきて!」
「はっ!」
玲に肩を揺すられた事でやっと健斗の意識が帰ってきた。この後落ち着いて話を再開するまで、しばらく甘々な沈黙が続くのだった。
婚姻を直ぐに進めた最たる目的は、健斗を実子の魔の手から守るためである。しかし、その証明のためには何か証拠を相手に見せつける必要がある。そこで玲が考えていたのは、身に着けることができ、かつ自分が結婚していると伝えられるアイテムを用意することだ。つまり、指輪である。
「予算とかの面があるからすぐに用意するのは難しいのだけれど、明日用意するためにはこの手段を使いましょう」
「結婚指輪ってレンタル出来るんですね……、知りませんでした」
「ええ。すぐに借りられる所を見つけたから、とりあえずそれを会社に付けていってね」
「はい! あと婚姻届は……」
「今日中にお互いの親に記入してもらうのは難しそうだから、記入済みとだけ言っておきましょうか」
正式な結婚をするには時間が足りないが、結婚を済ませていると周囲に思わせるには十分な材料だ。後は何食わぬ顔で健斗が既婚アピールをしてしまえば、実子は手出しがしづらくなるだろう。だが、この話はまだ半分しか終わっていないのである。
「けれど、結婚では俺の異動は変えられないですよね。同じ部署になったら一体何をされるか……」
「……一つ目に意識を向けすぎて、ちょっと忘れかけていたのだけれど、これがもう一つの大事な話ね」
「退職届……、ですか」
健斗の言葉に玲が首肯する。社内での問題を解決できないのであれば、そもそもその会社から離れれば良い。しかし独立に踏み切るというのは相当な覚悟が必要であり、思い付きだけで出来るものではない。
「これって、もしかして結構前から考えていたんですか?」
「そうね。今の会社に勤め続けるのは、正直な所あまり考えていなかったのよ。……問題だらけだもの」
「玲さんがどうしようもないって言ったのは、会社全体の事だったんですね」
「ええ、私の扱いについては今更なのだけれど……。岡本さんが上層の実権を握ってしまっている、なんて事を知ってしまったから」
「そ、そうですね……。俺の処遇を岡本さん一人が動かせちゃうぐらいですし……」
一人の平社員がほぼ全権を持っているなんてありえない問題である。それ以外にも玲は会社の問題点に不満を積み重ねていた。自身の問題もあってそこまでは耐えていたのだが、健斗を引き離そうとされたことで限界に達したようだ。健斗も気持ちは同じで、自分が二股を疑われた時に庇ってくれたのは玲と同僚だけだった。真面目に仕事をしてきたのに信用されない場所で働き続けるなんて嫌だと、この一件で痛感したのである。
「私としては、タイミングが少し早まっただけだったわ。経験は充分についたと思っているし、独立のための勉強はしてきたつもりだから。ついこの間、引き継ぎの資料作成も済んだところだったから」
「や、やっぱり流石ですね」
伊達に若くして課長を務めていた訳では無く、やるべき事を仕上げていく能力は目を見張るものがあった。彼女の準備の良さに圧倒されて、思わず及び腰になってしまう。
「だから健斗君、君にも同様に届けを作ってもらえれば私のところに引き入れる事が出来る」
「……いいんですか? 俺なんかを入れちゃって」
「どうして? ここまで来て急に躊躇うなんて、何か不安があるの?」
「その、これまで会社でもただ引き受けるばっかりでしたから……。独立した後に戦力として、玲さんの力になれるかどうかが不安になってきちゃいまして……」
健斗は玲の事を尊敬している。仕事でもプライベートでも、自分ができていない事を卒なくこなしているその姿を、これまで一番間近で見てきた事でその気持ちはより一層強くなった。その反面、自分は彼女の力になれるのだろうかという不安も生まれてしまった。彼女が優秀であるが故に自分を低く評価してしまっているのである。そんな彼の気持ちを汲み取った玲は、彼の頬に手を添えて優しく言葉をかけた。
「あのね、健斗君。もしかして、私が健斗君を戦力としてって理由だけで引き入れようとしている、なんて思ってる?」
「え? ち、違うんですか?」
「まず前提として、君は十分戦力になると思っているから安心して。これまで君の仕事ぶりは、課長である私がずっと見てきた私が保証するわ」
「玲さん……」
部下の成果を確認するのは、上司の役目である。健斗と玲の間においてもそれは例外ではない。他の人があまり見ていないような地味な内容を引き受ける役回りだとしても、彼が成果を上げ続けている事を玲はちゃんと知っていた。彼女の力強い後押しを得て、健斗はホッと安心した。
「それに何よりも……」
「って玲さん? なんかどんどん近づいて……」
けれど、健斗の心臓は再び心拍数を上げる事となる。玲はスッと互いの吐息が顔にかかる所まで接近して、玲は彼の顔を両手でガッチリと掴み、超至近距離で目を合わせながら囁いた。
「公私混同になっちゃうけれど、これが一番の理由。私が君を選んだワケ、今から存分に教えてあげるから。覚悟してね?」
「あ……」
二人の距離は、再びゼロになった。この後、双方が納得して契約が完了するまでにかなりの時間を要したらしい。とにかく色々と準備を終えた二人は、明日から早速行動に移すのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます