第6話 初めて話した時の事
健斗が最初に助けられたのは、まだ入社一年目だった頃。彼が仕事に慣れ始めて残業をしていた時、二人は初めて会話をすることとなったのである。
「あら? うちの課にまだ残っている人が……?」
この頃の玲はまだ在宅勤務を開始しておらず、退勤する前に課のメンバーが残っているかどうかを確認する事が通例となっていたのである。そこで一人だけ残って作業している健斗を見て、玲は様子を見に近づいた。
「あの、……確か音無君、でしたよね?」
「えっ!? はい、そうですが……」
「この仕事、誰に頼まれたのですか?」
「え? ああ、さっき岡島部長に頼まれたもので……」
健斗の言葉を聞いて、玲は画面を覗き込んで内容を確認する。距離が近くなっている事に緊張する健斗だが、その事に気づいていない玲は一瞬だけ眉間に皺が寄った。覗き込むのを止めて健斗に目を向ける。
「これは、口約束ですよね。私に話が通っていない作業ですから」
「は、はい……。でも、いつもの事ですから」
「……いつも、ですか」
岡島部長はいつも定時退社することに拘っている。その点は良いのだが時間内にやりきれなかった作業を残っている誰かに押し付ける事がよくあるのだ。そこで真面目という印象の健斗に白羽の矢が立つ事は最早恒例と化していたのである。
「岡島部長は……先に帰宅されたと。これは私が次に出社した時に確認します。時間も遅くなってしまっていますから、君は帰っても構いませんよ」
「え、ですが……」
「これは課としての問題です。君一人が背負うべきではありません」
「は、はい……」
玲は健斗のパソコンからデータを自分のパソコンに送り、健斗に帰るよう促した。その場では二人ともそのまま帰宅した。
そして翌朝、事は起こった。
「岡島部長、これはどういう事か説明してもらえますか? 私の課の者に作業を押し付け続けていた事について、納得のいく理由をお願いします」
「い、泉くん。これはその……こ、この位なら良いかと思って……」
「部の長たる者がそんな甘えた事を言ってもらっては困ります。長の甘えが部下への皺寄せに繋がる、という事を考えた事があるのですか?」
「も、もう勘弁してください……」
社員全員が揃っている場で、玲は岡島を問い詰め始めたのである。相手は上司だとか、周囲の目があるとか関係なく、彼女は完璧に逃げ場を塞ぎながら岡島に全てを白状させたのだった。
岡島は周囲から自分の仕事を流してくるという悪い印象を持たれていた。しかし玲の迫力を見て流石に可哀そうだという声が上がってくる。つまり、この出来事によって社員達から『泉玲は周囲に厳しい冷女だ』という総評がなされてしまったのだ。
「う、うわー。部長相手にガンガン問い詰めてるぞ……うちの課長って、あんなにこえぇんだな……。な、音無?」
「……」
隣にいた聡一からも同じような意見が出てくるが、健斗だけは知っていた。
(泉さんはまだ名前も覚えていなかった部下のために行動できる優しい人だ)
この出来事から玲は冷女と呼ばれ、在宅勤務を開始してから金の、が付け加えられたというわけだ。健斗はこの出来事の事実と彼女の性格を知っているから、金の冷女という渾名が気に食わないのである。
(別に俺のために動いた、ってわけじゃないんだろうけど……あそこまでしてくれたら、どうしても意識してしまう、よな)
きっと玲は、あの場に誰が居残りをしていたとしても動いていただろう。けれど健斗にとっては、憧れを抱くには充分すぎる出来事だった。だから健斗は、彼女のために真面目に働くよう努めているのである。
ちなみに岡島部長は仕事の横流し癖が酷すぎたため、この数日後に左遷される事となった。玲に問い詰められたことがトラウマになったから、という一説もある。
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