第一部 ゴースト 2

 落ち着きを取り戻した麻衣子は色つきの肌へ戻った。二人は気を取り直し、電車で渋谷に戻り、最初に行く予定だった雑貨屋へ行った。麻衣子はあれこれと悩んだ結果、熊のぬいぐるみがワンポイントで入った皿を二枚購入した。その後、SNSで評判になったベトナムスイーツ店でチェーを食べた。時刻はもうすぐ四時になろうとしていた。


「さて、これからステージの準備だ」


 伸也はため息交じりに呟いた。


「あたしは亜美ちゃんと南ちゃんで飲み会」


「『なかきよ』か」


「そうよ。あそこが一番安全だしね」


「まあな」


『なかきよ』は透明症に理解のあるオーナーが経営している個室居酒屋だ。透明症はアルコールが入ると、どうしても気が緩んで、症状が出やすい。普通の店なら従業員が騒ぐ場合もあるが、この店では教育が徹底していて、トラブルはない。帰るときも、健常者の客から隠してくれる。


 伸也と麻衣子は渋谷駅から山手線に乗り、新宿駅で降りた。手を繋いで南口に出ると、せわしなく行き交う人々の間でマイクを持ち、何かしゃべっている男の姿が目に入った。ベルトのついたスピーカーを肩にかけ、背中にはのぼりをくくりつけてあった。のぼりには「透明症患者に理解を」と赤字で書いてあった。二人は足を止めた。


「我々透明症の患者は常に奇異な目にされされており、ストレスを感じております。それだけではない、透明症は感染するという根拠のない噂を信じる人々が未だにおり、様々な差別を助長しております」


 伸也と麻衣子は思わず顔を見合わせた。


「まだやってたよ」


「どうする……」


「あの人、結構周囲に気を配っているからね。俺たちも視界に入っているかもしれないよ。このまま引き返して、後でなんか言われたら嫌だし、進むしかないだろ」


「そうね」


 伸也と麻衣子は再び男に向かって歩き出した。自然に繋いだ手は離していた。


「安田さん、ご苦労様です」


「おお、宮本君か。麻衣子ちゃんも。今日はデートか」


 安田武彦はマイクを外し、笑顔を見せながら、腹の底から響く野太い声を出した。身長は百七十五センチの伸也よりも一回り大きく、肩幅も広い。紺色のスーツがはち切れそうに膨れていた。


 安田は全国透明症協議会を立ち上げた人物で、会長を務めている。「全国」と言っても、会員はまだ五千人程度だ。伸也たちは所属する共進会の早川と安田が親しい関係で、半ば強制的に入会させられていた。面倒見がいい反面、強引なところもあり、伸也たちは少し苦手だ。


「それが。今日は大変だったんですよ」


 麻衣子は女性が渋谷で透明症を発症させ、対応した話した。


「ほう、それは大変だったな。早川はもう対応に向かったのか?」


「いえ……そこまではまだ聞いていませんが」


「あいつも杓子定規だから、きっと明日見に行くんじゃないのか」


 安田は胸ポケットから携帯電話を取りだして電話をかけた。


「安田だ。今、お宅の麻衣子ちゃんから聞いたんだが、彼女と宮本君が渋谷で女性を保護したそうじゃないか」


 話しているうちに、安田の眉間のしわが急速に深くなっていく。


「そんな悠長な事を言っているからだめなんだ。悪いが、この件については俺に引き継がせてもらえるか……。ああ、わかっている。俺も訴訟が怖いからな、決して強引なまねなんかしない」


