第6話 転機

 平日の昼下がり、玲は健斗を連れて彼の部屋で向き合って床に座っていた。本来ならまだ仕事時間なのだが、健斗の状況を鑑みて半休として帰宅させたのだ。落ち込む健斗に対して玲もあまり浮かない表情をしている。重苦しい空気を変えるため、玲は一度この部屋絡みで起こった事を振り返り始めた。


「始まりは、私がこの部屋を借りたいとお願いしたことだったわよね」

「飲み会で迫られた時は、本当に焦りましたよ。何というか、いきなり距離が近すぎて頭が真っ白になっちゃいました」

「……ストーカーの件で出来るだけ家から離れられるようにしたかったから、手段を選んでいられなかったの……。やっぱり、ちょっと強引すぎたかしら?」

「いえ、その……。れ、玲さんの色気がありすぎて、誘惑に負けたと言いますか」

「ゆっ!? あ、あれはそんなつもりじゃ……」

(じ、自覚無しであの威力だったのか……)


 重苦しい空気のままでは話しづらいと思って振った話題だったのだが、今度は気まずさという別の意味で話しづらくなってしまっていた。お互いが顔を赤くしながら沈黙が少し続いた後、玲が軽く咳ばらいをして話を切り替えた。


「けど、思い切って正解だった。君が助けてくれなかったら、私は今も脅かされ続けていた。もしかしたら、もう働けなくなっていたかもしれなかった」

「流石に大袈裟では……」

「あんなに私の弱った姿を見てきたのに、本当にそう思う?」

「……いえ」


 玲は彼に自分の弱みは全て見せてしまったと思っている。健斗もそれは感じていて、あのまま彼女が独りで抱え込んでいたらきっと潰れていただろう、という最悪の絵が脳裏に浮かびあがっていた。健斗自身も、彼女に弱みを見せた事で救われた経験があったから気持ちを理解できた。


「玲さんは、良いんですか? 岡本さんの言う通りになっても……」

「良くないわよ、当然でしょう? 彼女一人の我が儘で私と健斗君を引き裂こうだなんて、許せるはずがないわ」

「……同じ気持ちだったんですね、良かったです」

「どうしてそんな事を?」

「いえ、その……。玲さんは、俺と違ってあんまり動揺してないなと思って」

「……そうね。また、私の言葉足らずで君を困らせるところだったみたい」

「え?」


 以前、部屋を貸すという契約が解除されてしまうかもしれないと健斗は思い込み、悩んでしまったことがあった。結果としてはただ環境改善の話だったが、玲は自分に非があったと寄り添ってくれた。彼女は再び、以前よりも健斗の近くに寄り添って話を続けていく。

 

「前々から彼女には、いいえ、正確にはあの会社に思う所はあったからずっと考えていたの。だからだと思うわ」

「考えていた、ですか?」

「ええ。今から私がする話は、その考えについて共有する事が目的なの。……大丈夫。岡本さんの言いなりにならず、私と君が一緒に居続けられる方法があるわ」

「え……、そんなに都合のいい方法があるんですか?」

「ええ。私がこれまで、密かに温め続けていた計画があるの。……本当は、もうちょっと準備を詰めてからにしたかったのだけれど、そうも言ってられないみたい」


 玲は既に対策を考えてあったのだ。それは健斗が追いつめられてしまう前に、いや、それよりももっと前からどうしたらよいかを探り続けていたのである。健斗から見た彼女があまり動揺していないと感じたのは、こうなることをある程度予期していたからだった。けれど彼女の言う計画はまだ完璧とは言えないようで、但し、と玲は少し不安げになりながらも話を続ける。


「まだ見通しが完全でないという懸念事項はある。……それに加えて、健斗君が私の提案に乗ってくれるなら、という前提が付くのだけれど……」

「勿論です! 乗らせてください!」


 玲が言い切る前に健斗は身を乗り出して話に賛同した。玲は小さな口を開けて一瞬ポカンとしたが、すぐに気を取り直して彼に一度落ち着くように肩を掴んで座らせる。


「健斗君、まだ内容も話していない内から即答はあまりしないほうがいいと思うのだけれど……。それに、この計画は君の人生が左右される重要なもので……」

「いいです! このまま岡本さんの言いなりになるより絶対にマシですし、それに玲さんの事を本気で信じていますから! 俺の人生ぐらいかけますよ!」

「もう、本当に君は……。その言葉に、二言は無いわね?」

「はい!」

「……ちょっと待っていて」


 玲は自分のカバンから、クリアファイルに閉じてあった一枚の紙を取り出した。テーブルにそっと差し出されたそれを見た健斗は、それが何かは分かったが、一瞬理解が遅れて固まってしまった。


「話というのは、この二つ。健斗君には、こっちに同意して貰う必要がある。……出来れば、もっと落ち着いてからにしようと思っていたのだけれどね」

「……え、え、ええぇっ!? こ、これって……!?」

「そういう事。とても重大で、君と私の人生を大きく左右する決断になる。だから君の同意が必要なの」


 このやり取りの後、二人は部屋の貸し借り以上に大事な契約を交わす事となった。

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