13 妹



 子供の頃に思い描いていた未来の自分は、どんなだったっけ。

 なにか将来の夢があったはずだが、今となってはもう思い出せない。


 少なくとも、可愛い女の子と結婚して幸せな家庭を築いて……という一般的な願望はなかったのは確かだ。

 ただ、玲司が夢を語っていたところだけは、鮮明に思い出せる。


『僕はね、世界中を旅して、そのことを文章に残したいんだ』

 常に冷静でリアリストの玲司にしてはロマンティックな夢だと思った。

 もっとも、そんな話をしていたのは小学生の頃で、高校生になる頃には金融系の会社に就職希望だと言っていたはずだけど。


 大学も、経済学部に行く予定だと聞いていた。

 ただ、その理由はおもしろかった。

『経済の仕組みがわかれば世界のことがもっとよくわかるようになるから』だそうだ。


 玲司の本質は昔からずっと変わらない。

 知らないことを知りたいという探究心。その一心で、一見つまらなさそうにも見える勉強にも生真面目に取り組んでいるやつだったのだ。


 そういえば、大学受験が終わったら、春休みにオーストラリアのエアーズロックに行きたいとか言ってたっけ。

 旅行費用を稼ぐため、高校二年の夏休みのはじめに始めたバイトは、玲司の死により引きこもりがちになった俺には到底続けることができず、たいして稼げないうちに辞めてしまった。