 安田が電話を切った。


「と、言うわけだ。君たちが助けた女性については俺たちが引き継ぐ。住所と名前を教えてくれ」


 言われるままに、伸也は奈緒の名前と住所を教えた。


「じゃあ、これからステージがありますんで、僕たちは行きます」


「ありがとう。彼女の面倒は俺たちがきっちり世話をするから心配するな」


 伸也たちは早速電話をかけ始めた安田に会釈をして歩き始めた。


「なんで彼女の話をしたんだよ。おかげでややこしくなっちゃったじゃないか」


「だって、このままだったら、先月みたいにパンフレットを配れとか言われかねないでしょ。伸也はステージがあるからって逃げられたかもしれないけどね」


 麻衣子はむっとした表情で前を見ながら歩いていく。伸也は言葉に詰まった。


 彼女の言うことはもっともだった。実際、先月は安田が演説をしているところへ通りかかった時に、ビラ配りをやらされていたからだ。


 それに安田が派遣する医師なら、経験も豊富だろうし、妙なトラブルにはならないはずだ。


 伸也たちは甲州街道沿いを東へ進み、明治通りの交差点で別れた。伸也は一人、更に東へ歩いて行った。


 新宿二丁目に入り、伸也は仲通りを進んだ。日も暮れ始め、雑多な飲食店が明かりをともし始めていた。伸也はそれらに目もくれず、緊張感が高まるのを意識しながら歩みを早めた。路地に入り、とある雑居ビルの前で止まった。STAFFONLYと書いてある薄汚れたスチールのドアを開ける。薄暗い照明の下、階段で三階へ上った。カードキーを取り出し、ドアにかざす。カチャリと解錠する音が響き、伸也はドアを押し開けた。LEDの照明が輝く場所は両脇にスチールロッカーが並んでいる。伸也はドアを開けたカードキーを再びロッカーにかざし、扉を開けた。中からダンススニーカーを取り出し、背中に背負っていたリュックサックからはグレイのスウェットを出した。服を着替え、リュックサックと外から着てきた服をロッカーにしまった。奥にあるドアを開ける。


 腹に響くバスドラムと、カラフルなシンセサイザーの音が絡みつくように伸也を包み込んでいく。


 部屋は板張りで広々としており、奥の壁はガラス鏡だ。音楽に合わせて、スエットを着た五人の男女が踊っている。


 彼らの首と手は透けていた。うっすらと、その輪郭が見えるだけだ。遠目から見ると、スエットと靴だけが動いているように見える。


「おはようございます」


 音に負けないよう声を張り上げる。部屋の隅で踊っている男女をにらみつけるように見ていた男が、視線を伸也に移した。男は黒のスエットで、普通の肌をしていた。腕を組み、鋭い視線を投げかける。


 伸也は男に軽く会釈をして、別室へ入った。そこはワンルームマンション程度の広さで、照明はやや薄暗い。ダンススタジオと同じく板張りだが、一段高くなっている。ドアを閉めると、音楽は一切聞こえなくなり、静寂が支配する。伸也は靴と靴下を脱いで裸足で部屋の中央へ行き、結跏趺坐になった。背筋を伸ばして目を閉じる。


 腹式呼吸をしながら、雑念を追い払っていく。


 伸也の顔から、色が失われていく。五分ほどすると、伸也の顔や手足は完全な透明になっていた。


 目を開け、壁に取り付けてある姿見を見て、無意識のうちに小さく息を吐いた。立ち上がり、靴を履いてドアを開ける。


 音楽の代わりに、男の怒鳴り声が響いてきた。


「何度言ったらわかるんだ。クラブ活動してんじゃねえんだからな。お前らが働く仕事がここ以外、どこにあるっていうんだ。それとも生活保護をもらって部屋に引きこもってる気か」


 ダンサーたちが直立し、顔をこわばらせながら男の説教を聞いていた。


 やれやれ、親父またやってるのか。伸也は怒鳴られているダンサーの横で、淡々とストレッチを始めた。


「いいか、役所やメディアは差別をなくそうなんて題目を並べているが、カラーズどもは一切そんなこと思っちゃいねえんだ。たらたら切れのないダンスをしてたら、てめえの首を絞めるだけなんだからな」


 男の説教は更に続いた。伸也のストレッチは終わったが、何もせずにいるのもバツが悪いので、そのままストレッチを続けた。


「おい伸也、延々ストレッチしてんじゃねえ。こいつらと一緒に練習を始めろ」


「荒川さんが延々話をして、練習が再開しないからですよ」


「これから始める。立て」


「はい」


 伸也は立ち上がり、他のダンサーの中に入った。前にいた男がクロスターンをして、伸也に向き直った瞬間、目を大きく開けてペロリと下を出した。伸也は笑いそうになるのを、しかめっ面をして押さえる。


 音楽が始まった。ツーステップ、ウォークアウト。荒川の鋭い視線を浴びながら、各自が基本的のステップを踏んでいく。


 軽く汗が滲んできた頃、まだ貴斗が来ていないなと想い、チラリと時計を見た。もうすぐ五時だ。ウォッシュアウトには最低でも五分かかる。五時までに完全に透明な状態でこの場にいるのは不可能だ。当然荒川もそのことは意識しているのだろう。もともと険しかった表情が、時計を見るたび、更に険しくなっていく。


