第8話 玲の心境の変化
健斗の家に向かう玲は、昨日の事を思い返していた。
『行ってきます!』
何気なく発せられた業務的でない彼の一言が、玲の心に残り続けていた。一人暮らしの状態では基本誰かと挨拶するような事もなく、オフィスでも自分の振る舞いで周囲との距離感は広く保っている。そんな中でいつもフレンドリーに接してくれる彼は、玲の中で特別になりつつあった。
「……私も、あんな風に返してみようかしら?」
そして健斗の家、玲は鍵を受け取り健斗は出かけるため玄関の外に出る。
「いってきます、泉さん」
「では、……っ」
「泉さん?」
玲は控えめに手を腰の位置まで上げて、頬をほんの少しだけ染めつつ一度目を逸らしてから健斗と目を合わせる。そして玲は、意を決して言った。
「い、いってらっしゃい。音無君」
「っ! は、はいっ!」
玲の恥じらいながらの控えめな挨拶は、健斗の心を蕩けさせるには充分すぎた。いつもより早足で去っていく健斗の背中を見送った後、顔が赤くなり頬に両手を添える。
「……これは、恥ずかしいわね。でも、悪い気はしなかった」
そこに立っていたのは、オフィスでは冷女などと呼ばれているとは到底思えない程の可憐な照れ笑いを浮かべた女性だった。
仕事時間中、配達業者からの連絡が入った。詳細を確認した後、チャットを開いて健斗宛てにメッセージを送る。
『お疲れ様です。今夜、注文したルータが届くそうです』
『わかりました! 今日の内に接続しますか?』
『はい、なので音無君の帰宅後に少々時間をもらいますね』
『もちろんですよ!』
(……反応が可愛いわね)
『それでは、よろしくお願いしますね』
『はい!』
今のやり取りをしていた玲は、またしても頬が緩んでいた。社員全員が笑顔を見たことがないと言われていた彼女なのだが、彼との契約が始まってからは本当に頬を緩める機会が増えていたのである。
玲は自分が『金の冷女』と呼ばれる事は知っている。その由来が、自分の行いによって周囲に怖がられているからだとも理解している。今や誰も、彼女とまともに目を合わせる事も出来ない。
そう、彼以外は。
誰かと目を合わそうとすると相手の視線は他所の方に逸らされる。或いは下、つまり体を見てくる男も多かった。そんな中で、彼だけは玲の目を怖がることなく真っすぐと見てくれるのだ。そんな彼に玲は強く興味を持った。
(あの時から、今もずっと……ちゃんと目が合うのは、音無君だけだった)
前に参加した飲み会でも同じだった。自分を取り囲む男達は体ばかりを見てくるばかりでうんざりしている中で、遠巻きから時々視線を送ってきていた彼からは、邪な意図は感じられない。
気づけば玲は、彼の話に聞き耳を立てていた。そこで彼の家にはどうやら使用していない防音仕様の部屋があるらしいという事を知った。内心チャンスだと思った。それは彼女が、一番欲しいと思っていた情報だったから。
(私はきっと、彼に甘えすぎてしまっている。でも今は、この時間がどうしようもなく心地良い)
今の彼女にとって、部屋の契約は手離したくないと強く思っている。けれどいつかは、離れなければいけなくなる。
「……どうにかしなければいけない。この時間を守るために」
彼女の抱える物とは、一体何なのだろうか。
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