「エアーズロック、行ってみるか」

 よるの家の玄関の前まできたところで、俺は意を決して口を開いた。

 ちょうど玄関の門に手をかけたところだったよるがそのまま振り返る。


「兄さんが行きたがってたところ?」

「知ってたのか」

「兄さんの部屋に、ガイドブックが置いてあったから」


「受験が終わったら、行ってみるか……? 費用なら俺が出す」

 給料は良くも悪くもないごくありきたりなサラリーマンだが、金がかかる趣味もないため、貯金ならそこそこある。

 よるは押し黙り、考え込むような仕草を見せた。

 やがて、ひとりごとのようにぽつりとこぼす。


「…………なんか、昔読んだ小説みたいだね」

 そんな小説、あっただろうか。

 思い出せずに困惑する俺の前で、よるはくるりと体ごと振り返って笑った。


「もし行くなら自分でお金貯めて一人で行きたいから、志岐はついてこなくていいよ」

「一人で?」

「一緒に行くって約束したのは、兄さんと志岐でしょ? そこに『私』は必要ない」

 俺の存在を疎ましく思いながらも、決して俺の領域を壊そうとはしなかった小夜子らしい考えだった。


「……っ、小夜子は……小夜子は、どこか、玲司と一緒に行くことを約束していた場所とか……玲司と行きたかった場所とかはないのか?」

 なんだかいたたまれない気持ちになって問えば、小夜子はきょとんとしていた。

「兄さんと?」

 再び、考え込む仕草。


「……遊園地」

「……え?」

「父さんと母さんは忙しくてあんまりそういうところ連れていってくれないから、兄さんが連れて行ってくれるって言ってたの。……夏休みの最後の日に」

「…………あ」


 八月三十一日。俺の誕生日。

 その日に映画でも行かないかと誘ったら、『妹と約束があるから』と断られていたのを思い出した。

 そうか、その日は、遊園地に行く予定だったのか。


「よく考えたらその日って、志岐の誕生日だったわね」

「……そうだよ。妹との約束の方が大事だから、ってデートの誘いを断られたんだよ」

 少々恨みがましい口調で言うと、小夜子は「ふふ」と頬を緩ませた。

「兄さんが、志岐の誕生日よりも私を優先してくれて嬉しい」

 いつの間にか、小夜子は女の子らしい口調に戻っていたが、そっちの方が『らしい』気もして、俺は内心ほっとしていた。


「可哀想だから、今年は私が誕生日にデートしてあげてもいいわよ」

「遊園地で?」

「どこでもいいわよ。遊園地は、ほんとは兄さんと行きたかっただけだから、志岐と行きたいわけじゃないし」

『恋人』としてではなく、『親友の妹』としての言葉。


 やっぱり、こっちの方がしっくりくる。

 一応がんばってみたものの、俺と小夜子は、恋人になるには向いていないみたいだった。

「もっと可愛げのあることを言ってくれれば、従兄弟のお兄さんが、貯金はたいて好きなところに連れていってやるぞ」

「志岐の貯金なんてたかが知れてるでしょ。映画でいいわよ」

 言いながら違和感を覚えた様子で、小夜子が首を傾げる。


「……やっぱりこっちの喋り方の方がしっくりくるわね」

「だろう? 小夜子は可愛い女の子なんだから」

 大きな瞳がぱちぱちと瞬く。

 面を食らっているのとは少し違う、眩しいものでも見たかのように、その瞳は綺麗な光を映し出していた。


「今の台詞、兄さんも私によく言ってくれたわ」

 懐かしいものを見つけたような顔だった。

 そうか、髪を切る以前の彼女がずっと髪を伸ばしていたり、おしとやかな口調で喋っていたのは、兄が望む『可愛い女の子』でいたかったからか。

 俺は苦笑した。


「俺たち、別れよう」

「…………」

「ごめん、今まで、俺のわがままに付き合わせて。もう、男のふりはしなくていい。玲司が大好きだった『可愛い妹』に戻ってくれ」

「……別にかまわないけど、なんだか、これじゃあ私が振られたみたいね」

 小夜子は特にショックを受けているそぶりはなかったが、つまらなさそうに呟く。


「ええと……じゃあ、今度は俺の『妹』になってくれ」

「嫌よ」

 即答だった。それには俺の方が少々傷ついた。


「玲司の代わりになろうっていうんじゃないんだ! ただ……俺たち、恋人には向いてないし、友達っていうのとも違うし、他人にもなれない。永遠の恋敵で……家族に近いなにか、っていう方がしっくりくるだろ?」

 小夜子の裸体にうっかり興味をひかれてしまったのは否定しきれないが、抱けるかどうかはまた別の話で、多分俺は、欲情よりも罪悪感に耐えられない。


 小夜子は腕組みをして、じろりと俺を見上げてきた。

「まあ、従兄弟だし、血の繋がりがあるのは事実だしね」

「そうだろう?」

「キスするだけで複雑そうな顔するし、据え膳状態の恋人が目の前にいてもまったく手を出す気配のないヘタレだし?」

「……う」

 それにはいろいろ事情が、と言いたいところではあったが、恋人として失格であるのは事実なので、反論できない。


「でも、顔は無駄によくて『王子様みたい』とかいつも言われてるし、車の運転はできるし、面倒見はいいし、一般論で言う『兄』として不足はないわね」

 一般論ってなんだろう。使い勝手のいい身内、みたいな扱いだろうか。


「お兄ちゃん、って呼ばれたいなら、呼んであげてもいいわよ」

 ものすごく上から目線で、高飛車に言い放たれた言葉であったが、お兄ちゃん、という響きには、存外ときめくものがあった。俺は一人っ子で、妹も弟もいないのだ。


「れ、玲司と俺が結婚してたら、ほんとに『お兄ちゃん』になってたんだろうな……」

 妙に気分が舞い上がった勢いで、つい、言ってはならないことを口にしてしまった。

「……殴っていいかしら」

 わりと本気めの殺気を感じて、俺は顔をひきつらせる。

「ごめん!」


「玄関先でなに騒いでるの、あなたたち」

 どう弁解しようか悩んでいたところ、玄関のドアがあいて、小夜子の母親が顔を出した。


 ここ数年はほとんど家にいなかった彼女を見たのは久しぶりであったが、相変わらず、年を感じさせない、綺麗な人だ。

「志岐くん、昨日は小夜子が世話になったわね。ありがとう」

「いえ……」

「お昼ご飯用意してあるの。あがって」

「え……」

 玲司と小夜子の顔は母親似だ。クールな兄妹とは違う、にこやかで華やかな表情には、あらがいがたい雰囲気がある。


「お昼ご飯って、どうせお寿司でしょ」

「だってスペインのお寿司って、日本とは違うんだもの。たまに帰国したら、お寿司食べたくなるでしょ?」

「私はお寿司なんていつでも食べられるわ」

「あなたも、海外に何年もいたら私の気持ちがわかるわ」

 小夜子は返事をすることなく、そのまま自分の家の中に入っていってしまった。


 おばさんは改めてこちらの方を見る。

「お線香、あげていってよ」

 控えめに微笑む顔は、玲司の笑い方によく似ていた。

「……はい」


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