第7話 嵐は去って

 ふと、健斗は今の状況に気づく。曇りガラスの浴室ドア越しでは、直接見えずとも彼女のシルエットは見えてしまう。男としてつい見てしまうが、早急に煩悩を振り切るために背中を向けて風呂のドアに背中を向ける。

 

「ごめんね、音無君」

「! ……何がですか?」

「もう少ししたら、元の私に戻るから。だから、もう少しだけ……」

「元のって……冷女なんて呼ばれてる泉さんが元々だって言うんですか?」

「……私は、皆の言う通り冷たい女だから」

「違います! 泉さんは冷たい人なんかじゃないっ!」

「っ!」


 外から聞こえる台風の音をかき消すように、健斗は思い切り言い切った。彼の言葉に、玲は動揺したままである。彼女にとって、健斗がなぜそこまで自分の事を信じてくれているのかが疑問だった。


「……どうして、そこまで言い切れるの?」

「俺が仕事を押し付けられていた時に助けてくれたじゃないですか!」

「え。……も、もしかして音無君、あの一回だけで私の事をここまで信じてくれていたの?」

「は、はい。最初はそうでしたけど……」

「ええー……?」


 健斗は、とても真っ直ぐな青年だった。あまりにも単純な理由に玲は呆気を取られて思わず気の抜けた声が出てしまう。


「部屋を貸すだけの契約だったのに、俺の部屋を使うときに毎回掃除機をかけてたり荷物を全部持ち帰ってたり、めちゃめちゃ気を使ってくれているじゃないですか! あとそれから朝と帰りの挨拶だって……!」

「あ、ありがとう音無君、もう充分だから! ……なんだか恥ずかしくなってきたわ……」


 玲は赤くなった頬両手をあてる。これほど人から真っすぐに褒められる経験があまりなかった彼女には効果抜群だったのである。そんな玲にお構いなしの健斗は更に進言する。


「この際だから言わせてもらいます。……もっと俺に頼ってください! 部下の俺相手に敬語なんか使わなくていいですから! 今みたいに話してくれるほうが良いです!」

「あ……私、普通に話してた……?」

「え? さっきからそうでしたよ?」

「き、気が付かなかったわ……」


 玲は自分の話し言葉が敬語で無くなっていた事をここで初めて自覚した。誰に対しても、健斗にも敬語を使うのが当たり前だった。玲自身が気を緩めた事や健斗が精神的な支えになっていた事が合わさった結果、無自覚に素で喋っていたのである。


 玲は一度考え込んだ後、意を決して健斗に尋ねる。

 

「ねえ、音無君」

「はい」

「……遠慮しなくても、いいの?」

「勿論です!」

「幻滅するかも……」

「絶対にそんなことはありません!」

「っ……!」

 

 健斗の意志の固さは、ドア越しでも玲に伝わった。一度冷めてしまった彼女の心が温まっていくのを感じる。

 

「ありがとう」


 その一言は、健斗の記憶の中でも一番柔らかで優しい感謝の言葉だった。




「それじゃあ音無君、また明日ね」

「はい。おやすみなさい、泉さん」

「ええ、……おやすみなさい」

 

 シャワーや夕食などを終えた後、音無は自分の寝るスぺースへ、玲は防音部屋へと入っていく。そこから朝までは、お互いの時間にすると決めたのである。玲が部屋の扉を閉めた後、二人は今しがた起きた事で頭がいっぱいになっていた。


「出過ぎた事を言ってしまったか……?」

「……とうとう、言ってしまったわね」


 防音部屋の壁を隔てているために声は聞こえない。けれども打ち明けた事、それを互いに受け入れたという高揚感のあまりに中々寝付けない所まで、二人はほとんど同じ事を一晩中していたのであった。

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