「おまえら、貴斗から遅れる連絡は受けていないな」


 伸也たちは顔を横に振ったり、知りませんと答えたりした。


「おはようございます」


 ドアが開き、男がスタジオへ入ってきた。伸也と同じくらいの若い顔立ちで、白いスエットの上下を着ていた。小野貴斗。DROPのダンサーだ。髪の毛は短く、金髪に染めている。荒川はじろりと貴斗を睨みつけ、音楽を止めた。静寂が訪れ、張り詰めた緊張が室内を支配した。


「貴斗、遅刻だぞ」


 荒川が低い声で呟いた。


「さっきまで、彼女に絡まれて大変だったんですよ。浮気してるだろなんて、あらぬ疑いをかけられちゃいまして。あ、ペナルティだったら払いますよ」


 挑発的な目で、ヘラヘラと笑みを浮かべながら話す貴斗に、荒川の頬が震えた。


「ふざけんな、金の問題じゃねえ」荒川の声がスタジオに響き渡った。「ここにいる全員、お前を待っていたんだ。今夜のステージをどう思ってんだ」


「最終的にいいステージになればいいんでしょ」


 貴斗は口元には笑みを浮かべながらも、荒川に鋭い視線を向けていた。


 荒川の怒りに満ちた目が、冷ややかに変化していった。「お前、俺らに謝ろうという気はないのか」


「不可抗力さ。謝る必要なんかないだろ」


「遅れるのがわかった時点で、連絡をよこすべきじゃなかったのか」


「へへへ、うっかりしてましたよ」


「なあ貴斗、ここは学校じゃないし、俺はボランティアでこの仕事をしているわけじゃない。仕事に差し障りが出る奴がいれば、契約を切るだけだ」


「貴斗、荒川さんに詫びを入れろよ」


 伸也の隣にいた雄大が睨みながら声を上げる。彼に引きずれるようにして、メンバーから謝れと声が上がる。


 一瞬、貴斗の目が揺れたが、すぐに消え、ナイフのような鋭い視線が復活した。メンバたちを刺すように見つめる。


「俺は謝らない。荒川がそう言うなら、俺の方から契約を解除してやらあ。大体、何でお前らは荒川みたいな奴の言うことを聞いてんだ。怒鳴り散らされながら、安いギャラで長い時間拘束されてよ。伸也、お前もおとといグタグタ文句を垂れてたじゃねえか」


 不意に敵意を差し向けられた伸也は、顔がこわばった。


「だいたいよ、荒川の子供がクリアだなんて、誰が証明できるんだ? 俺は怪しいと思っているんだ」


「プライベートな話には答えない」


 荒川の顔から、すっと血の気が引いていくのがわかった。肌から怒りがにじみ出てくる気がする。


 クリアというのは透明症の通称だ。荒川の息子が透明症というのはあくまでも噂であって。本人が言っていることではない。


「貴斗、言い過ぎだぞ」


 雄大の切羽詰まった声にも、貴斗はひるむ様子がない。


「もういい。貴斗、お前との契約は解除する」荒川からの殺気は消えていた。「ロッカーの私物を持って、すぐに出て行け。二度とここへ踏み入れるな」


「わかったよ」


 貴斗は怒りをみなぎらせた目で全員を見回したあと、きびすを返し、部屋から出て行った。荒川は携帯電話を取り出すと、セキュリティー会社へ電話をし、カードキーの設定を変えるよう依頼し始めた。


「行っちゃったよ」


 あっけないほどの決別に、伸也は実感が湧かず、ぼそりとそう呟く以外、言葉が見つからなかった。貴斗とは施設に入った頃からの付き合いで、ダンサーになるため、ともに切磋琢磨してきた仲だった。彼がどんな思いでダンサーを目指していたか、誰よりも知っている。それだけに、こんな事態になってしまったことは衝撃だった。


 兆候は前々からあった。ここ半年くらい、高校のダンス科の飲み会にはほとんど参加していなかった。同期の話によると、最近、筋の悪い連中とつるんでいたらしい。荒川とぶつかることも多くなっていた。


