第9話 近づく者

 風邪から復帰して溜まった仕事をこなしていく健斗は、一度休憩室に入る。あまり広いわけでないこのスペースは、数人入ればすぐにいっぱいになってしまう。


(今のペースなら問題なく終わりそうだな……)


 いつもは誰かしらが居る休憩室なのだが、珍しく健斗以外には誰もいない。これ幸いとベンチに腰掛けていると、健斗の知っている一人の女性が入ってきた。


「あ、音無さん! ここにいたんですね」

「岡本さん、お疲れ様です」


 彼女は健斗がいることに気づくとパタパタとヒールの音を立てて近づいてくる。顔を拳一個分ほどまで近づけて顔色を窺ってくる実子から優しめの香水が漂い、健斗は少しドキリとしてしまう。

 

「うん、治ったみたいでよかったですー。お休みと聞いて心配だったんですよー」

「はい、心配をおかけしました」

「いえいえ、私が音無さんに頼りすぎていたのが悪かったんですから」

「そんな事は……いえ、ちょっとそうだったかもしれません」

「そう、ですよねー。申し訳ないです……」


 そんな事はないと言う直前に、健斗はまた玲の言葉を思い出して自分への負担を下げてほしいとやんわり伝えることにした。この反応に実子はわかりやすくしょげてしまい、健斗は少し心を痛めてしまう。


「あ、そこまで気にする事じゃ無いですよ! ただ経理の仕事をあまり手伝うのはちょっと気が引けるというかですね……」

「……でしたら音無さん、一つ提案があります」

「提案、ですか?」

 

 実子は健斗の言葉に頷いた後、健斗の隣に座った。わざわざ肩同士がくっついてしまいそうに近い位置に座ってきたことに健斗は引っかかるが、彼女の真剣な表情から恐らく杞憂だろうと深く考えないようにした。

 

「もし今の作業が負担になっているのでしたら……うちに来ませんか?」

「うちって……経理にって事ですか?」

「はい」


 彼女の提案とは、自分の部署への引き抜きだった。実子は健斗が今の所属で無くなれば作業量が減るのではないか、と考えていた。思わぬ提案に思考が混乱してしまう健斗に、実子は更に詰め寄る。


「音無さんの仕事ぶりは、経理の皆さんも存じています。作ってくれた書類が丁寧だって皆褒めているんです」

「それは嬉しいんですけど、別にあれは俺の本業じゃないんですが……」

「でも、音無さんならかなりいい感じにやっていけると思うんですよ! それに……」

「それに? あの、なんか近いような……?」


 実子は健斗の太ももに手を置いて、更に距離を縮めてきた。手の感触や彼女の香りがより増した事にクラっと来てしまう。近いことを指摘するが実子は離れようとせずに健斗の目を真っすぐ見つめ続けている。

 

「心配していたんです。音無さんが仕事をいっぱい抱えさせられてるんじゃないかって。……冷女さんに」

「!」


 実子のこの言葉を聞いた途端、健斗は一気に冷静になった。彼にとって玲への非難はまさに地雷とも呼べる言葉だったのだ。健斗の目つきが厳しい物へと変わったことに気が付いた実子は、慌てて訂正する。


「あ、あくまでそういう噂を聞いたってだけですよ! 私は音無さんが優しすぎるからじゃないかと思ってますから!」

「そ、そうですか……」

「ですから……」


 実子はもうほぼ唇同士がくっついてしまいそうな距離にまで顔を近づけてきた。彼女の持ち合わせている愛嬌と魔性を生かした誘惑は、並みの男なら確実に落ちてしまうだろう。囁くように彼女は続ける。


「私と一緒の所に来てほしいんです……。貴方がいてくれたら、私もっと頑張れそうで……」

「っ……!」


 しかし、健斗の気持ちは目の前の実子ではなく玲の方を向き続けていた。彼女から顔を離し、席を立ちあがって彼は言い放ったのである。


「お気遣いありがとうございます、岡本さん。俺は泉さんの元で仕事するのが一番好きなんです」


 健斗は他の部署に移る気は無いとキッパリ告げた。実子はまさか断られると思っていなかったのか、目を見開いて呆けてしまう。しかし実子は一瞬で切り替えた後、いつもの笑顔に戻った。


「……残念」


 その呟きにどういう意図があったのか、健斗にはわからなかった。ただ彼女の笑みには、ほんのわずかだが黒い何かを感じさせるものだった。彼女のそんな表情を目の当たりにした健斗は、背中に冷や汗が流れるのを感じた。


「それでは私はこれで失礼しますー。音無さん、気が変わったらいつでも私に言ってくださいねー」

「……はい」


 健斗は底知れぬ彼女の言動に一抹の恐ろしさを感じた。今自分は何かの罠にかけられていた可能性があったのではないだろうか、と根拠は無いが感じたのである。しかし、幸いなことに彼には揺るがない理由があったのである。


「岡本さん……さっきのは断って正解だった、んだよな?」


 彼以外に誰もいない休憩室で、健斗ははっきりとそう呟くのであった。

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