 契約を切られた以上、貴斗がここへ戻ってくることは二度とないだろう。ただでさえ、このDROPへのステージへ上がるための競争は激しい。伸也のいた高校のダンス部は、全国高校ダンスコンテストでも優勝経験がある。この中から十人がオーディションへ参加したものの、採用になったのは伸也と貴斗だけだった。


「お前らぼさっとしてんじゃねえ、これからフォーメーションを変更する。ステージまで後一時間だ。集中していけ」


 荒川の怒鳴り声が響き、メンバーたちがはっとして、目つきが変わる。貴斗の件は大事だが、今はこれから始まるステージを乗り切らなければならない。客に無様なステージは見せられない。


 荒川の指示は迷いがなく、的確だった。三十分ほどでフォーメーションと振り付けを変更した。後は伸也たちが完璧で切れのある踊りを見せなければならない。ステージが始まるまで後二時間、通し稽古をしている余裕はない。


「伸也、お前ならできる」


 荒川が鋭い眼光で伸也を見つめていた。


「はい」


「そうさ、お前だったらやれる。俺たちがケツ持ちだからな」


 雄大がニヤッと笑った。他のメンバーからも、そうだ、そうよという声が上がった。


 荒川は日々怒鳴っている印象があるが、人の表情を読むことに長けている。今のように、伸也が不安になったタイミングをつかみ、声をかけてくる。


 あっという間に一時間が過ぎ、ステージ衣装を着る時間が迫ってきた。完璧とは言いがたい状態だが、客を帰すわけにはいかない。控え室へ行って、スエットから衣装に着替える。腰のあたりは隠れるようになっているが、そのほかは透けている。


 鏡に向かって、透明な体に汚れやゴミが付着していないかチェックする。小さな汚れでも、光彩が乱れてしまう。


「マレック、行くぞ」


 雄大が立ち上がり、伸也の背中を叩いた。マレックは伸也のステージネームだ。控え室を出て、舞台袖に入った。女子メンバーの美帆と奈美はすでにいた。緊張で顔をこわばらせている。荒川は調整室でスタッフに指示を飛ばしているはずだ。リハーサルもないのにMEマイクロウェーブエンジニアとの連携がうまくいくかどうか。荒川を信頼するしかないだろう。


 壁に取り付けてあるモニターには、満員になっている観客席が映し出されていた。


「お客様にお知らせいたします。本日は都合により、ジョイは欠席することとなりました。6名のメンバーにより、ショーを開催させていただきます」


 会場内に「エーッ」という不満げな声が上がり、ジョイのファンらしき女性が何人か席を立っていった。それでも、大半のオーディエンスは目を輝かせて、ショーが始まるのを待っている。みんな怒って帰ったらいいのになという想いか浮かび上がるが、心の片隅へ追いやる。


 メンバーの不安を無視するように、二十時が過ぎると同時にバスドラムとシンセサイザーが響き始める。ステージへ上がるタイミングはメンバーに任されているが、そうそう客を待たせるわけにはいかない。


「行くか」


 雄大が両手を広げたのを合図に円陣が組まれる。


「DROP、気合い入れていくぞっ」


「おうっ」


 伸也はステージへ走り込み、中央へ立った。


 オーディエンスが一斉に立ち上がり、声をあげる。


 瞬間、不安は一気に吹き飛び、勝手に体が動き始めた。


 動きを予測するかのように、マイクロ波がピタリと透明な体を刺し貫き、美しい色彩が発散される。


 切れのあるダンスと、その回りでめまぐるしく変化していく色彩、興奮した客たちの熱気と歓声。すべてが一体となり、生き物のように空間がうねり出す。真っ白になった頭で、体を動かし続ける。


 あっという間に時間が過ぎ、ショーは終了した。


「ありがとう」


 伸也は手を振りながらステージを去った。


「やれやれ、どうにかなったぜ」


 雄大が笑顔を見せながら伸也にハイタッチをしてきたので、手を合わせる。全員でハイタッチが始まった。


「しかし貴斗も、ステージの直前で喧嘩別れなんて、バカヤロウよね」


 美帆が吐き捨てるように呟いた。


「ホント最低よ。ステージがぽしゃったら訴えてやったわ」


 美奈が同調する。


 二人の言葉は、充実感で満たされる心に水を差したが、雰囲気を壊すのが嫌で、微笑みを浮かべた。


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